愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



優しいつぼみ*1  ||―ヤサシイ ツボミ―

 弥久はどうしていいかわからなかった。なにも考えたくないけれど、考えないといけないことばかりな気もした。うんざり、という言葉がいちばん当てはまるかもしれない。
 うんざりした気持ちで水色屋の一室の壁にもたれかかり、うんざりした気持ちでうずくまる夜依を見ていた。普段の自分ならもっと夜依を心配するだろう、と頭の中では考えられるが体は動かない。声を出す気にもならない。
 なにをどうしていいのか、わからないのだ。
 利彦と沙智が死んだ。
 あのときの藤下泉で、夜依は気を失っていたし弥久もセンも呆然としていた。そこに源衛とハチロクの男が来て三人を水色屋に連れ帰った。利彦と沙智の亡骸はそのあと運んだのだろう。
 弥久は芳安先生に肩を診てもらって、それから、このままだ。センだけは別の部屋に連れて行かれた。ハチロクに捕まるのだろうか。
 たしかに、見た。センの片方の瞳は白かった。
 暗い。うす暗い。日の出が早い季節なのにまだ日は昇らない。もう日が昇ることなんてないんじゃないかとさえ思えてくる。
 がたがたと不器用に襖を開く音がした。見るとセンが立っている。返り血をだいぶ浴びた着物から着替えていて、さっぱりしていた。
「あ、の。ちょっと、いいかな」
センの視線が夜依に向く。夜依と話しても良いかということか。別にどうでもいい。好きにすればいい。答えるのも面倒で黙っていると、
「だ、大丈夫。刀は置いてきたから。触りもしないから、お願いします」
口早にセンが言った。
 刀がなんなんだと思う。クルイになったセンなら、刀なんてなくても夜依も弥久も簡単に殺してしまうじゃないか。
「ああ、いいよ」
何か答えなければセンはずっと弥久に声をかけてきそうだった。
「夜依ちゃん」
 センが声をかけても夜依は動かない。センは夜依の隣に腰を下ろした。
「ごめんね、夜依ちゃん、ごめんね」
センは謝った。
「センさんが、謝ることなんて、ないんです。わたしなんです」
久々に夜依の声を聞いた。
「責めているのかな、自分を」
夜依がうなずく。
 夜依は悪くない。声を出そうとしたが、先に夜依が続けていた。
「わたし、は、利兄ぃに酷いことをしてしまったんです。利兄ぃが狂環師だと思って、あんな」
それは弥久の知らない話だった。でも確かに最近の夜依はおかしかった。
「もう、謝ることもできないんです」
やけに静かな声の後、急に夜依は激する。
「お兄ちゃんのことだってっ。刺すなんて、あたしっ。もし、もし、腕が動かなくなっちゃ、ったら……っ」
「夜依っ」
自然と大きな声で呼んでいた。夜依がこっちを向く。涙にぬれた黒い瞳。
「大丈夫だ、俺は大丈夫だから」
夜依の目じりから涙が零れた。
 夜依を悲しませる自分なんか居てはいけない。肩の傷だって、足のことにしたって、もし夜依がそれに負い目を感じると言うなら無理やりにでも動くようにしてやる。
「大丈夫だから、泣くな」
そう言うと、夜依は口元だけで微かに笑い、瞳からは涙を流した。。
 夜依の静かな嗚咽が続いた。センは何も言わないし、弥久もまだ何を言えばいいのかわからない。
「わたし、利兄ぃのことが好きだった」
 夜依が呟いたのは、しばらく経ってからだった。
「弥久さん、泣いちゃうね」
少しおかしそうにセンが弥久を見る。
 泣きはしない。うすうす気づいてはいた。かといって利彦には沙智がいたし、今はふたりともいない。そのことを思い出し鼻の奥が熱くなった。
「でも沙智姉ぇのことも大好きです。だけどきっと、沙智姉ぇは違ったんです」
「そこは疑うな」
低い声でセンが言う。夜依が目を見開きセンを見つめる。セン自身も驚いたのか、「あ、ごめんね」とすぐに謝った。
「夜依ちゃんの体に刺青はないでしょ?」
 一転し、センは柔らかい声で聞く。
「いれずみ、ですか」
 夜依はかしげた首を、ちょっと考えてから横に振った。
「狂環師が手っ取り早く人をクルイにするにはね、刺青を入れるんだ。でも夜依ちゃんにはそれがない」
センの背に刻まれた刺青がそれなのだと、聞かなくてもわかった。
「どうして、ですか」
「きっと夜依ちゃんの体に痕を残したくなかったからだよ。言い方は変だけど大切だからこそ、ゆっくり狂わせたんじゃないかな」
それなら、センを狂わせた奴はセンのことを大切に思っていなかったということなのか。
「でも、じゃあ、わたし……っ」
 夜依の瞳からは涙がぽろぽろと零れる。センは手を伸ばし、肌に触れる寸前で止めた。なぜかと思ったが、さっき弥久に言ったことを守っているのだと気付いた。いいよ、と声をかければいいのに口に出せない。まだ言葉も体も思い通りにならない。
「夜依ちゃんは、ただうなずけばいいんだ。『うん』って言いな。今はそれで良い、心は後から付いてくるだろうから。ねぇ、夜依ちゃん。詠花さんも利彦さんも、もちろん弥久さんもみんな、夜依ちゃんのことが大好きだ。誰も恨んでも怒ってもいないよ」
 一段と夜依の顔がゆがんだ。開きかけた口がわなわな震えている。ひゅっと息を吸い、
「は、い。はい」
夜依は返事をした。
 センが立ち上がる。夜依はセンの顔を見上げた。
「さよなら」
弥久の場所からはセンの背中しか見えないが、その言葉は自分にも向けられているような気がした。
「センさん、行っちゃうんですか」
泣いて掠れた声で夜依が聞く。
 ひとつ、ふたつ、沈黙。
「俺ね、クルイなんだよ」
「え」
センはそのまま部屋を出ていこうとする。
「弥久さん」
襖に手をかけ、背を向けたままセンが言う。声が震えていた。この震え方を知っている。だからこそ、咄嗟に言葉がでなかった。
「俺のこと友達って言ってくれてうれしかった。ありがとう」
「セン、さ、」
「もう、いいよ。いいから」
ピシャと襖が閉まった後になって「センさんっ」なんて大声が出た。
「センさん、泣いてた」
 ぼうっとした様子で夜依が呟いた。そう、あの声の震え方は、そうだ。
 短い間になぜ、同じ過ちを繰り返してしまうのか。
「夜依」
謝る術も見つからず、夜依の名を呼んだ。



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