愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



藤下心中*2  ||―フジシタ シンジュウ―

 センはクルイを殺すのを止めない。やや狼狽えていたクルイたちが、またセンを襲いだす。
 センは夜依や弥久を守ろうとしてくれているはずなのに。優しい人のはずなのに。
 センが弥久に向けたのは紛れもなく殺気だった。
(センさんはきっと、痛みを知っている人だ)
そんなセンは、微かな傷さえ誰かに負わせることを厭うと思っていた。そんなセンの像が、ぐらぐらと揺れている。
 クルイを殺していくセンは楽しそうだから。
 刀を振り回し、突き刺し、血に濡れた顔を拭い、その手の血を舐める。にやりと笑い、また殺す。疲れを知らず殺していく様は、まさに――。
「お、に」
 弥久が呟いたとき、一瞬だけ静けさが藤下泉を包んだ、気がした。
 センに向かっていったクルイたちが急に引く。おびえた鳴き声を上げ、暗い森に逃げていく。いや、逃げて行った獣たちの瞳は黒かった。もうクルイじゃない。
「なんだよ、なにがあったんだよ」
 利彦や沙智はどうなったのか。クルイがもとに戻ったということは、まさか、沙智の身に何かあったのか。でも利彦がついていて、そんな。
 殺気が弥久の思考をぶった切る。はっと顔をあげる。
「セン、さん」
片目が白いセンが、血の滴る刀をひっさげ弥久と夜依を見下ろしている。見たことがないくらい活き活きとした顔。
(殺されるんだ、センさんに)
 すっと腑に落ちる。それはとても自然な感情だった。
『いざとなったら、俺から逃げなよ』
この言葉の意味も。
 でも無理な話だ。逃げる気さえ殺ぐ、センの片目、白い目。
(こわい)
 センが刀を持つ腕を上げる。
 夜依を包み込むように抱きしめたが、センならきっと弥久の腕ごと夜依を真っ二つにしてしまう。
「センさん、やめろ」
呼ぶ声が震えた。
 あきらめちゃだめだ。
 夜依を殺されるわけにはいかないし、センのためにも、ここで自分があきらめてはいけない。震えながらそこまで考え付いた弥久にできることはひとつだけだった。
「センさん、センさん、センさん」
馬鹿のひとつ覚えに、名を繰り返し呼んだ。
『名前を呼んであげて。夜依ちゃんはまだ戻れるから』
 センの言葉を頼った、縋った。
「センさんだって、大丈夫だ。戻ってこいよ、センさん」
センの動きが遅く見えるのは錯覚か、それとも躊躇ってくれているのか。
「センさん、センさん、センさんっ」
 夜依を強く強く抱きしめ、センの名前を呼んだ。
 遅い動きも進んでいき、刃は間近に迫っていた――。
「センさ、……っ」
 痛みが、走る。目の前が暗くなる。
 火傷の痛みに似ていた。かっと熱くて、そのあとはひりひり。荒い息遣いは自分のものか。息をしているということは生きているのか、自分は。
 そこまで考えが至り、やっと目をかたく瞑っていることに気付いた。薄く目を開ける。切っ先が頬のすぐ横にあり、思わず身を引いた。
 センは刀を持つ右手を左手で押さえつけていた。力を込めているのか、すごく震えている。そのうち、がしゃりと刀が地面に落ちた。
「センさん」
声をかける。センとまともに目が合った。両目とも黒い。途端、センは地面に額をこすり付けた。涙声で謝りはじめる。
「ごめん、ごめんなさい、弥久さん、夜依ちゃん、ごめん、なさい」
 うずくまり土を掻きむしるセンの姿はかわいそうだった。ただただ、かわいそうだった。
「逃げやしねぇよ、友達じゃねぇかよ」
センは顔を上げ、弥久を見つめた。見る見る両目が丸くなっていく様が少しおかしかった。間抜けな顔だ。笑おうとしたけれど、なぜかセンを友達と言ったことに何か悔いを感じて、笑えなかった。
 センは間抜け面を歪ませ、
「ありがとう」
と言った後、また謝った。
「ごめんなさい」
 顔をそむけたのかと思ったが、違う。センは振り返って泉を見たのだ。そこにいる、ふたりを。弥久も目を凝らす。
 ぐったりと泉の中に倒れこむふたりは、岩かなにかのようにただの黒い影だった。
 わかった。それを見ただけで、弥久には何がどうなったか、よくわかった。いや、見る前から、わかっては、いたのだろう。
 それなのに、聞かずにはいられなかった。
「なあ」
自分でも驚くくらい低く冷たい声だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん、なさい」
 これ以上を言えば、センを無闇に苦しめるだけなのに。追い詰めるだけなのに。
「利兄ぃと、沙智さんは、どうなったんだよ」
震え、謝り続けるセンにそれ以上を求めるのは酷だ。わかっていて、聞いた。悪いのは全部お前だと言わんばかりに。
「どうなった、んだ、よ」
 自分が受け入れられないからって、センを責めるのは間違っている。そんなことしたらセンは自分の所為じゃないのに自分を責めてしまう。
 頭の奥ではやけに冷静に物事を考えられるのに、言葉が止まない。発する前から悔いることがわかっているのに、言葉は、止まない。
「おいっ、何とか言えよっ」
 センが「ひ」と喉を鳴らした。
「ごめんなさいっ、ごめんなさい……ごめんっ、な、さいっ」
センは詫びつづける。
 弥久は今さら心と体がくっついて、なんとか言葉が呑み込めた。いろいろな後悔が涙となって押し寄せる。センも泣いている。
 ああ、そうだ――謝るのは、本当なら自分だ。結局、センを利用したにすぎないのだから。
 自分がどんなに傷ついても誰かを守ろうとする、愚かしいほど優しいこの人の心を、使い捨てたのだ。
 ごめんなさい、ごめんなさい。喉の奥がふるえて声は出なかった。弥久は嗤ってしまう。この口は余計なことばかり軽々しく喋り、肝心なことは何も言えない。喉のふるえは、全身に広がった。
「は、ははぅ、う、うあぁああ……っ」
 結局、涙しか出なかった。
 優しすぎるセンに縋ったことも、心の傷に触れさせたことも、出会いさえも後悔した。
 思いやれず傷つけることしか出来ないのだから、友だなんて言うべきじゃなかったのだ。



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