愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



優しいつぼみ*2  ||―ヤサシイ ツボミ―

 センはどれくらいの間そうしていたのか、すぐにはわからなかった。気付いたときには、朝陽が辺りを照らし始めていた。
(どこだっけ、ここ)
 辺りを見回す。水色屋の隅にある小屋の陰だった。
(はやく、逃げないと)
藤下泉に三枝が来たのをぼんやり覚えている。クルイになった姿を見られたかもしれない。逃げなければ。逃げなければ、と考える頭とは裏腹に体は縮こまっていく。
 膝を抱え、顔をうずめた。ぎゅっと体を硬くした。
 ぐちゃぐちゃだ。
(やっぱり、こんなところに長居するんじゃなかった)
 なぜ、いつも同じ過ちを繰り返すのだろう。
 クルイであるセンには、こういう終わり方しかないとわかっていたではないか。狂って、壊して、殺して、怖がらせて、傷つける。
 直後は覚えているのに、それしか出来ないのに、差しのべられたぬくもりに触れてしまう。
 優しい人たちの心から優しい言葉に励まされて、浮かれて、自分は自分だと立ち直る。結局、クルイなのに。繋がりなんて、辛いだけなのに、繰り返してしまうのだから、これは過ちなのだろう。
「もう、やだ」
 こんな、あたたかい人たちのいる場所に長居なんてするんじゃなかった。
 ざざ、と地を摺る音が聞こえ顔を上げる。この足音は、
(弥久さんだ)
足音が近づいてくる。息を殺した。弥久が通り過ぎるのを待つ。見つかって、冷たい目を向けられるのが恐い。
 いくら本当のことでも、クルイであることに慣れない。鬼と言われて苦しむ心が残ってしまっている。
 センの想いに反して、弥久の気配はどんどん近くなってくる。どうしようか迷っているうちに、動く動かないどちらにせよ、気付かれてしまうほど弥久は近くなっていた。
「センさん」
 姿が見える前に声がした。やはり弥久だった。
「いるんだろ」
と言ったときには、弥久が小屋の裏を覗き込んでいた。
「あ、や、ひ」
言葉が出ない。
 何も許されない。言葉を発することも、弥久を見ることも、息をすることもセンには、クルイにはいけないことであるような気がした。だから謝りたい。姿を見せてごめんなさい、息をしてごめんなさい、言葉を発して。
「ごめんなさ、」
「謝るなよ」
弥久がさえぎる。冷たい、声だ。
「なんでも謝って済ませんじゃねぇよ」
「ごめん」
「だからさぁ」
いらついた口調と舌打ち。しかし弥久はすぐ、気まずそうに頭を掻いた。
「悪ぃ、ごめん。そうじゃねぇんだ」
 一枚の紙を差し出す。少し染みのある紙切れに大きく文字が書かれており、何かの札のようだった。
『……狂天……』
(きょう、てん?)
 狂うという字に目がいった。この二文字だけ、すこし大きく書かれている。弥久が、
「狂天様」
ちょうどセンが見ている文字を声に出した。
 なんのことだろう。わからず、弥久を見上げた。
「聞き覚え、ないのか」
「……うん」
 弥久の声が少し沈んだ。
「それ、夜依が持っていたんだ。沙智さんが持たせたんだと思う」
弥久は札に目を向ける。
「『クルイになっても、大丈夫』なんだってさ。それがあれば狂天様が助けてくれるって」
「大丈夫って、もしかして」
弥久はセンの思い通りのことを言った。
「『戻れるから、大丈夫』なんだと」
クルイから戻れる。その力を持った者が狂天なら、まさか、それは。
「ちか」
 名を呟いた途端、思い至る。
「どうして弥久さんが、そんなこと」
「夜依から聞き出した。何か覚えていることはないかって。クルイになってた時のことはあんま覚えてねぇみたいだけど、狂天様っていうのだけは沙智さんが繰り返し言ってたって」
「なんでそんな、ひどいこと」
(夜依ちゃんに追い打ちをかけるようなこと、弥久さんがするなんて)
 弥久は一度目をつぶって、開き、まっすぐにセンを見た。
「これくらいしか、センさんにしてやれることが思いつけなかった」
また目をつぶり、幾度か息を吸っては吐いて、
「俺はセンさんを騙して利用して、傷つけた。だからこれは、せめてものお詫びなんだ」
「でも、夜依ちゃんが、可哀想だよ」
 弥久は口元だけで微かに笑った。
「夜依はいいんだ、今は。あとでいくらでも謝るから。でも、センさんにはもう会えないかもしれないだろ」
きっとセンを見る瞳の方が本心を物語っているのだろう。
 ずしり、と。弥久の言葉が胸に刺さった。頭の中で弥久はそう“思っているだろう”と想像していた。でも実際に言われるととても、苦しい。
 弥久がそう思っているなら、もう会うことのないセンへの気持ちだと言うなら、有り難くもらうべきなのだろう。無理に笑みを作った。
「……うん、じゃあ、ありがとう」
 そして、さよなら。心の中で告げた別れに、弥久の言葉は意外だった。
「でも、また会いたいと思ってる」
 弥久の言葉は意外すぎて、驚きの声も出なかった。
「俺は、センさんと友達になりたい」
弥久は乾いた声で言う。そんなこと少しも思っていないような気がした。
「悪ぃけど、今は友達だって思えない。センさんが、怖い」
それはそうだろう。
(だって俺は、クルイだから)
わかりきったことを前に、泣いてしまいそうだった。
「センさんは、悪くねぇよ」
 大きくため息をついた弥久は、ちらりとセンの横を見た。
「座って良いか? 暑いし、疲れた」
「え、うん」
センは寒いのに弥久は暑いのか。
 センの隣、日陰に腰を下ろした弥久は、また息を吐いた。
「あのな、俺はセンさんが恐いけど、それはセンさんのせいじゃねぇんだ」
「でも、俺はクルイだよ」
弥久の態度に期待を抱いてしまう自分が嫌で、突き放す事実を口にした。
「センさんはクルイになりたくてなったわけじゃないんだろ。センさんがクルイなのは狂環師のせいで、センさんは悪くない」
 わかるような、わからないような。弥久は、センを狂わせたのが実の姉であると告げても同じように言うのだろうか。千花を悪だと言うのだろうか。
 何も知らないで勝手な優しさをくれる弥久に、少し、いらついた。
 センの心中を知らず、弥久は続けた。
「だから、センさんはセンさんのはずなんだ」
「やめろっ」
 叫んでいた。目を丸くした弥久を睨んでしまう。
「そういう優しさが、嫌だ。辛いってことがわからない?」
「え」
言ってはいけないとわかっているのに、止めることが出来なかった。
「弥久さんは俺に優しくしてくれるけど、俺は俺だって言ってくれるけどさ」
ひと息。あいまに蝉の声。
「俺のことを突き放したじゃないか」
 弥久の顔が歪んだ。それでもセンは続けた。少し笑みを浮かべているかもしれない。
「そんなの、勝手だ」
 ミンミンと、蝉が時雨と降り注ぐ。弥久がうつむく。
「そうだな、ごめん。俺は勝手だ」
 小さい声なのに、よく聞こえた。
「でも、だから」
泣いているのだと、声でわかった。
 謝らないといけないはずなのに、謝りたくない。
「俺は勝手な奴だから……それでも俺は、センさんと友達になりたい」
弥久は顔を上げ、赤くなった両目でセンを見つめた。
「センさんがクルイだってことが終わりだとは思いたくない。俺はセンさんの良いところをたくさん知っているのに、クルイだからって、センさんとの繋がりを切っちまうのは、嫌だ」
「でも、弥久さんはクルイの俺が恐いんでしょ。そこは変わらないよ」
「変わることはねぇよ」
弥久の顔をまじまじと見る。目じりに涙を残し、弥久は笑った。
「俺は、自分が変われるって信じる。センさんが嫌じゃなかったら、また和泉宿に来てくれ」
「弥久さん」
 名を呟くだけで、その先は続かない、いや無かった。弥久の言葉はセンの考えでわかろうとするには、無理がある。
「じゃ、俺はもう行くから」
 弥久が立ち上がった。センは回らない頭でなんとなく、弥久の顔を見上げた。
「センさん、ごめんな」
蝉の鳴き声に紛れそうな声で言い、弥久は背を向ける。振り返ることなく、水色屋の中に消えていった。



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