愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



夜に依る狂い咲き*1  ||―ヨル ニ ヨル クルイザキ―

 和泉宿はいつもと違う慌ただしさに包まれていた。
 詠花が狂環師だと知れて一日。話は枯れ草に火が付いたように、鮮やかなほど、ぱっと広がった。どこでだれが話していても、詠花の名前が出ないことはない。
 センはまだ和泉宿にいる。ハチロクに関わってしまった以上、早く立ち去るべきなのだが、そうするには心に引っ掛かることが多すぎる。
 ぎ、っと床が鳴り、襖が開く。
「弥久さん」
入り口に立つ弥久は、眉間に深いしわを寄せている。
「大丈夫?」
思わずそう言ってしまうような顔だった。弥久は笑みの形に口元を曲げると、微かに首をかしげる。
「どうだか、な。『どうして、どうして』ってずっと呟いていてさ、俺の声も聞こえねぇみてぇだ」
「いや、そうじゃなくて」
 センは弥久を心配したのだが、どうやら弥久の頭には夜依のことしかないらしい。
(そもそも「弥久さんは大丈夫か」って聞いても答えは決まってるか)
 話を変えた。
「夜依ちゃん、やっぱり、辛いよね」
「ああ」
 今の夜依の状況と一番近い体験をしているのはセンであると思うのに、ありふれた言葉しか言えなくて情けない。
 心の底から信じていた人が、狂環師だった。
 センはそのときのことをよく覚えていないけれど、きっと自分の全てが揺らいでしまうほど大きな出来事だったはずだ。心が壊れてしまうくらい、辛いこと。
「でも、弥久さんがいるから、夜依ちゃんは大丈夫だよ」
心の中をそのまま口にすることしか、センは出来ない。
「そうだよな、俺が守ってやんなきゃな」
弥久は小さな声で言うと両手で顔を覆う。その姿が、利彦とだぶって見えた。
「あの、でも、無理はしないで良いから、絶対に」
慌てて言った。
「ひとりで全部背負わないで、みんなで、ね」
弥久にはみんながいるから。
「ありがとう、だいぶ楽になった」
顔をあげた弥久の表情は、少し明るくなっただろうか。よくわからないが、センはとにかくにっこりと笑ってみた。センまで暗い顔をしていてはいけない。
「俺さ、夜依だけじゃなくて、利兄ぃのこととか店のこととか、もちろん沙智さんのことも、俺じゃどうしようもねぇのにひとりで考え込んじまってた」
 水色屋は今日の朝から店を閉めている。利彦が店を辞め――と言っても詠花の処遇が決まるまでは水色屋に居るようにとお澄に言われている――、夜依もとてもじゃないが働ける状態ではない。湯場に人出がないのだ。
 他の湯屋に行ってもらえば客を取ることはできるが、源衛は数日間休むことに決めた。どうして源衛がそうしたかは、センの知るところではないが、数日のうちに詠花の処置が決まるらしい。そして宿場役の一人である源衛は数日の間、そのために宿場役所に通うことになる。
 センと弥久が黙り込んだところに、廊下がわずかに軋む音がした。襖が開き、お澄が入ってきた。表情に翳が差していた。
「弥久、ちょっと来てちょうだい。お前の話も聞きたいの」
「なにかあったんですか」
弥久の顔がさっとこわばる。立ち上がろうとした弥久はちょっとよろけ、センはあわてて支えた。
「亀戸屋さんを連れてね、あの人が帰って来たの。それで」
お澄が寸の間、目を下に逸らす。
「……夜依に沙智ちゃんの身の回りのことをしてほしいって」
「えっ」
「沙智ちゃんがどうなるか決まるまでの何日かだけなんだけど、みんな怖がっているらしくて。だから亀戸屋さんが夜依ならどうかって。沙智ちゃんも会いたがっているらしいわ」
「ああ」
得心したらしい弥久の声は、むしろ低くなった。今度はゆっくりと立ち上がる。
「センさん、ちょっと行ってくる」
「うん。あ、ちょっと夜依ちゃんの様子を見てきてもいいかな」
ふと思いつき口にすると、弥久はうすく笑った。
「ああ、ありがとう」
お澄もセンに礼を言い、弥久とともに部屋を出て行った。
 センも部屋を出、夜依の元へ行く。店とは隔たった奉公人や源衛夫妻の寝起きする棟はいつも静かだが、今日はまた、一段と閑散としていた。
 夜依は女の奉公人が寝起きしている部屋に籠っていると弥久から聞いていた。頭の中で部屋の位置を思い出しながら歩いていると、後ろから声をかけられる。お梅だ。
「センさん」
ふり返るとお梅は身ぶりで「来い来い」と手招きした。
「夜依ちゃんのとこへ行くのかい」
潜めた声で聞いてくる。
「夜依ちゃん、気味が悪いんだよ」
 ことさら小さな声で早口。そう言ったお梅自体が辛そうな顔をしていた。
「甘いもの持っていっても、なんて話しかけてもさ、何にも返してくれないんだよ。ただぶつぶつなにか言っているだけでさ」
 夏の陽気を、一寸忘れた。ひやりとよぎる、厭な予感。
 普段のお梅だったら、絶対に一緒に働いている者の悪口なんて言わない。きっとお梅も動揺しているのだ。だから夜依のことも実際以上に言っている。
 きっと、そうだ。
 センが言うまいとした言葉を、お梅はためらいがちに口にした。
「ねえ、このまま夜依ちゃんの心が、壊れちまうなんてこと、ないよね。ねぇ、センさん」
「そんなこと」
ないとは言い切れなかった。どちらとも言えず、目を逸らす。
「弥久さんがいるんだから」
弥久の名を出して逃げた。
 卑怯なセンの言葉でもお梅は救われる思いだったのか、少し表情が明るくなる。
「そうだよね、そうだよね。弥久くんがいるんだから、大丈夫だ。やだね、こっちまで暗くなってちゃあ、いけないよね」
無理に明るくふるまっているようにも見えたが、お梅の言うとおり、みんなが暗くなっているよりはずっと良い。
「じゃあ、俺も夜依ちゃんの様子、見てきますね」
 センも笑ってみせる。
「口説くんじゃないよ」
お梅に軽口を叩かれ声をあげたが、背を向けたとたん笑みは欠片も残さずに消える。厭な想いだけが、じわりじわりと、滲み出る。
『心が、壊れちまうなんてこと、ないよね』
 大丈夫。
 夜依に会うために言い聞かせた。最悪のことを考えている顔で夜依の元に行くわけにはいかない。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ)
夜依はセンと違う、ひとりじゃない。
 だから、大丈夫。



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