愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



夜に依る狂い咲き*2  ||―ヨル ニ ヨル クルイザキ―

 板敷の四畳半に入ると、仲の暗さに一瞬視界を奪われた。
 ぼそぼそと聞こえる声を頼りに夜依の姿を探す。うす暗い部屋の更に暗い隅で、夜依は掻巻にくるまって膝を抱えていた。体はこちらを向いているが、俯いていて顔は見えない。少し離れた所にはお梅か誰かが持ってきたのであろう、甘い菓子や握り飯が置かれていた。
「夜依ちゃん」
返事はない。ぶつぶつ、ぼそぼそと呟きだけが聞こえる。
「そんなところにいたら、暑いでしょ」
 夏の暑い日に風の通らない部屋で掻巻にくるまっていて暑くないわけがない。泣いているなら体も熱くなっているだろう。
 声をかけても夜依の口から出るのは独り言だった。「うそうそ」、「いやいや」、「信じない」ひたすらこんな言葉を繰り返している。
 夜依の前に座る。うつむいているから、やっぱり顔は見えない。
「夜依ちゃん」
頬に触れる。涙が無いことが意外だった。
 それ以上に、肌の冷たさに驚く。
 センが触れても夜依に反応はなく、変わらない。
「戻っておいで」
きっと、もっと言ってあげるべき言葉はある。頑張れとか元気出せとか。でもその言葉を口にするのは、あまりにも虚しい気もした。夜依は頑張っているのだろうし、誰かの言葉が届くならとっくに元気になっている。何を言っても、センの言葉じゃ夜依を動かすことはできない。
 だから今のは、単なるセンの望み。
 傷は時が癒してくれるなんて、そんなのは嘘だ。癒してくれるものでも更に抉るものでも、なんでもない。時はただ流れるものでしかない。
 止まってほしくても戻ってほしくても、そんな思いを全部踏みにじって、自分も周りも流していく。自分だけが籠って、立ち止まって、目を背けて、それで差し障りがないなら、それでも良い。
 でも夜依は違う。“そこ”から出てきてくれないと悲しむ人がたくさんいる。センも悲しいし苦しい。夜依のためというより、そんな人たち、自分のためにお願い。
「戻っておいで」
もう一度言って、夜依の顔を覗き込む――――一歩手前。
 すっと部屋に光が射す。
「センさん」
弥久は少し目を見開き、センと夜依を見つめた。夜依を呼ぶ。
「夜依」
微かに笑みを浮かべながらも、すべてわかっているようだった。
「夜依、沙智さんのことだ」
 ため息交じりの弥久の言葉が、まさか、夜依を動かした。
 夜依の動きは速かった。ばっと掻巻を跳ねのけ、センが夜依が動いたと気づいた時には数歩先の弥久の肩にしがみついているのだ。
「なにっ、沙智姉ぇが、なに!? どうなっちゃうの、ねぇっ!」
「や、え……っ、いた、痛い、って」
 夜依の勢いに弥久が尻もちをついた。それでも夜依は馬乗りになったまま弥久の肩を掴み、詠花のことを問い続ける。
「ちょっと、夜依ちゃん!」
センが無理やり引き離す。
(すごい力)
押さえ込んでおかないと、ふたたび弥久に向かっていきそうだ。
 ふぅふぅと荒い息を吐く夜依に、息を整え弥久が語りかける。
「落ち付け。沙智さんのことはまだ決まってないし、俺にはわからない。でも何日かの間だけだけど、お前に沙智さんの世話をしてほしいんだって。夜依はどうしたい」
「あ。う。お兄ちゃん、あたし」
夜依の言葉に正気の色が宿る。センは夜依の体を離した。
「どうする? 夜依」
弥久は夜依の頭を撫で、優しい声で聞いた。
「あたし、やる! 沙智姉ぇのそばにいるわ」
 早口で言う夜依の声は高い。
「そうか。でもさっきみたいに落ち着かない様子じゃあ、任せられないぞ」
弥久が茶化した。
「ちゃんとできるよっ」
「よしよし、じゃあ、旦那さま言ってくるから。お前は腹減ってるだろ、なんか食べな」
「ううんっ、自分で言ってくる。謝って頼んでくるから!」
言うが早いか、夜依は立ち上がるとあっという間に部屋を出ていった。
 少しぽかんとした顔で夜依を見送った弥久は、センの方に向き返り肩をすくめる。顔がわずかに歪んだ。
「いてて、夜依も力が強くなったな」
「大丈夫?」
確かにさっきの夜依の力はすごかった。
「うん。にしても沙智さんには敵わねぇよなあ……一発で元気にしちまうんだもん」
兄としては複雑なのだろう。
「でも、夜依ちゃんが元気になって良かったね」
「ああ、そうだなあ」
 弥久の声はぼんやりと遠くに発せられているようだった。
「旦那さまは反対したんだ、沙智さんの世話ぁさせること」
同じ調子で弥久は言った。
「え」
「女将さんは、やらせるべきだって。どっちにしろ沙智さんとは会えなくなるんだから、お別れさせてあげようって。ふたりの意見が真っ向から違うもんだから、俺も呼ばれたんだよ」
会えなくなる――この避けがたい事実を夜依は知っているのだろうか。いや、向き合えているのだろうか。
「弥久さんは、なんて言ったの」
「俺は会ってほしくなかった……わざわざ辛い思いをするだけじゃねぇかよ」
弥久は頬を掻き、どことも定めず視線をさまよわせている。センもそう思う。かえって苦しみが増えるのではないか、と。
「でも、このまま沙智さんがいなくなって、夜依の心が戻ってこなくなっちまったらって思ったら、怖かった。だから、夜依のしたいようにすれば良いんだ」
 投げやりにも聞こえた。投げやりにうそぶいて、芯から夜依を案じている。
(やっぱり詠花さんの名前を出したとたん夜依ちゃんが元気になったのを気にしてるのかな)
「怖かったんだ」
センの見当を裏付けるでも揺らがせるでもない、弥久の平淡な声だった。



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