愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



疑留*10  ||―ギル―

「夜依がおかしい」
 弥久が不安げに口の端を噛んだのは、泉で夜依が襲われてから一日経った夜だった。
「夜依に森でのことを聞いたんだ、森で何があったのかって」
「えっ、森って」
(まさか、話したのか)
夜依が森で見たそのままを話していたとしてもおかしくない。
 センの様子に気づかず、弥久は言葉をつづけた。
「ああ、利兄ぃが森に行っているって教えてくれたのが夜依だからな。もう一度、何か覚えていないか聞いてみたんだ」
(昨日の夜のことじゃないのか)
弥久は微かな笑みに苦い色をまぜる。
「聞いたら、これだよ」
ため息交じりに弥久が右手の甲をひらりと見せた。うす暗い中に浮かぶ弥久の手、そこには黒い三本の筋。明るいところで見れば筋は赤いだろう。
「それ、引っ掻き傷?」
「ああ。『なにも知らないっ』て大声で叫んで逃げようとするから、手を延ばして捕まえようとしたら、な。すごい力だった」
 胸が苦しくなった。もやもやした捉えどころのない不安が、センの中にうまれた。
「俺のこと引っ掻いたと思ったら、級にはっとなって、『ごめんなさいごめんなさい』って大泣きして謝って……ったく、こんなこと初めてだ」
最後の声は消え入りそうだった。弥久はまっすぐにセンを見つめてくる。
「なあ、センさん、夜依はどうしちゃったんだよ、利兄ぃは大丈夫なのかよ、最近変だよ、全部変だ……何が起こっているんだよ」
早口に言う。センがなんと言おうか逡巡する間に、弥久はうつむいた。
「なんで、こんな」
「俺が来てからだね」
はっと弥久が顔を上げる。
「いや、なに言ってるんだよ、そういう意味で言ったんじゃねぇよ」
「弥久さん、ごめん。俺は、利彦さんを助けられない」
薄暗闇の中でもはっきりと、弥久の瞳が大きくなるのがわかった。
「ごめん、なさい」
 頭を下げた。
「それじゃ、利兄ぃは」
「利彦さんは、たぶん近いうちに、クルイと戦うことはなくなると思うんだ」
利彦がそうするとはっきり言ったわけじゃないが、予感だった。利彦が壊したくない、守りたい“今”は、どういう形であれ近いうちに壊れる――気がする。
「そう、か」
絞り出すようにはきだした後、弥久が黙った。下を向いているセンには、ぎゅっと硬く握った拳しか見えない。
 センはもう一度謝った方が良いだろうと思ったけれど、声を出すのが恐くてできなかった。この静けさを壊した途端に、弥久の口からセンを罵る言葉がたくさん出てくるのではないか、と。
「わかった」
 大きなため息の後弥久が口を開いたのは、本当にずいぶん時が経ってからだった。もう一度言う。
「わかったよ。ごめん、ありがとう」
「え……?」
なぜ弥久が謝るのか。ぽかんと口を開き自分を見つめてきたセンがよほど可笑しかったのか、弥久は声を上げて笑う。
「そんな顔しないでくれよ、無理なこと言ったのは俺なんだからさ」
(でも)
「そうか、センさん、詰られるとでも思ってたんだな」
はあ、とわざとらしい大きなため息を弥久はつく。
「呆れたなあ」
「だって、あの」
センは叱られた子供みたいに、あうあうと意味もなく呻いた。
「なあ、センさん、俺はもう違えないようにって、心に決めてんだ。センさんを利用しねぇって」
弥久の言葉はぞくりとした寒気を伴って体を駆け抜け、そのあとに温かな思いを残した。
「友達だから、頼みごとはするぜ? でも相手がそれに精一杯答えてくれたのがわかっているのに、できなかったからって相手を責めるなんて、友達のすることじゃないよ」
センさんが一生懸命やってくれたのはわかっているから、弥久が笑う。
「利兄ぃは、きっと大丈夫だよ」
 弥久は小さくセンに笑いかける。センを安心させるために、思いを隠して笑ってくれているのだとわかった。センにもわかるくらい、弥久の不安は滲んで見えたから、
「うん、そうだよね。ありがとう、弥久さん」
センは精一杯笑うことしか出来なかった。




「詠花にはもう近づくな。命が惜しいなら」
 藤下泉に、物騒な言葉が響く。言ったのは利彦。センは動きを止め、物陰に隠れた。
 センは再び藤下泉に来ていた。弥久に謝った翌日だ。湯場の仕事がひと段落ついて、少しの時間が出来た時、足は藤下泉に向いていた。
(まさか、利彦さんもいるなんて)
数日前の夜のことがあるから、まさかいるとは思わなかった。
「ぁんだとぉ、こらぁっ」
(あいつらは)
 例の破落戸たちが利彦を取り囲んでいる。
「もういっぺん言ってみやがれっ!」
 一人が勢いよく利彦の胸ぐらを掴んだ。利彦は表情を変えず、されるがままになっている。
(利彦さんはどうする気なんだろう)
絡まれているのが弥久や夜依、他の人たちだったら一も二もなく飛び出している、が、利彦ではどうすればいいのだろう。
(利彦さんが本気ならあんな奴ら、なんてことないだろうし)
少なくとも一発や二発殴られたくらいでは大怪我はしない。その利彦がされるがままになっているということは、何かあるのだ、たぶん。
(下手に出ていって、かえって邪魔しちゃ悪いよな)
「――殺す、って言ってんだ」
 まとまらないセンの思考を、利彦の言葉がさえぎった。静かな口ぶりがむしろ、利彦の本気を伝えていた。
「あぁっ!?」
利彦の胸ぐらをつかんでいる男が更に凄む。
「てっめぇ、宿屋の三助風情がっ、舐めんじゃねぇぞっ!!」
大声で怒鳴る男とは対照に利彦は同じ口調で、くりかえす。
「詠花に近づくなら、俺があんたらを殺す。失せろ」
全身から発せられる気迫は、センのもとまで届いてきた。センに向けられたわけでもないのに、頬のあたりにぞわりと寒気が走る。
「……っ、こ、っの!」
男が利彦を殴る。利彦は吹っ飛び、すぐさまぐるりと囲まれる。センは思わず木の影から飛び出す、が。
「ひっ」
と喉を鳴らしたのは利彦を囲む破落戸たちだった。
 破落戸たちは体を翻し駆けだしていた。センの方へ向かっている。
 センの姿を見、破落戸たちはまた小さな悲鳴を上げる。飛び出るほど見開いた双眸は、酒でも飲んでいるのか、どろりと濁っていた。
「ど、どけっ」
と叫びながらも、己らからセンの横を走り抜け、森の中に消えていった。
 センは一瞬あっけにとられたが、すぐに利彦の方に向き直った。利彦の顔にはまだ、男たちに向けた顔の名残があった。
――こわい。
その感情を素直に受け入れた。
 表情なく、口の端から血をにじませ、瞳にだけ殺意をみなぎらせている。そう、殺意だ。さっき殺すと言ったときの目とは、違う。ただ凄い気迫ではなく、これは紛れもない殺意だ。クルイにも、似た――。
「センさん」
 利彦に呼ばれて、はっとする。すでに利彦の顔からは怖ろしさが消えていた。
「あ、の」
センは利彦に駆け寄る。
「大丈夫ですか」
「え、あ、まあ」
利彦は少しだけ目を丸くした。
「ちょっと腫れてますね、冷やさないと」
センは懐から手ぬぐいを出すと泉で濡らし、利彦に差し出す。
「すまねぇ」
利彦は頬を手ぬぐいで押さえると、はあ、と息を吐いた。それからぼんやりと数拍、宙を見つめたかと思うとおもむろに土の上に手足を投げ出した。センはどうしようかと逡巡したが、利彦の横に腰を下ろした。
「センさんには、嫌なところばかり見られちまうな」
 口元にわずかばかり笑みを浮かべ、利彦が口を開く。穏やかな口調だった。
「……頼ってくれても良いんですよ」
センも悪戯っぽく言った。本心ではあったが、利彦の答えはわかっていた。
「いや、頼らねぇよ。俺が片を付ける」
「ですよね、余計なことを言いました」
苦く笑って頭を掻いた。
「それに、センさんにはとっくに助けてもらってるよ」
「え」
いつそんなことをしたのか、見当もつかない。利彦の顔を見ると、空を見たまま薄く笑っていた。
「弥久と夜依のことだ」
「ああ」
と言った声が、低くなってしまう。
「夜依ちゃん、元気がないって、弥久さんが心配してました」
「俺のとこにも来た。弥久は夜依のこととなると見境と我慢がなくなるからな」
 弥久のことを話す利彦の顔は優しかった。
「……あの、夜依ちゃんは、利彦さんのことを狂環師だと思ってます」
「ああ」
利彦の体に少し力が入る。
 センから見ても、利彦は限りなく狂環師だ。それは主にあの夜の言動から。
「でも、利彦さんは狂環師じゃない」
びくり、利彦が身じろぎし、
「は、まあな……なんたって、そもそも狂環師なんて、いねぇからな」
取り繕うように笑うと、よっと勢いよく立ち上がる。
「あのっ、俺はハチロクじゃないから別に、狂環師を捕まえたいとかそんなんじゃなくて……っ、ただっ」
 センも慌てて立ちあがったが、利彦はこの話は終わりだとばかりに一度手を打った。
「俺ぁ本当にありがてぇと思ってる、センさん。これで」
利彦はいったん言い淀み、すぐに言葉をつづけた。
「心置きなく、俺の思った通りにできる」
「それって」
利彦の方はもう何も答える気はないようで、歩きはじめていた。センには利彦の背中ばかりで、その表情はひとつも見えなかった。なぜだか追って問い詰めることもできなかった。
 藤下泉にひとり、ぽつねんと突っ立っている。ゆるい風が吹き木々を揺らし、泉から水音もした。
 だれもいなくなったその場所で、もう姿の見えなくなった利彦へ向けて呟いた。さっき利彦に向けた言葉。
「狂環師を捕らえろとも殺せとも思ってない……ただ、俺は」
――――利彦さんの答えを、見てみたい。



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