愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



疑留*9  ||―ギル―

 体の内が、ざわざわしている。クルイの血が騒いでいるのだろうか。それとも、久々に腰に差した刀のせいだろうか。
 詮無きことを考えながら寝静まった和泉宿を歩く。目指すのは藤下泉。
 センはそっと刀の柄に触れる。夜の中では触れていなければ在るのかさえわからない、真っ黒な刀だ。
 刀は弥久が店の物置小屋に隠していた。布にくるまれ大切そうに置かれていた。確かにあれではすぐに利彦に見つかってしまっただろう。だから、センが隠し直した。
 柄も鞘も全てが黒いこの刀を隠すのには、ただ暗闇の中に放っておけば良い。小屋の隅の真闇にぽつりと置いておけば、なかなかどうして見つからない。仮に利彦が刀を手にしたとしても、センの刀を間近で見たことがあるわけでもないしから、元からあった数振りの刀と見分けはつかないだろう。それに、弥久ならこんな置き方はしないと考えると思い、それは思惑通りになった。
 嫌な風が吹き、はっと顔を上げる。宿場の入り口である大木戸の近くまで来ていた。今は閉め切られている。宿場の入り口にある木戸が開いているのは日没から半刻後まで。翌日開けられるのも日の出半刻前と定められている。夜半の今、閉じているのは当然だ。
(えっと、ここまで来たら右だな)
 センは弥久に教えてもらった道筋を頭の中に浮かべ、そろそろと歩を進めた。
 木戸が閉められていても藤下泉に行く術がないわけではない。
 宿場の者だけしか知らない抜け道がある。通る者なんてまずいない道で、ただたまたま、塞がれることもなくひっそりとあるような道。
 細い道だった。弥久から聞いていたが想像以上だ。張り出した木の根や石など段差も多いし、踏み固められていないので歩きにくいことこの上ない。
(弥久さん、ここを歩いたんだ……何回も)
 弥久の足でここを通るのは大変だっただろう。転んだこともあるだろう。それでも弥久がこの道を歩き、夜の森に通い続けたのは、利彦のため。
(利彦さんを、助けなきゃ)
 センはぎゅっと拳に力を込め、小路を進んだ。弥久が教えてくれた話では、もう少し行けば大木戸から繋がる道に行きあたるらしい。


 藤下泉にはやけに静かな光景が広がっていた。
 小さな泉は月の光を返してきらきら光る。周囲には真っ暗な木々の影。
「これ、は」
泉を背にして、利彦が立っていた。月の光が射している。利彦を囲むようにして無数の――クルイ。月の光が影を作っていた。
 泉と利彦とクルイと月の光。やけに静かな、不気味な光景。
(これじゃ、まるで)
利彦がクルイを従えているようじゃないか。
 思わず一歩後ずさる。ざり、と地面を摺る音を聞き付け、利彦がこちらを向いた。利彦はとても、嫌そうな顔をした。でも驚いてはいないようだ。
「こんばんは、利彦さん」
 センは一歩踏み出した。クルイたちが一斉にこちらを向く。この前和泉宿を襲ったのと同じような顔ぶれた。犬、狸、兎に小鳥に鼠まで、大きくはないが数がすごい。すごい数の動物たち全てが、白い目をしていた。
 利彦と話ができる距離まで歩き、向き合う。利彦はセンの腰にある刀を見て、そのまま表情を変えずセンを見つめた。クルイたちは息の音さえさせず、座っている。
「ここにいるのは、利彦さんだけですか」
「……ああ、そうだ」
「じゃあ」
センはくるりと首をめぐらす。
「このクルイは何ですか。ずいぶんと行儀が良いみたいですね」
弥久から聞いた話と、まるで違う。利彦の目に少しだけ険がこもる。
「昼間も言ったはずだ。センさんには関係ねぇ話だ……てめぇが失せれば全て収まる」
そんなはずない。クルイがいて、傷ついた利彦がいて、苦しむ弥久がいる――関係のないセンが消えたところで、収まる話じゃない。
 でもそれを利彦には言わないことにした。それこそ、昼間に言ったことのくり返しだ。だから、もっと大切なことを聞く。まっすぐに利彦を見つめ、軽く息を吸う。この言葉を言うのは胸が詰まる。己でも知らぬうちにあの人のことを思い出すからだろうか。
「あなたが、狂環師、ですか」
 ひゅっ
 ざわ
 泣き声みたいな風と森が唸る音。
「きゃあっ」
後ろから、声。この声は――。
(なんで)
 振り向くと夜依がいた。木々の間にぽつりと立っている。
 何故だ。
 一瞬前までセンに向けられていたクルイたちの気が殺気に変わり、夜依の方に流れていく。
 自分だけがのろのろとしか動けない感覚。クルイばかりがなぜ速い。
 野犬が数匹、夜依に向かう。
「夜依っ」
 利彦の叫びが、のろまな時を切り裂いた。
 センが駆け出したときには、利彦は二間も先にいる。
 でも、その利彦よりも先にクルイがいる。
(くそっ)
 だめだ、間にあわない。
 利彦でも間にあわない。
 クルイが夜依を傷つける。立ちすくむ夜依を噛み殺す。
 ――――もう野犬の牙が、届いてしまう。
「やめろっ、やめてくれっ」
利彦の叫びが、今度は時を止まらせた――ように見えた。
 夜依の寸前で野犬のクルイが止まっていた。
 ぺたん、と夜依が座りこむ。
 他のクルイたちも動くのを止め、ふたたび不気味な静けさが立ちこめる。さっきと違うのは、利彦と夜依とセンの粗い息遣いが聞こえることぐらいか。
(利彦さんが、クルイを止めたのか?)
わからない。
 利彦はぎゅっと手を握り締めたまま、少し震えていた。
 ぴり、ぴり、ぴり。肌を刺すような風が吹く。
(なんだ、この風)
なにとなく覚束ない気持ちになり、センは刀の鍔を強く握り締めた。
 クルイたちがふらふらと森の中に消えていく。残されたのは夜依、利彦、セン。
「夜依っ」
利彦が夜依に駆け寄る。夜依はびくりと肩を揺らし、それを見て利彦は立ち止まる。
「や、え」
かけた声はわずかに上ずる。
 夜依は瞳をいっぱいに見開き、利彦を見つめていた。ぼんやりとして、焦点が合っていない。
「大丈夫か」
 利彦が手を伸ばした瞬間、
「い、やっ」
夜依は鋭く叫び、尻もちをついたままずるずる後ろに下がった。
「夜依っ」
「いやっ、いやいやっ、いやぁっ」
大きく頭(かぶり)を振り、夜依が森の中に走り去っていく。
「あ、夜依ちゃんっ」
 まださっきのクルイが近くにいるかもしれない。センは急いで後を追おうとしたが、突っ立っている利彦の横で足を止めた。
「追わないんですか」
利彦の顔を見ると、口元が引きつっている。
「は、はは。今の見ただろ。俺が追えるわけねぇ」
まさかこれは笑っているのか。かすれた声で言うと、利彦はセンに背を向ける。
 ふら、と危うい足取りで利彦が夜依とは反対側へと歩き出した。進めば泉にたどり着く。
「利彦さん」
ふら、ふら。月光に伸ばされた影が心細く揺れる。
「聞いてください、利彦さん」
ふら、ふら。利彦は泉への歩みを続ける。
「このままじゃ、クルイは人を殺します」
ぴた。
「そしたらその狂環師は人殺しと同じです」
利彦はふり返る。泣いていた。声はなく、ただ顔ばかりをくしゃくしゃにし、苦しそうに、泣いていた。
「俺が殺させやしねぇ。もうクルイも……つくらない」
 クルイをつくらない――それは利彦がクルイをつくれる存在ということか。
「センさん、頼む、出てってくれ……俺は“今”を壊したくない」
出ていけと利彦に言われたのは初めてではないが、静かな口調で懇願されたことはなかった。利彦の言葉に宿る重みに、何かが打ち崩された気がする。
(俺に、何ができるんだ)
利彦が必死で守っている、壊したくないものを、壊すしか能のないセンがどうして一緒に守れるのか。結局、センにできるのは利彦を襲うクルイを殺すぐらいだ。
 利彦に覚悟があるのなら――。
(なにが、できるんだよ)
直ぐに答えが出ないもどかしさから、いったん考えるのをやめた。
「夜依ちゃんを探してみます」
センは利彦に背を向け、暗い森の中に駆けだした。



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