愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



疑留*5  ||―ギル―

 水色屋に戻った途端、聞こえてきたのは怒声だった。
「弥久……っ!?」
利彦が顔色を変えて駆けていく。たしかに聞こえた声は弥久のものに似ていた。センも後に続く。騒ぎはどうやらセンの部屋で起きているようだ。
ぱんっ
乾いた音がする。
 床を蹴る音。夜依がセンの部屋から飛び出してくる。利彦やセンには目もくれず、隣を駆け去っていく。頬をおさえていた。
「夜依ちゃんっ!?」
返事をせぬまま廊下の角を曲がり、夜依の姿が見えなくなった。追おうか逡巡し、結局部屋に入る。
 部屋には既に宿の者が何人かいて、座りこむ弥久を遠巻きに見つめていた。弥久はぼうっと右の手の平を眺めている。
「弥久っ」
利彦が人を押しのけ駆けよる。肩を掴み、どうしたのだと問いただす。
「利兄ぃ」
その場が静まり返っていなければ聞き取れないほどの声だ。
 弥久の瞳がセンを捉える。
「センさん……」
大きく見開かれた目には正気が宿り、くしゃりと顔が歪む。
「おれ、おれは」
(弥久さん)
 センは一歩ふみ出す。
 それをさえぎるように、ひとつの影が前に出た。源衛だった。
「弥久」
源衛は弥久の前に立つ。
「朝の忙しい時に何をしているんだ」
「だ、旦那さま」
青白い顔をし、弥久は源衛を見上げた。センの居る場所からは源衛の顔は見えないが、利彦も顔をこわばらせている。そんなふたりの様子に構うこともなく源衛は静かに告げた。
「今は理由を聞いている暇もない。今日は料理場に入るな。頭を冷やせ、いいな」
「はい、申しわけありません」
弥久がうなだれ、源衛はこちらを振り返る。ぱんとひとつ手を鳴らす。
「さあ、みんなはそれぞれの仕事に戻るんだよ。朝の忙しいときに野次馬になるなんて、奉公人としてあっちゃいけないことだ」
 部屋に広がる声が、いつもよりも険を帯びている。店の者たちは慌てて部屋を出ていった。部屋に残るのは弥久と利彦、源衛にセン。
「弥久は店が終わった後、私の部屋にきなさい」
「はい」
それだけ言うと源衛も部屋を出ていった。
 重苦しく静まる部屋で、最初に口を開いたのは利彦だった。センの方に寄ってきて、
「センさん、弥久を頼みやす」
と小声で言った。
「俺ぁ湯場の方の仕事をしねぇとならねぇから。たぶん夜依もあれじゃあ仕事にならねぇし」
最後の言葉をことさら小さく言い、軽く頭を下げた。襖を閉め、利彦がいなくなる。
「弥久さん」
 弥久は立てた片ひざに顔をうずめたまま動かない。
「なにがあったの」
弥久は動かない。
「弥久さん」
弥久は話さず、動きもしなかったから、センも黙ってその場に腰をおろした。遠くから賑やかな朝の様子が伝わってくる。
 息が詰まるほどの沈黙を、我慢する。自分から話し出す気はない。センは軽く息を吸って、吐いた。
「おれ」
ふるえる弥久の声。
「夜依を、なぐった」
「うん。どうして」
ふるえはじめる弥久の体。センは弥久の隣に場所を移した。
「夜依が、センさんを見ていなかった、から」
「俺が夜依ちゃんに湯場の仕事に戻って良いよって言ったんだよ」
「ああ、でも、今朝、部屋にセンさんがいなくて……おれ」
「俺が朝、勝手に部屋を出ていったのは夜依ちゃんとは関係ない。夜依ちゃんは昼間の看病を任されているんだから」
 弥久は黙って震えている。センの手も震えていた。心の臓がばくばくと音を立てている。
 こんな風に人と話したことはない。合っているのか間違っているのかもわからない。手探りで話して、最後は弥久が笑ってくれたら良い、と。
 弥久は屈託なく笑っている顔が一番、“らしい”。
「ちがう、んだ」
「ん?」
「ちがう、ちがうんだよ、夜依はなんにもわるくないのに。おれが全部悪いのに」
 センは大きく息を吸った。口には出さないけれど、たぶんセンも悪いから――だから、言う。
「そうだよね、弥久さんが全部、悪いよ」
センの言葉が予想外だったのか、ばっと弥久が顔を上げる。涙でぬれた弥久の顔を真正面に見ると、胸のあたりが苦しくなる。それでも、ここで折れるわけにはいかない。一番伝えたいことがまだ言えていない。
「こんなに自分を追い詰める前に、言ってくれたら良かったんだ、どんなことだって。友達、じゃあ、ないの」
 弥久の瞳がすうっと大きく開く。
「俺の刀、返して。俺にはあれしかないんだ」
「気づいて……どうして」
やっと聞きとれるくらいの声。
「弥久さん、ごめん、俺も悪かった」
謝らないようにしようと思っていたのに、謝ってしまった。
 弥久がセンの刀を隠していることは、ずいぶん前から気づいていた。弥久の足音は特徴があって、左足をついた時の音が大きい。刀がなくなった夜、まどろみの中で聞いた足音。
 わかっていて、先延ばしにしたのは、恐かったから。それが弥久を追い詰めた。
「ごめん、弥久さん」
もう一度、謝った。
(理由は結局、わからないままだし)
 どうして弥久がセンの刀を奪う必要があったのか。いくら考えても理由がわからなくて、それも直接聞けなかった理由のひとつだ。わかったら聞こうと思っていたが、今ならそれが間違いだとわかる。弥久の理由は弥久にしかわからない。センはただ逃げていただけだ。
「ねえ、弥久さん、どうして刀を、」
「たすけて」
「え、弥久さ、んっ」
センが言い終わらぬうちに弥久が肩を掴んできた。すごい力で、壁際にいたセンは壁に押し付けられるような形になった。
「助けて、センさん。このままじゃ、このままじゃ、利兄ぃが、死んじまうっ、殺されるっ」
ぐにゃりと歪んだ泣き顔。
 利彦が死ぬ、殺される――弥久がセンに求めた助けは、あまりに唐突なものだった。



inserted by FC2 system