愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



疑留*6  ||―ギル―

「え、っと、おちついて」
 センが利彦を押し戻そうと肩に手を乗せたとき、ものすごい勢いで襖が開いた。
「弥久ぁっ」
風のような早さでセンと弥久を引き離し、利彦は弥久の胸倉をつかんで引き上げた。
「利彦さん!」
止める間もなく、利彦が弥久を殴り飛ばす。にぶい音がした。壁に打ちつけられた弥久は、力なく座りこんだ。顔を上げ、利彦を見上げる。口の端から血が流れている。
 利彦の荒い息遣いと縋るような弥久の顔。
「利兄ぃ、だって」
「黙れっ、お前のしたことは許されることじゃねぇっ」
「でもっ」
ぶんともう一度、利彦が拳をふりあげる。
 振り下ろされる拳を今度はセンが間に入って止めた。自然、センと利彦が向かい合う。睨みあっていると言った方が正しいかもしれない。
「どけ」
低い声。
「いきなり殴ることないじゃないですか。弥久さんは、」
「うるさい」
「どういうことですか、殺されるって」
すっと、利彦の瞳の色が深くなる。冷たい瞳。思わず半歩下がった。
「センさん、あんたには本当に悪いことをしたと思ってやす。すぐに刀を返させる。だからここから出ていってもらえやせんか」
 脅しなのか懇願なのか。口調の力強さとは裏腹に、利彦の瞳に、あまりに深い、深いふかい、あやうげな感情が滲んでいる。それがどんな思いなのかは、センにはわからないけれど。
 ぴん、と張りつめる一瞬。
 利彦がくるりと背を向ける。何も言わず、重い足取りで部屋を出ていった。
「弥久さん、大丈夫?」
 弥久はまだうずくまったままだ。
「ごめんなさい」
弥久が小さい声で謝る。
「そんなことかまわないから、殴られたところみせて」
「センさんのこと、利用しようとしたんだ」
「……うん、それも、なんとなくわかってた」
はっきりした理由は最後まで思い当たらなかったが、弥久が刀を隠してセンを和泉宿に留まらせた理由なんて、それくらいしかないだろう。センを利用するため――わかっていたのに、苦しい。
 弥久はうつむいたまま、話し続ける。
「夜依を助けてくれたセンさんなら、利兄ぃを助けてくれるかもしれないって思ったけど、いきなりそんなこと言っても無理だろうから。だから、だから、ごめんなさい」
聞き取りにくいのは口の中を切っているのもあるだろう。
「弥久さん、傷になっているといけないから、見せて」
「刀を盗んで、センさんの反応を見たとき……正直に言って、使えるって思った」
 そんなこと、いいよ、傷を――そう言おうと思ったのに、そう言えると思ったのに、
「全部うそなら、いっそ楽だ」
口をついた言葉は、やけに乾いている気がした。弥久がはっと顔を上げる。口の端が流血とは別に、赤紫色をしている。早く冷やした方が良い。でも言葉が止まらない。
「弥久さんが俺にしてくれたことも、言ってくれたことも、全部うそなら、いい」
 すべてが偽りなら、揺れない。
 誰かの優しさの裏には思惑があって、すべての人を心から信じていけないのであれば、簡単。
「友達じゃないって言ってくれれば、俺は楽だ」
例外がないことは、安寧だ。
「ちがうっ」
 小さいけれど、はっきりとした声で弥久が言う。
「全部うそでも、助けてあげるよ?」
ことさら優しい声を意識して、センは言った。
 弥久はセンを見つめる。ぎゅっとくちびるを噛みしめ、顔を歪めている。微かに震えながら、怖々と口を開く。
「うそじゃないよ、全部」
「弥久さんだって、全てがうその方が良いでしょう、利彦さんのために俺を利用するなら……あの、責めているわけじゃないよ」
利彦の名を聞いたからか、弥久の瞳が揺らぐ。
「センさんは、友達だ」
弥久は言い切った。センの胸が詰まる。嬉しい気持ちと、半信半疑。
「……だから、つらい」
「つらい?」
「つらい。後悔してる」
 弥久がうつむいた。
「センさんを利用しようとして、近づいたことを、とても、後悔、しています」
「弥久さん、あの、」
「俺のっ」
弥久はいきなり鋭い声を出した。
「こんな俺の言葉じゃっ、ひとつもセンさんに伝えられない。最初に利用しようとして近づいたからっ、何を言っても、伝わらない……っ、気が、して」
嗚咽の混じる叫び。
「そんなこと」
叫ぶ弥久をなだめようと手を伸ばす。弥久は幼子が“いやいや”をするように頭を抱え、かぶりを振る。
「それに……さぁっ」
 泣き声が、弱々しい泣き声が、センまで悲しくさせる。
「俺自身がもう、わからない」
「弥久さん自身?」
弥久は一度鼻をすすり、濡れる瞳を向けた。
「俺が俺の言葉を信じられない。友達だって思いたいのに、センさんにかける言葉の裏に、利用してやろうっていう心が、ある気がして、もう、だめだ、いやだ」
ははっと、弥久の口から湿っぽい笑みがもれる。
「父親のことを話したのも、何もかも、センさんを利用するために同情させたり、優しくしたりしているみたいで……自分で自分が、嫌になる」
吐き出すように言った。今にも再び、泣きだしそうな顔。明るくて人懐っこいと思っていた弥久は――センが思っていたよりも臆病で脆いのかもしれない。
 何か言わなくては、とセンは口を開いた。開いたまま固まってしまった。こんなとき、どんな言葉をかければいいのかわからない。つくづく自分が、嫌になる。センだって同じだ。自分で自分が、嫌になる。
 弥久は友達だ。
 なのにその心中を見て見ぬふりをして、泣き崩れるまで追い詰めた。泣く弥久を前に、ひとつの言葉も浮かばかない。それで本当に友と名乗れるのか。
(俺は……)
 情けなくて、涙が出る。ふたりで、泣いた。
「あの、弥久さん」
 上手く声が出ない。鼻にかかった声になる。深く息を吸って、気持ちを落ち着かせる。
「弥久さんは、自分のしたことを、後悔しているん、だよね」
弥久が小さく頷いた。そのまま顔をあげない。
 センはすっと息を吸う。
「だったら、自分のしたことをそんなに、責めないで良いと、思う」
弥久が顔をあげた。目が合う。頬が熱い。だってセンが言った言葉は、まるきり、弥久が言ってくれた言葉だから。
 結局なにも思いつけず発する言葉は、己の心を軽くしてくれた言葉。
 あの時のセンと同じように、弥久が戸惑う。
「でも」
センはありのままの気持ちを言葉にする。
「どういう出会い方をしても、どういう思いがあったにしても、今、友達だと思えるなら、それで良いんじゃない?」
弥久の顔が歪む。泣きだす寸前の顔。嬉し泣きか悲し泣きかはわからない。
 センは悪戯っぽく笑う。
「友達の言葉が信じられませんか、弥久さん」
久々に、弥久が笑みを見せた。苦笑に似た弱々しい笑みだけれど、笑みは笑み。
「ありがとう、センさん」



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