愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



疑留*4  ||―ギル―

 夏の朝風は、ひんやりとしている。センの周りを吹き去っていく。
 一晩待っても弥久が来なかった翌朝、センは藤下泉にきていた。
(思ったよりちいさいんだな)
十歩ほどで回りきれてしまうほどの周囲。
「でも綺麗な水だなあ」
透き通っている。水底から湧く水が絶えず水面を揺らし反射していなければ、水が在ることもわからないかもしれない。
 見るからに心地良さそうな清水をもてあそびたい衝動にかられる。
 すっと手を伸ばし、水に触れる。
(おお、気持ちいい)
思わず笑みが浮かんだとき、気配を感じて振り向いた。
「利、彦さん」
思ったよりも近くに、利彦がいた。相変わらず表情は薄い。
(こんな近くにくるまで、全然気づかなかった)
「おはようございやす、センさん」
「あ、おはようございます……あの、なんで」
ここにいるのか、と。
(付けてきたのか? それとも、ここに用があって偶然俺と鉢合わせた?)
どちらにしても、どんなわけがあるのか。
 利彦は微かに笑う。
「センさんと一緒だと思いやすよ。早く目が覚めたので、ふらっと」
「あ、ああ、そうですよね」
疑いはじめてはきりがない。一応、納得したと言い聞かせた。
「そうだ、利彦さん、この前はありがとうございました。クルイが出た日」
センは利彦に助けられたから、今こうしてここにいる。
「いや、礼を言われるほどのことじゃありやせん」
利彦はわずかに目を逸らし、首を振った。
 利彦がセンの方に来る。前に立った。眼力というか視線が鋭い。センの方が背が高く、見上げられている形であるが、ちょっと圧された。
 利彦がまっすぐにセンを見つめてくる。
「ハチロクなんですか」
はっきりと、言われた。いきなり言われるとは思っていなかったから、びくりと体が動いてしまう。
 ハチロク。己はハチロクなのか、だと。
 センは笑った。別に利彦を馬鹿にするわけではないが、そういう風な笑みになってしまっている気がする。どちらかというと自身を嘲っている笑みなのだが。
「俺はハチロクじゃないですよ」
センもはっきりと答えた。もちろん嘘なんか言っていない。
「そうですか、失礼しやした」
表情を変えず利彦が言った。
 それにしても、よくハチロクに間違えられるものだ。刀を差している者は誰でもハチロクに見えるのだろうか。センがハチロクと間違われることを、父親である千影に教えたら何と言うのか。ハチロクの総領であり、センを殺そうしている、千影に。皮肉だ。
 利彦はセンから目を逸らした。すっとセンの横を通り過ぎ、背後に回る。
「ねえセンさん、弥久のこと、なにか知りやせんかね」
「えっ」
驚いてふり返ると、利彦の背中しか見えなかった。泉を前にかがんでいる。
「なにか、知りやせんか」
水をもてあそびながら、利彦は同じことを言った。泉の波紋がゆらゆら揺れている。
「なにかって、なにを」
こう言ってすぐ、変な聞き方をしたと悔いた。
 知っていることが無いわけではない、と思う。
(でも利彦さんにそれを言ったら駄目だよな、たぶん)
 立ち上がりこちらを向いた利彦の顔は、どこか冷めていた。
「この頃あいつ、元気ないでしょう……センさんが怪我した辺りから」
「そ、うですか? ここしばらく会ってないからなあ」
(俺が怪我した辺りから)
センが怪我をした辺りから弥久の様子がおかしい。思い当たる節は――。
「わかりやした」
「力になれなくて、ごめんなさい」
素直に頭を下げると、利彦は薄く笑った。時たま夜依に見せるような、温かみのあるものに見える、気がするだけか。
「弥久はああ見えてなかなか人に懐かないんですが、はは、わかる気がしやす」
「それって、どういう」
 それには答えず――というかセンが聞いた途端に別のことを思い出したらしく――利彦は「そうだ」と言った。
「そうだ、千花さん、でしたか」
「え、は」
利彦が、千花と言った。
(どうして)
一歩うしろに、よろめいた。
 センの様子に少し目を見開いた利彦が、早口に言う。
「あの、弥久から聞きやした。まずかったですか」
「あ」
(そうだ)
和泉宿に来た最初の夜、夕飯の席で弥久に千花のことを聞いたのだった。宿の者に聞いてみると言った弥久の言葉を受けたのもセンだ。
「いえ、忘れていて。ごめんなさい」
へらりと笑いながら、心の中には期待と不安が混じる。
「それで、千花のことをなにか知っているんですか」
問う声に、自然と力がこもってしまった。
「いや、すいやせん、そういうわけじゃ」
 今度は利彦の方が一歩下がった。
「力になれなくて、すいやせん」
利彦はもう一度謝って、頭を下げた。
「そういうのに詳しい奴に聞いたんですが、知らねぇそうで」
「そう、ですよね。歳しかわからない人なんて、ね。ははは、気にしないでください」
 十年だ。センと千花の間にある時は、十年。十年のあいだ目を背け続けてきた人を、センは探しているのだ、そう簡単に見つかるわけがない。十年前ならまだなにかを覚えていたかもしれない。あの時探し始めていれば、良かったのかもしれない。
 後悔で歪みそうになる顔に、無理やり笑みを張りつけた。
「見つかりやすよ」
「え」
利彦が微か笑みを浮かべていた。
「離れ離れになっても、きっとまた会えやす……俺ぁ、神も仏もあったもんじゃねぇと思うことが多いけど、そこだけは馬鹿みたいに信じてる。きっと、また会えやす」
 なんの証もない話なのに、どうしてほっとするのだろう。センのことを本当に思って言ってくれているからだろうか。
 また、会える。
 嬉しくて泣きそうになった。言葉を続けた利彦のほほ笑みに、一瞬苦いものが混じる。
「だから、ねえ、センさん、たとえどういう形で会ったとしても、あんたは千花さんを受け入れてやらねぇといけねぇんだ。離しちゃ、いけねぇ」
(どうして、そんな苦しそうな顔をするんだろう)
 センが考える間もなく、利彦の顔はいつもの無表情に戻っていた。
「まあセンさんなら、大丈夫でしょう……心の清い方だから」
「は」
(それって、どういう意味)
いきなり心が清いなどと言われても、小恥ずかしい。
(俺はクルイなのに)
壊したい、殺したい、そんな穢れた感情しか抱けない存在なのに。
 呆けるセンに利彦がにやりと笑う。利彦がこんな、小意地の悪そうな顔をするのを初めて見た。
「あんたは自分で思っているより、ずっと嘘つくのが下手ですよ。まあ、全て含めて偽りなら俺ん手にゃあ負えねぇけど」
「え、下手ですか」
ちょっと傷つく。利彦はさらに愉快そうに笑う。こんな利彦、本当に珍しい。
「だから魅せられるんでしょう、弥久も夜依も、俺も……素直なのはそれだけで宝だ、盗めるもんじゃねぇし失くしやすいもんだ、どうか大切になすってくださいよ」
やっぱり最後の方、利彦は少し悲しそうな顔をした。そしてやっぱり、その表情は刹那の後に消えているのだ。
「さあ、そろそろ行きやしょう」
 もう歩きはじめている。センの横を追い抜き、早足で歩き始めている。
「あ、はい」
返事をしたものの、センは歩き始めず、ぼんやりと利彦の背中を眺めていた。
(“そういうの”って、どういうのだろう)
千花の話をしたとき、利彦は言った。
『そういうのに詳しい奴に聞いたんですが、知らねぇそうで』
(まさか狂環師に詳しい人に聞いたわけじゃないだろうし)
そもそも千花が狂環師であることを、利彦が知っているわけない――狂環師ともハチロクとも無関係なら。
 訊ねてみようと思ったら、利彦は既にずいぶん遠くを歩いていた。急いで後を、追いかけた。



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