愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



疑留*3  ||―ギル―

「ねえ、芳安先生、センさんの傷の様子はどうなんですか?」
 センの診察を終えた芳安に、夜依が茶を出しながら聞いた。
「ん、驚くくらい早いわい、ほとんどふさがっておる。これならもう薬も必要ないんじゃないかの」
湯呑みに手を伸ばしながら、芳安が答える。
 水を持ってくると言って出ていった夜依は、芳安老人を連れてきた。これまでも何度か安が傷の様子をみにきてくれたことがあるが、夜依には席をはずしてもらっている。夜依に背中の傷と刺青を見せたくないからだ。そのため、薬も自分で塗っている。
(まあ、薬を塗らなくても平気なんだけど)
 芳安が美味そうに茶をすする。細められた瞳がぎらりと光り、センを見ている。センは少し居心地が悪くて、苦笑した。無邪気に笑っているのは夜依だけだ。
「ったく、しねぇでもいい怪我はしなさんなよ」
 これ以上相手をしていられないと思ったのか、芳安は一気に茶を飲み干す。
「はあ、すみません」
曖昧な笑みを浮かべ、頬を掻く。芳安の言いたいことは何となくわかる。
 夜依の方が、芳安の言葉に鋭く反応した。
「何ですか、「しなくてもいい怪我」って。センさんは、亀戸屋さんの手代さんを助けて怪我したんですよ! そんな言い方しなくたって、いいじゃないですかあ」
ぷうと頬を膨らませる。
「今回のことじゃないわい」
「今回、って?」
「ちょっ、芳安先生!」
「別に言わんよ、じゃあの」
芳安は大儀そうに立ち上がると、そのまま部屋を出ていった。
 残されたのは不思議そうな顔をする夜依とセンである。
(もう、なんで夜依ちゃんの前で意味ありげなこと言うかなあ)
ため息をついて頭を抱えたい。当然、夜依は小首をかしげる。
「今回のことじゃないって、なんなんですかね? センさんは前に芳安先生に会ったことあるんですか?」
「いや、ないよ。何のことだろうね、本当に」
はは、と乾いた笑みがこぼれた。
(これ以上突っ込まれたら、やばい)
必死で頭をめぐらせ、嘘やごまかしを組み立てる。嘘ならたくさん付いてきたから、得意、だと思う。
(最近見破られることが多くなってきて不安なんだけど)
 どきどきしていたが、杞憂に終わる。
「まあ、ある意味しなくてもいい怪我ではありますよねっ!」
夜依が思いの外強い語気で言った。
「え?」
夜依は一瞬ためらうように目を左右にめぐらした。少し声を落として続ける。
「だって、ハチロクが早く来てくれていたらセンさんだけじゃなくって、怪我する人がもっと少なかったはずなのに」
「いや、でもそれは」
「わかってますよ。でも朝暮廷の、」
「夜依ちゃん」
不満そうな夜依をまっすぐ見つめ、首を左右に振る。
「それ以上言わないで。夜依ちゃんの口から他人の悪口なんて聞きたくないよ」
夜依は少し頬を赤くし、小さく「はい」と返事した。
「そう言えば夜依ちゃん。いくら俺とはいえ若い男と一日中一緒にいることを、よく弥久さんが許してくれたね。怒られちゃいそうだな俺」
 話題を変えようと思い、笑いかけた。でもこれも、聞きたいことではあるのだ。
「だ、大丈夫ですよ! だってお兄ちゃん、センさんの側を絶対に離れないできちんとお世話しろって言ってるんですよ、わたしに。ね、大丈夫!」
まだ頬から赤みが引かない夜依が、早口で言う。
「そう、弥久さん、そんなこと言ってくれてるんだ、うれしいな」
(今晩あたり、来てくれるかな……)
 センが怪我をしてから、一度も弥久の姿を見ていない。
「料理場は忙しいの?」
「あ、はい、何かと忙しいらしくて、わたしもここ数日、あまり話せてないんです」
夜依はしゅんと少し目を伏せてから、センを見つめてきた。
「やっぱり、わたしとばかり話していてもつまらないですよね。あとでお兄ちゃん、呼んできましょうか?」
「え、いや、そういうつもりじゃないよ。夜依ちゃんが色々話してくれるから、楽しいよ」
本当は弥久に会いたい――けど、会いに来てくれるのを待っている。
「ねえ、夜依ちゃん」
「はい」
「戻っていいよ、湯場の仕事に」
「えっ」
 夜依がまじまじとセンを見た。
「俺少し眠るからさ。俺の寝てる顔ずっと見ててもつまらないでしょう? それに夜依ちゃんがよく看てくれていたから、本当に良くなったし」
 夜依が湯場の仕事に戻りたがっていることはわかっていた。湯場の忙しくなる夕方になると外を気にしだすのだから、わかりやすい。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
うずうずした様子で夜依が問うてくる。
「もちろん」
にっこりと笑って、肩を回して見せる。まだ痛みがあるが、ほぼ問題ない。
「ありがとうございます! でも何かあったらすぐに呼んでくださいね!」
夜依はぺっこり頭を下げて部屋を出てった。素直に出て行ってくれて良かった。おそらく芳安の言葉も大きかっただろうと思う。
(俺といたって、つまらないだろうし)
センの世話に縛られて湯場に行けず、それでも笑う夜依を見るのは辛かった。
 それに、セン自体も、少しひとりになりたかった。
 寝転がり、天井をあおぐ。やはり傷が微かに痛む。
(「しなくていい怪我」か……)
ふいに夜依の言葉が頭をかすめる。確かに、クルイが現れたときハチロクがいればセンはこんな怪我をしていなかっただろう。
 宿場内にクルイが現れたとき、ハチロクが誰もいなかったのは朝暮廷の勅使の警護をしていたかららしい。亀戸屋に宿泊し宴会を楽しんでいた勅使だが、クルイが来たことで通行人たちが宿の中に押し寄せてきた。
 そのままとどまれば良かったものを、「下賤の者とは一緒に居られない!」と怒り出した勅使は、供人だけでなく、和泉宿場に駐留し警護役としてその場にいたハチロクまで引き連れ移動した。
 クルイ狩りに向かいたいというハチロクの願いは聞き入れてもらえず、結局ハチロクが駆け付けたのは勅使を安全な場所に送った後だったそうだ。
 センが大通りに向かっている時に会ったのが、朝暮廷の勅使だと言っていた気がする。
(なんて名前だったかな?)
勅使と、あの少年。
 あの時は急いでいた。端から覚えようとしていなかったかもしれない。少年の真っ黒な姿が脳裏を巡る。それに連れられるように名前が――出てくる前に、かくんと首が揺れた。
 ひどく眠い。
(本当に眠ろうかな)
一日中横になっているのだから疲れないだろうと思うが、動かないでじっとしているというのも案外疲れる。日があるうちでもこういう風に、ふいに眠気に襲われる。
(それに今なら弥久さんも来られないだろうし)
宿はこれから忙しくなる。
 目をつぶると、驚くほどすんなりと意識が落ちた。


 宵の口に目が覚めた。暁になるまでの空の様を眺めていた。
 その間はただただ静まり返り返っている。静寂を破ってセンのもとに訪れる人は、誰もなかった。
 夏の朝風が、ひんやりと頬をなぶる。



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