愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



小弛みの水色*5  ||オダユミ ノ ミズイロ

「詠花さんが?」
 不思議に思って首をかしげるセンに、弥久はうんと頷いた。料理場の忙しさもひと段落ついた、昼過ぎのことだった。
「ちゃんとお礼がしたいから夕方に明冲屋にきてほしいんだってさ。さっき俺のとこに直接きたんだけど」
「お礼って、なんの?」
詠花とは昨日会ったきりで、しかも短い時間だけのことだった。何か詠花を助けるようなことをしただろうか。理由がわからない突然の呼びだし。
(なんか裏がありそうで、やだなあ)
 首をひねると弥久が、にっこりする。
「夜依のことじゃないかな。詠花さんは夜依のことを本当に可愛がってくれているから」
「あ、そうか」
(どうも疑り深くていけないな)
苦い笑いがこみ上げる。
 会う人すべてを疑ってしまう自分が、悔しい。
 センの苦笑を人と話す不安だと思ったのか、弥久は、
「大丈夫だよ、詠花さんはとっても話しやすい人だから。あの人に酌してもらえるなんて、なかなかないぜ。楽しんできなよ、利兄ぃには黙っておくから」
最後の方、にやりとして言った。
「いや、そういうことじゃなくて」
「じゃあ、なにか? センさんには心に決めた人、夕凪ちゃんがいるから詠花さんの誘いはかえって迷惑ってか? ははっ」
「なっ、ちょっと、弥久さん!」
かっと体が熱くなる。
 別にそういうわけじゃない。そういうことではなくて。
(なんか不安なんだよなぁ)
胸に何かが突っかかって、すっきりと受け入れられない。きっと今まで人に呼び出されてまともな目に遭ったことがないから、体が自然と嫌がっているのだろう。
 ちなみに、今まで呼び出されたのは見知らぬ男たちからが大半で、残りは怪しげな女に連れ込まれて、その先に待っていたのはやっぱり大きくて人相の悪い男たちだった。
(今回も綺麗な女の人だけど……違う、よな?)
さすがに夜依の姉のような存在である詠花がそんなことをすると思えない。
「なんだよ、センさん、浮かねぇ顔だなあ。あのなあ、いくらセンさんがかっこよくても迫られる心配はないから安心しろって。センさんに夕凪ちゃんがいるように、詠花さんには利兄ぃがいるんだから」
すっかりわかりきったような口調で言って、弥久はうんうんと頷いてみせた。センは微笑みをかえした。
 ごちゃごちゃと他愛ない話をしていると、弥久に料理場の方からお呼びがかかる。半分以上、怒鳴り声だ。もう夕の仕込みが始まるらしい。
 弥久はびくっと首をひっこめると忙しなく「じゃあ、伝えたから」と背を向けた。足を引きながら歩く弥久を途中まで見送り、センも湯場の手伝いに戻った。
 男湯場の方に行くと、利彦が湯船を束子でごしごしやっていた。いつもは夜依がやっている仕事だ。
「利彦さん、手伝いに来ました……けど、夜依ちゃんはどうしたんですか?」
利彦は顔を上げセンを見ると、「ああ」と答えた。
「夜依は亀戸屋さんに頼まれて、女中の手伝いに行った。朝暮廷の勅使が泊まるとかで、人出が足りないらしい」
「へえ、朝暮廷の」
ハチロクやその総領家である千朱原家は多少なりとも関わりがあるのかもしれないが、センには全く関係ない雲上の人々だ。朝暮廷と同じく央都に居を構え、クルイを狩るという特殊な生業を持つハチロク。
(俺は狩られる方だからな)
心の中で苦笑して、センも利彦の横で水を抜いた湯船を洗いはじめる。
 しばらく黙々と作業をする。耳に入るのは束子でこする音と遠くの喧騒だけ。黙々、黙々。
(気まずい……)
あまり利彦とふたりきりになることはない。大体そばに夜依がいるし、ふたりきりになったとしても利彦は用件を伝えるとすぐ自分の持ち場に戻ってしまうので、こうして同じ場所に居続けることはなかった。
 別にセンだって利彦とぺちゃくちゃとお喋りしたいわけではないが、一言もないというのはやりにくい。いくら仕事中といえ、こうも話してはいけないものだろうか。
「あの、夜依ちゃんがいないと、やっぱりちょっと淋しいですよねぇ、はは」
額に汗が滲んできたころ、センは思い切って沈黙を破った。
 それに対し利彦は、
「俺は、夜依がいない方がいい」
平坦な声で言った。
「え、なんで、そんなこと」
センが驚くと、利彦は下に向けていた視線をはっと上げた
「もちろん、湯場の仕事をしてほしくないっていう、意味ですよ」
利彦の顔はひどく真面目だ、だから、わからない。
「それって、どういう意味ですか」
利彦の真意がわからない。
「手、止まってやす」
利彦はセンから目を逸らし、またそうじに戻った。
「あ、すみません」
センも慌ててごしごしと束子をやった。
(聞いちゃいけないことだったんだな)
 深く入り込んでほしくない場所が、それぞれにある。センにはその境界がまだくわからない。今まで傍観に徹してきた自分の罰であり試練なのだと考えているが、そのために他人に嫌な思いをさせてしまうのは申しわけない。
「ごめんなさい」
 返事を求めない謝罪に、利彦は一瞬押し黙った後、
「湯場は女には辛い仕事が多いから。薪割ったり、火焚いたり、夏は暑いし、冬は冷たい」
「ああ、そういうことですか」
 しばらく手伝っていて、湯場の仕事がとても大変なことは十分身にしみている。小柄な夜依が水を張った桶や薪束を持っているのを見ると、つい代わってあげたくなる。それほど大変そうに見えるのだ。火傷や怪我をすることも多いだろう。
(夜依ちゃんのことが心配なんだな)
 利彦も弥久と同じくらい夜依のことを大切に思っているようだ。微笑ましくって少し笑んだセンに反して、利彦が吐き出すように呟いた。
「湯女(ゆな)でもあるまいし、女が湯場にいなくていいんだ」
 利彦の瞳は遠くを見ていた。遠くを見ているが口調だけはやけにしみじみと、まるで娘を心配する父親のようで、
「あんなちんちくりんでも夜依も十三だから、薄着で客の背中流してると中には助平な奴もいるんですよ、お客様のこと悪く言ったらいけねぇけど」
と苦い顔をした。
 夜依の主な仕事は今セン達がやっているようなそうじと客の背中流しだ。普通の湯屋では三助(さんすけ)と呼ばれる男の仕事。利彦も三助として客の体を洗ったり、肩をもんだりしている。
 女で似たものを挙げるなら湯女(ゆな)とよばれる春を売る職がある。もともとは単に客の背を流すだけであったものが拡大していき、今では湯女と言えば、そういう意味や職のことを指すようになった。
(夜依ちゃんのことが可愛くて、大切で、しょうがないんだな、みんな)
心があたたかくなって、笑みが浮かぶ。
「なに笑ってんで、センさん」
利彦が不思議そうに見ているのに気づき、慌てて笑みを引っ込めた。
「そもそも、どうして夜依ちゃんは湯場の仕事をするようになったんですか」
 女の子には大変な仕事であるのは源衛やお澄だって承知だったろう。夜依に湯場の仕事をさせているのはどうしてだろう。
 利彦は本当に一瞬だけ目を細めてから、
「ああ、昔、一時、夜依が落ち込んでいる時があって、俺が何かと面倒見てやっていたんです。弥久は料理場だから夜依が周りをちょこまかしていたら迷惑かけちまうから。そうしたらいつの間にか、湯場の手伝いをするようになって……何度もやめろって言ってんのに」
とぼやいた。
 やっぱりセンは笑ってしまう。人が人を想う気持ちは他の者も笑顔にする力があるのだ、きっと。
 センは笑ってしまって、少し羨ましくて、ちょっと泣きたくなった。



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