愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



小弛みの水色*6  ||オダユミ ノ ミズイロ

 芸者屋・明冲屋は和泉宿の中央通りにある。中央の通りには大店が立ち並び、宿場の総締めである亀戸屋文吾老人の宿もある。弥久に教わった通りの場所に建つ、明冲屋と思われる建物を見上げ、センはぽかんと口をあけた。
「う、わ……すごい」
広い間口の二階建て。どこがどう、というのはよくわからないが、見るからに立派だ。きっと建て方や細かいところに金をかけているのだと思う。本当に一流の店というのはそういうものらしい。金をかけていることがわかるのに、金をかけている空気を出さない。
(詠花さん、どこかな。お店の人に取り次いでもらうにしても、こう立派なお店だと声かけにくいんだけど)
 どうしようかと思っていると、
「口を開けてんじゃないよ、センさん、好い男が台無しじゃないか」
声をかけられる。たぶん詠花の声だ。辺りを見回すと、明冲屋と隣の店の間の、細い路地に詠花が立っていた。夕日に伸ばされ出来た建物の影に、詠花の姿が半分隠れている。
 おいでおいでと、詠花が手招きする。白い肌だ。呼ばれるまま寄っていくと、ぬっと伸びてきた手がセンの手首を掴み、路地へと引き込んだ。
「っ! ちょ……っ!」
もう片方の手で口を塞がれ、体を木塀に押し付けられる。滑らかな肌。甘い香りがする。
(な、なに)
ものすごい速さで胸が鳴る。通りの喧騒も耳に入らない。
 詠花がセンの口から手をどけた。でも手は離してくれない。
「よ、よみばな、さん?」
なんなんですか、と開こうとした口を今度は人差し指で止められた。耳元で囁く声。
「しぃ、静かに。あたしはここにいちゃいけないから、あんま大声は出さないでおくれよ」
「え?」
詠花はセンの手を引き、ずんずんと奥に進んでいく。手を離してくれと言う機を逃し、引かれるままに付いていくしかない。
「本当はねぇ、今日は朝暮廷の勅使様が来るからって座敷に行かなくちゃいけなかったんだけど、ねぇ?」
「じゃあ、どうして」
詠花が立ち止まり、流し目をくれる。背筋にぞくりと、痺れがはしる。
「センさんに会いたかったからサ、ふふ」
紅を引いていないのにふっくらと赤いくちびるが、美しく半月を浮かべる。
 手が熱くなり、じわりと手の平に汗がにじむ。センはもう耐えられなくなって、ばっと手をひっこめた。詠花がおかしそうに笑った。
(からかわれているのは、わかる、けど)
詠花のような美女にからかわれては、命取り、息も絶え絶えである。
(こんな綺麗な人にからかわれても動じないのなんて、雪村さんくらいしか思いつかないな)
雪村由月。ハチロクでセンの恩人で、そして詠花に負けず劣らず美しい顔をしている。男だが。
(雪村さんは見た目に惚れるような感じじゃないもんなあ)
 雪村を思い出したのにつられて夕凪やきく婆、森囲村のことを思い出している内にだいぶ気持ちも落ち着いてきた。そんなころ、詠花は立ち止まった。
「夜依の恩人のセンさんにこんな所から入ってもらうのも悪いんだけど、サ、入っとくれ」
詠花は木塀にしつらえてある裏戸を開けた。
 目に入ったのは二階建ての長屋だ。表の建物と比べるとずいぶん質素なものだ。
「あたしらの寝床さ。本当は表の店の方でやりたいんだけど……」
ったく朝暮廷も間の悪い、と悪態をつく詠花は、悪態をついていてもやっぱり綺麗だった。
 明冲屋は芸者を宿や料理屋に向かわせることの方が多いが、店で宴会を催すことも少なくない。そういうわけで和泉宿一の芸者屋・明冲屋はあのように立派な店を構えているのだと、詠花は説明した。
「ま、一歩奥に入れば、こんなもんだけどね」
詠花はぱんぱんと畳を叩いて笑うが、この部屋だって全然ぼろじゃない。箪笥に鏡に蒔絵の文箱、柳行李かいくつか。むしろさっぱりしていて居心地が良い。
「さて、センさん」
 急に真面目な顔になり、詠花が居住まいを正す。ゆっくり、しっかり、深く頭を下げた。
「夜依を助けてくれてありがとうございました。本当に、本当に、ありがとう」
声が少しだけ、震えている気がする。
(どう、して)
ありがとう、なら皆に言われた。夜依、弥久、お澄に源衛に、利彦にもお梅たち宿の者にも言われた。
 でも、違う。詠花は違う。なにがどう違うのか、うまい言葉を見つけられないけれど、もっと深くて重くて、悲しくて――センまで泣いてしまいそうになる、そんな感謝の言葉。
「あ、あの」
こんなとき、どんな言葉をかけていいのかわからない。
 詠花の肩は震えている。小さく、ふるふると。震え、大きく息を吸い、やけに長く息を吐いた。顔を開けたとき、詠花はすでに晴れ晴れとした笑顔に戻っていた。
「サ、大したものはないけど、飲んでくださいな」
詠花は徳利と小鉢の乗った盆をセンの前にやると、猪口を持たせた。
「あ、いや、俺」
「飲めないなんて情けないこと言わないでしょ?」
からかうような上目使いでセンを見つめ、酒をつぐ。
「ま、まあ」
飲めないことはないが、飲む機会自体が少ないし、あまり好きでもない。
「さあ、ぐいっと。いい酒だろうから、美味いよ」
「じゃあ、いただきます」
確かに飲みやすい酒だ。少し甘くて、すっと喉を下る。今まで飲んだ酒の中で一番美味い。
 一気に飲み干すと、詠花が嬉しそうに騒いだ。
「ふふっ、良い飲みっぷりだねぇ! さ、もう一杯」
すぐさま猪口が満たされるが、今度は一気に飲まず少し口を付けるだけにした。
「いえ、あの、それより、昨日、大丈夫でしたか?」
「昨日?」
詠花は形の良い眉を片上げる。
「はい、水色屋に怒鳴りこんできた男たちです。俺、店の前からいなくなったからって安心しちゃったけど、落ち着いて考えたら、あんな奴らを女の人ひとりに押し付けちゃったわけだから、不安で……」
自分のしたことが恥ずかしくて、うつむいた。
 昨夜その不安を弥久に話してみたが、大丈夫だと言われた。明冲屋にはいざというときの用心棒にもなるよう屈強な男たちも働いているし、あの手の奴らは美味い酒と料理が食べられたら自分らが何をしたいのかも忘れてしまうような輩だから、と。
(でも……)
 そうだとしても、結果的に見捨ててしまったようで心苦しい。
「詠花さんが無事で、ほんと良かったです」
 ほっとして微かに笑みを浮かべると、詠花も笑う。なんだか複雑な苦笑だ。
「……センさん、あんた、あたしを口説く気なのかい?」
「はっ!? え、そんなわけっ! どうしてそんなことっ」
真面目な話をしているのにいきなりからかわれるのだから、女の人というのは恐ろしい。詠花の苦笑いが濃くなる。
「だよねぇ。あぁ、いやだ、いやだ。好い男な上に、性格も良いねぇ、良い性格してるよ、あんた」
 苦笑は徐々に笑いに変わっていき、しまいには天を仰ぎ大笑いしはじめた。なにがそんなにおかしいのだろう。そもそも、風邪で休んでいて一人でいるはずの部屋で、こうも大笑いしていて良いものなのだろうか。
「ふっふ、ふふ、ねぇ、ひとつだけ言っておくけど夜依には手ぇ出さないでおくれよ。あたしゃもちろん、弥久と利さんも黙っちゃあ、ないんだからっ」
本当に笑ってしまっていて、何と言っているのかよく聞き取れない。辛うじて夜依とは聞こえた。
(そういえば、この前利彦さんと源衛さんに笑われたときも、夜依ちゃんの名前が挙がっていた気がする)
「あの、俺が夜依ちゃんになんかしちゃってるんでしょうか」
しゅんとなって聞いたが、詠花はなにも答えてくれなかった。やっとおさまった笑いの名残を両目尻からぬぐい、
「まあ、あたしらが釘を刺したって、その気がないのにやっちまうものはしょうがない……本当にヤになっちまうよ」
ふう、とまた長いため息をはいた。
 すうっと吸って、もう一度ふうっと吐く。急に静かになった詠花は、遠くを見つめた。どこかで見たことのある目だ。
(確か、利彦さん)
利彦も、こんな目をしていた。あれはいつのことだっただろう。
「本当に、いやになっちゃうね」
「詠花さん?」
どうしたのか聞こうとした時、ぞわりと嫌な寒気が背をかける。詠花も何か感じたのかびくりと肩を動かした。
(これ、まさか……)
 耳を澄ます。急に早く鳴った鼓動が邪魔するが、聞こえた。
 呪いじみたその言葉を、忌々しく冷たい言葉を、耳が拾う。遠くから聞こえた誰かの怒鳴り声をセンは繰り返した。
「クルイだ……」
 センは立ち上がり、数歩先の戸へ駆ける。
「駄目よっ、行っちゃあっ」
叫んだ詠花の声音に驚き、ふり返る。詠花は怯えたような顔をしている。
「あ、危ないから」
掠れた声。詠花の様子が気になるが、クルイの方も気になる。
「大丈夫です。詠花さんこそ危ないから、ここにいてくださいね。絶対に動いちゃいけませんよ」
口早に言って、部屋を飛び出す。
「ええ」と返事をした詠花の顔は、やけに青白かった。



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