愛しみ罪代―カナシミ ツミシロ―



小弛みの水色*4  ||オダユミ ノ ミズイロ

 詠花は芸者らしい。和泉宿の芸者は特に和泉芸者と呼ばれるらしく、詠花はその中でも一番格であるそうだ。もちろん、詠花が在する芸者屋・明沖屋(あけおきや)の中でも一番人気がある。一番になるには美貌だけではなく機転や気前などの性格も関係してくるし芸事にも精通していることが必要で、宿花は三味線、舞踊、小歌……とどれも一流の腕前を持っているそうだ。
「よみ姐さんは、ほんっとうに、すごいんです!」
 夜依は詠花に関する説明をそう締めくくった。ほんのりと頬が桃に染まっている。
 詠花が男たちを連れていったので、結局センは何ごともなく弥久と夜依のいる部屋に戻った。格好悪いといえば悪いが、何ごともないのが一番だ。
 部屋に戻ると窓から一部始終を見ていたらしい夜依が「さすがよみ姐ぇっ」ときゃあきゃあ言っていたので、詠花とは何者なのかと聞くと、夜依が大変張り切って説明してくれたというわけだ。
「夜依ちゃんは詠花さんのことが好きなんだね」
「はいっ」
にっこり満面の笑みを浮かべ、夜依は返事した。
「夜依は旦那さまに拾われたときまだ小さかったから、詠花さんの家で預かってもらっていたんだ。詠花さんのお父さまと旦那様がとても親しかったから。詠花さんにはよく面倒見てもらって」
 弥久が夜依の言葉を引き継ぐように付け足した。
「家業が芸者屋なんですか? ……あんまり聞かない話ですけど」
芸者屋だからといって自分たちの娘に芸者をやらせる、という話はあまり聞いたことがない。
(でも俺、世間知らずだからなぁ)
芸者屋や料理屋、船宿などは女将の方がいろいろと強いそうだ。女将になる女はもちろん芸事に通じていなければならないだろうから若い頃は芸者として働かせるのだろうか。
 無知な頭をぐるぐる回していると、沈黙の長さが気になった。他愛ない問いに答えるにしては間がひらきすぎていないだろうか。
(どうしたんだろう)
不思議に思ってふたりの顔を見ると、弥久と夜依は少しこわばった表情で目を伏せている。
(あ、まずい)
聞いてはいけないことだったらしい。何気なく聞いただけなので、別に答えてもらう必要もない。センが口を開こうとしたとき、お梅がふたりを呼びにきた。
「弥久、夜依、そろそろ店の方に戻ってもらえないかね、もう大丈夫だろう?」
(助かった)
 おそらく弥久も夜依も同じように思っただろう。ふたりは大きく返事し、慌ただしく部屋を出ていった。センだけがぽつんとひとり残される。
(夜依ちゃんの手伝いするわけにはいかないし……弥久さんのとこじゃ邪魔にしかならないからなあ)
夜依だって気まずい質問からやっと逃げられたと思っているに違いない。かといって湯場の薪割りや焚き木運び以外センに手伝えることはない。
(ま、たまにはいいか)
 客分としての扱いを享受しよう。ごろんと横になり、ぽりっと頬を掻いた。目を閉じて、頭の中でぐるぐるしている様々を、ひとつにさせていく。
(今考えるのは、俺の刀のことだ)
盗まれたことで切れたはずだった、あの人とセンをつなぐ唯一の実物。
(だけど、もしかしたら――)
まだ切れていないかもしれない。


 ぎ、と音がし、センは目を開けた。
(もう夜か……)
寝ていたわけではなく、考え事をしていた。ぎっぎっぎっと足音が聞こえてくる。この足音は、弥久だ。片足に体重がかかるためか、足音に特徴がある。すっと息を吸ったとき、ちょうど弥久が部屋に入ってきた。
「弥久さん、お疲れさま」
「夕飯食べてないだろ。ほら、握り飯だけど」
 弥久が差し出した皿の上には握り飯が三つと沢庵が二、三切れ乗っていた。腹は減っている気はしなかったが、握り飯を見たとたん、ぐうと腹が鳴った。
「はは、いただきます」
かぶりつくとまず塩の味が口に広がり、次は米の甘み。噛む前からじわりとよだれが出てきた。
(うまい)
もう一口かぶり、口いっぱいの握り飯をもぐもぐ食べた。たくあんも口に放ると歯ごたえがちょうどいい。
「これ、弥久さんが作ってくれたの?」
「うん」
「どうやったらこんなに上手く出来るんだろう。やっぱ弥久さんはすごいなー」
こんな美味い握り飯は食べたことがない。弥久は照れくさそうに笑った。
「俺なんかまだまだだぜ? 旦那さまが作った握り飯はもっともっと、比べ物にらないくらい美味い」
 源衛はもともと水色屋の料理人で、一人娘だったお澄に惚れられて婿に入ったらしい。センも何度か源衛の作った物を食べたことがあるが、確かに美味かった。
(弥久さんは源衛さんのことを本当に尊敬して、慕ってるんだな)
無邪気な表情で源衛のすごさを語る弥久を見て素直にそう思えた。
(俺も、父さんのことを、そう思えたら良かったのに)
 傍目から見たら父親である千影は尊敬に値する、立派な人物なのだと思う。敵とあれば我が子であれ殺そうとする精神力と仕事に対する真剣さは並ではない。
(きっと、父さんの敵が俺じゃなければ、いいんだろうけどな。当たり前か)
ふいに思い出してしまった父につられて、千花のことを考えてしまい、苦い笑みが浮かんだ。
「あの、センさん?」
 弥久がセンの表情を窺っている。まっすぐな目をしていることが多い弥久にしては珍しい表情だ。目で促す。
「夕方の、詠花さんのことなんだけど」
「ああ、あれは別にいいよ。俺みたいな他所者には話しにくいこともあるだろうし」
「いや、隠すほどのことでもないんだ……センさんになら、別に」
「本当に、いいの?」
あの時の弥久と夜依の黙り方を見ると、とても軽々しく聞いて良いことではない気がする。
「だって、あんな変な黙り方したら気になるだろ」
「う、ん。まあ」
弥久はセンの心を見透かしたようにははっと笑う。気にならないと言えば嘘になる。
 軽く息を吸う音。
「詠花さんは、神隠しにあったんだ」
「え」
弥久の目は真剣だった。辛そう、とも見える。
「神隠しにあって、また、戻ってきた人なんだ」
「そんなことが……」
(あるのか?)
 神隠しにあって戻ってくる話なんて、聞いたことがない。
「詠花さんは今から八年前にいきなり消えちまって、あの時は夜依もすごく悲しんでどうしようもなかった。でも、三年前にふっと戻ってきたんだ」
「家族は」
弥久が目を伏せる。
「……詠花さんが神隠しにあってから一年くらい経った頃、火事で家ごと。死体も出ねぇほどひどい火でさ」
「そう、なんだ」
「ああ、だから詠花さんは今芸者をしているんだ……中には詠花さんの神隠しのことを悪く勘ぐる人もいるから、あまりべらべらしゃべっていいことじゃないんだけど」
弥久が切なそうに、薄く笑った。
「不思議な話もあるもんだね、話してくれてありがとう。詠花さんが帰ってきて本当に良かった」
素直に気持ちを言うと、弥久が静かにほほ笑む。
「ああ、夜依も喜んでる……センさんなら、そう言ってくれると思った」
「うん?」
 センは首をかしげた。本当は、詠花の神隠しの裏にはなにかあるのかもしれないと思っている。でも誰にだって隠したい悲しみはあるはずだから、なにも聞かない。
 そのまま“だんまり”になるのが嫌で、センはわざと明るい声を出した。
「本当に良かったよ、詠花さんが戻ってきてくれて。あんな綺麗な人、なかなか見られないもん。本当に綺麗だよね」
「あ、駄目だぜ、センさん。詠花さんには好い人がいんだから」
弥久はにやりと笑う。
「好い人?」
「ああ、利兄ぃだよ」
(利彦さんが……)
「へえ、そうなんだ」
何となく、引っかかった。
「ああ、お似合いだぜ。ふたりの両想いはなんたって、子供のときから。そんじょそこらの好いた惚れたとは年季が違うからな」
「あんな綺麗な人に好かれるなんて、うらやましいな」
 日暮れの詠花の態度、利彦の態度。
(何かおかしくないか)
人前だから憚っただけかもしれない。
(けど……)
もっと深いような、冷たいような。
「あれ、センさんもしかして、本気で詠花さんに惚れた?」
 急に暗い顔をして黙ってしまったセンを心配したのか、弥久は気まずそうにセンの顔を覗きこんだ。
「いや、俺には夕凪が……いや、いやいや、あの」
なにも考えず、夕凪がいるからと言おうとしていた。
(な、なんで俺……っ)
無性に恥ずかしい。弥久がにやりと笑う。それはもう、盛大ににやりと笑う。
「なんだよセンさん、もてないなんてやっぱり嘘だったんだな。夕凪ちゃん? ってどんな娘(こ)なの、聞かせろよ、よっ、色男!」
「あの、もう寝ようよ、明日も早いんでしょ、弥久さん」
「ふたりの馴れ初めが夜更かすくらい長いなら、まあ、日を改めるけど」
にやにや笑う弥久。
「いや、そんな長くないっていうか、あの、俺と夕凪はそんな、弥久さんが思っているような関係、じゃ、ない、です」
「俺と夕凪は、っていう響きがもう羨ましいよね」
体が熱い。
 それから弥久に背中をばしばし叩かれたり、散々からかわれたりして、眠りについた。
 まどろみの中、やけに多くの遠吠えを聞いた。



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