千。



時雨心地の希い*3  ||シグレゴコチ ノ コイネガイ

 遠くにセンの姿を認めた。
「センっ!」
大声で呼ぶとセンの肩がびくりとし、勢いよくこちらをふり返る。遠くてよく見えないが、驚いた顔をしているだろう。センは踵を返し走り始める。
「待って、逃げないでよ」
遠くのセンへ呼びかけて追いかけるうち、足元がおろそかになった。つまずき、転ぶ。
 体を支えようと伸ばした手の平が地面をすべり、じんじんと熱く痛い。
「う」
起き上がるのが恐い。きっともうセンはいないから。センは夕凪に何も話さず行ってしまうから。
(何、勘違いしてたんだろう、わたし)
 センが何も話してくれないのは、夕凪のことが嫌いだからだ。センがクルイになった経緯を話してくれないことに対して怒っていたのは、夕凪の身勝手だ。
(わたしには、センを受け入れる、受け止めるなんてこと、そもそも決める資格が無いんだ)
話してもらう資格がない。
 白目の抜けたセンを見て、怖いと思った。クルイのセンを殺そうとした。
(わたしはセンがクルイだと知って態度を変えるような人間だから)
センだって、きっと夕凪のことを軽蔑している。吐き気と嗚咽がこみ上げる。
(また、言いたいことが言えなかった)
涙が出そうになる。
「ゆ、夕凪……大丈夫?」
 小さく聞こえたその声に、顔を上げる。二、三間離れた場所に突っ立ち、センがこちらを窺っていた。
(いた……)
センがいた。いてくれた。
 夕凪は口を開く、が、声が出ない。
「夕凪、どこか怪我したの、大丈夫?」
こんな時でも夕凪のことを心配してくれる。
(ここで、聞かなきゃ)
臆病なままじゃ、何も変われない。
 センのことが怖いから、自分のことを変えたいから、ここに来た。夕凪は起き上がる。
「わたし、センに聞きたいことがあるの」
センの眉間に微かにしわが寄る。
「……なに」
乱れた息を整えるため、大きく一度、呼吸する。まっすぐにセンを見つめる。センは一歩下がった。
「センはさ、誰か全然知らない人の身代わりになって死ねる?」
センの眉間のしわが深くなる。夕凪の問いに意味を測りかねているのだろう。
「だからね、たとえば……わたしが誰かに殺されそうになってて、わたしを殺そうとしている誰かが、センが代わりに殺されればわたしのことを生かしてやるって言われたらどうする、って言いたいの」
「死ぬ」
 悲しくなるくらいセンは即答した。その瞳は、迷わない。
(やっぱり、おかしいよ)
センを睨む。センは恐れたようでまた一歩退いたが、夕凪がセンを睨むのは、そうでもしなければ涙がこぼれてしまいそうだから。
「センはクルイなんでしょ」
「うん」
わかっていて聞いたのに改めて言われて、ぐ、と心が重くなる。
(受け止められないよ、わたしには。婆さま)
 でもここで逃げちゃいけない。向き合わなければいけないのだ。言いたいことを言わなければ、センと二度と会えなくなってしまう。センにもう一度会いたい。
「じゃあ生きてよ」
「……え」
ぽかんと呆けたセンの口から、声がもれた。
「自分から死んじゃったり、誰かの代わりに死のうなんてしないで」
「どう、して」
「かっこよすぎてずるいし、気持ち悪いから。頭にくる」
それに悲しいから。センが死んだら、たぶん悲しい。
「どういう意味か、わからないよ、夕凪」
センの顔は困惑というより、恐怖に近い。蒼白で、夕凪を見つめる双眸は大きく開かれている。
 夕凪は一気に続けた。
「誰かの身代わりで死ぬのも構わないなんて、かっこよすぎるよ。お話の世界だよ。それこそ狂ってる、人じゃない、気持ち悪い。わたしはクルイが嫌い、大嫌い……センがクルイだっていうならたぶん嫌い。今は嫌い。クルイのセンがね、誰かの身代わりで美しく死にます、なんてずるいじゃん。生きたくたって死ぬ人だってたくさんいるのにさ」
「ごめん」
「謝らないで」
ぴしゃりとしかりつけると、センは首を縮めた。子どものようだ。
 またひとつ、わからなくなった。
「……ねえ、今のセンは、なんなの」
クルイだと思い切るには、センはあまりにも人らし過ぎて、人だと思うには白い瞳は絶対すぎる。
 センは当然のように答えようとした。
「俺は、クル」
「違うでしょう、センはクルイじゃない。でも人でもない。人なら、どんな時でも最後まであきらめず生きようとするはずだもん。クルイなら最後まで殺そうとするはずだもん。ねえセン、そうでしょう」
 もう何が何だかわからない。
 センは、クルイじゃない。否定したいのはセンの言葉というよりも、自分の考え。
「だから今は、センはセンだって思うことにする」
「俺は、俺?」
戸惑ったようにセンが繰り返した。わざと大きく頷く。
「そう。センが人かクルイかは今のところ気にしない、答えなんて出ないもん。センが話てくれないから」
「ごめん、でも」
「話さなくていいよ、別に」
こんな高飛車な言い方などして良いはずがないのに、でもやっぱり涙を堪えるためには強がるしかなかった。
 センの人らしいところをたくさん知っている。誰より優しいことを知っている。それでもセンを人だと認めて受け止めることができないのは、夕凪の中にもまだ傷が残っているから。
「だから、いつか話して」
「え」
「いつか戻ってきて、ぜんぶ話して」
いつかで良い。無理に引きとめても互いの傷をえぐるだけだと思う。
「待ってるから」
 一番言いたかったこと。
 夕凪はずっと、家族を失った悲しみを人に語らず、目を背けてきた。それに気づかせてくれたのはセン。
 センも同じなのかもしれない。
 センの中の悲しみが、今すぐ目を向けるにはあまりにも深いから、へらへら笑って目を背けている。それを無理やり話させようとするのは、夕凪の我儘というもの。ほとんど無関係の自分に全てを話せと言うこと自体、我儘であることはわかっている。けれど話してほしい。
 いつかでいいから。
 今は何も聞かない、聞けない。きっと夕凪ではセンの傷を癒すことはできないのだろう。だからいつか、センが自分の悲しみと向き合うことができて、乗り越えられたなら、全て話してほしい。
「ずっと待ってる」
先延ばしにしていることはわかっているけれど、これが夕凪の答え。いつか本当に笑い合って話したい。
「約束、守ってね」
ささやかなこの糸が、せめてセンを生きることに縛り付けてくれたなら。
 センはすっかり棒立ちになり、目だけがゆらゆら揺れている。しばらくして、わずかに口を開いたが、何と言ったのか聞こえない。
「もっとこっち来て、わたしの目を見て答えて」
強い口調になってしまう。センはやけにゆっくり歩いてくる。夕凪との距離を取りあぐねているのだろうか。
 苛々してしまう。我慢できなくなって、夕凪の方からセンの目の前に歩み寄る。下がろうとしたセンの手首を思わず取っていた。この温かい手がまた夕凪を迷わせる。
「なに、セン。言いたいことがあるならはっきり言って」
センの口から、掠れた声がもれた。
「ち、さめ」
「ちさめ?」
まったく聞き覚えがない。首をかしげると、それまでぶれていたセンの瞳がまっすぐに夕凪を射抜いた。
「俺の名前。本当はね、千雨っていうの……呼んでくれる?」
(ちさめって、どんな字書くんだろ)
ぼんやりそんなことを思う。
「今はこれしか話せないけど、いつか全部話すから」
センが泣きそうな顔で笑ったので、夕凪もすん、と鼻をすすり笑った。
「うん。千雨を待ってるよ」
 いつか再び出会ったとき、このどこまで優しい千雨を、本当の意味で千雨と思えるだろうか。それはとても不安な疑問で、だけれど夕凪を支えてくれる希望でもあった。



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