千。



時雨心地の希い*4  ||シグレゴコチ ノ コイネガイ

 十年前に呼ぶ人を失った名を、呼んでくれる人ができた。クルイを嫌いと言い切ったその人は、それでもセンを待ってくれると言う。
 センをセンとして見てくれると言う。
(もう、どこにも行けないと思っていたのに)
夕凪の言葉一つで、こんなにも安心できるのはどうしてだろう。
 自分はクルイだから生きていてはいけないのだと思っていた。クルイだから誰かの身代わりで死んでも構わない、死ぬべきだと思っていた。でもそれは、諦めていただけだったのかもしれない。
 夕凪がセンをセンだと言ってくれるなら、センも信じよう。
(俺は、俺だ)
「ねえ、夕凪」
「なに」
 夕凪の身代わりに死ねるか、という問い。センはセンであると思えたのなら答えは変わってくる。夕凪は優しいから、自分のせいで誰かが死んだらきっと悲しむ。そんな簡単なことも、気づけぬにいた。
「もしね、誰かが夕凪を殺そうとしても、俺は身代わりになったりしないよ。自分から、生きることを諦めたりしない」
夕凪はちょっと切なそうに笑った。
「うん、それで良いんだよ」
「でも、夕凪のことも諦めない」
「え」
顔に自然と笑みが浮かぶ。
「俺は身代わりになったりしない。身代わりになって命を落とすんじゃなくて、命がけで夕凪のことを守る。絶対、守る。こうすれば、誰も死なないでしょ?」
 こう言うと、それまでまっすぐにセンを見ていた夕凪の視線がそわそわと慌ただしく揺れた。そうしている内に頬が紅潮し、ついにうつむいてしまう。
「そ、それこそ、お話じゃん、かっこよすぎるじゃん」
「だめ?」
「いや、べつに、良いけど」
「そう、良かった」
胸の辺りが何となく苦しく、温かい。
「じゃあ俺、行くね」
 はっと夕凪が顔を上げる。目の端が赤い。
「いってらっしゃい、千雨」
夕凪が笑ってくれた。
(ああ、そうか)
「……うん」
「『うん』じゃないでしょ」
(どうして、夕凪の言葉にこんなに安心できたのかと思っていたけど、簡単なことだったんだ)
「……いって、きます」
待ってくれている人がいる。たったそれだけで、自分が少し人に戻れたように思える。
 思わず抱き寄せようと伸ばした手を何とか思いとどまらせ、代わりに頭を撫でる。
「夕凪も元気でね、無茶しちゃ駄目だよ」
「うん」
名残惜しさを残し、なめらかな髪から手を離す。ほほ笑んで、何も言わずに、街道への道を歩きはじめる。後ろで衣擦れの音がしたけれど、振り向かない。センは耳が良いから、夕凪の押し殺した嗚咽が聞こえたけれど、振り向かない。
 正直、不安なことはたくさんある。自分のこと、千花のこと、父のこと、その他のこと。どれも考えても答えは出なくて、センを苦しめてばかりいる。だけど、今だけは――全部が大丈夫な気がした。
(夕凪がああ言ってくれたから)
「大丈夫」
今までの――クルイとか人殺しとかに拘泥していた――自分がとても小さな気がした。
「俺は、俺だから」
 温かく胸にあるこの気持ちは、なんなのだろう。名前をつけられない気持ちなのかもしれない。全てを包み込むように、温かく、明るい。
 空は青い。
 青空なのに、センの足元にぽつりと落ちた雫が地面に茶色く染みた。

- 終 -

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本編連載期間:20100416〜20100924





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