千。



時雨心地の希い*2  ||シグレゴコチ ノ コイネガイ

「お世話になりました」
 センが雪村ときく婆と小平次に向かいゆっくり頭を下げた。
「気をつけろよ」
「センさん、達者でなァ」
雪村、きく婆それぞれが別れを告げる中、小平次だけ何も言わず、だけれど何か言いたそうにそわそわしている。
「小平次、言いたいことがあるなら言っておけ」
 雪村が促すと、はあとためらいが残る返事をした。ちらりときく婆を一瞥してから意を決したようにセンに一歩歩み寄り、センの手を取った。センがびくりと目を見開き、小平次を見下ろす。小平次は、
「センさん、どうか、どうかお父上のことを恨まないでください。お願いです」
と早口で言った。雪村の耳に辛うじて聞こえるくらいの声だった。千雨、とも千影とも言わなかったのはきく婆がいるからだろう。小平次にはセンのことをかいつまんで話してある。
 センがうっすら笑みを浮かべて頷く。
「はい、ありがとうございます」
小平次はしばらくセンの顔を見上げたあと何も言わず一歩引いた。雪村の横の小平次は、相変わらず浮かない顔をしている。
「それじゃあ、行きますね。本当にありがとうございました」
 もう一度頭を下げ、センが街道へと続く道を歩きはじめる。もう少し行けば元々センが歩いていた街道に出る。
 徐々に小さくなるセンの背中を、雪村は腕を組んで見ていた。思ったことがふと口をつく。
「夕凪は来ませんでしたね」
「そォだねェ」
きく婆が残念そうに言う。
「センさんはァ、誰の話なら素直に聞いてくれるのかねェ」
「今は夕凪しかいないんじゃないですか……夕凪の言葉にまで裏があるとは思えないでしょうから」
「お夕は大っ嫌いなクルイに気は使わねェってことかいィ」
雪村は思わずきく婆を見た。
「知っていたのですか、センのことを」
「お夕から聞いたァ」
きく婆の顔に表情はない。
「あなたはセンのことをどう思っているんですか」
 きく婆はしわの刻まれた顔を両手でごしごしといじる。ぱん、ぱんと頬を叩くと平凡な声で言った。
「別にクルイだって言ってもォ、センさんは弥兵衛と里緒(りお)と夕里(ゆうざと)を殺したクルイじゃねェからなァ、恨む気持ちは無ェよ」
弥兵衛と里緒と夕里は、クルイに殺された家族の名だ。
 あの子にはその辺がわかってねェ、ときく婆は続ける。
「家族が死んだとき、あん子はまだ小さかったからァ、クルイに殺されたって聞いてェ、クルイ全部が家族を奪ったと思っちまったんだろぅねェ。そうじゃねェってことは、今じゃ頭じゃわかってんだろうがねェ」
少しずつ声が暗く小さくなっていき、語尾はほとんど消え入った。
「夕凪のその想いを壊せるのも、センだけだと思ったんですけどね」
雪村はセンの行った方を見て呟く。
 誰となく、ため息が場に淀んだ。
 しんとしたとき、雪村は誰かが走ってくる音を聞いた。微かな音。急いで振り向くが、誰もいない。でも足音はどんどんこちらに近づいてくるようだ。後ろは森囲村やハチロクの詰め所がある方。
「誰か来る」
雪村が言うと、きく婆と小平次も遠くに目を凝らす。その内、荒い息遣いも聞こえてきて、すぐに、
「婆さまっ!」
夕凪の声がした。
「お夕! どうし、」
「センはっ!」
きく婆の言葉をさえぎるというより、聞こえてすらいないようだ。息は上がり、着ている物も所々汚れている。草履で思い切り走ったから突っ転んだのだろう。
「も、もう言っちまったよォ」
お夕が来るの遅いからァという小言の最後まで聞かずして、返事もせず夕凪は走り出していた。
 夕凪の背は、あっという間に見えなくなった。
「まったくよォ、素直じゃねェなァ、お夕は」
きく婆がにたにた笑う。
「きくさん、家で何か言ったんですか。助言のようなものを」
「婆は何も言っとらんよォ、ただ、センさんにはお夕を助けてもらったから、感謝してるってぇだけだァ」
雪村の目元に優しい笑みが浮かぶ。
「では、夕凪は自分で答えを見つけたのですね」
「あの子には、センさん本人を見てほしいと思ったんだよォ……それは、あの子が悲しみを乗り越えることにも繋がるから」
「ええ。まったく若い者同士には敵わない」
しみじみしたように言う雪村に、小平次が声をあげて笑う。
「何を爺むさいことを」
「あの子らに比べたら私もいい歳だ、三十三だしな」
「まだまだお若いですよ、十二分に。そんなことを言っては私なぞ、骨すら残らぬ歳になってしまいます」
「婆もだァ」
小平次が優しげに笑い、きく婆も大笑い。雪村は苦笑する。
 ひと通り笑い終えると、
「あのふたり……本当に夫婦になればいいと今でも思うな」
雪村がぽつりと言えば、きく婆が俄然目を輝かせ、
「おやァっ! 雪村様もそう思いますかァ。でしょうな、でしょうな」
賛同する。小平次もそれは名案、と手を叩く。
 そうやってまたひと通りを騒ぎ終え、各々センと夕凪が行った方を一瞥し、来た道を戻り始めた。
 帰り道の話題は、やけに飛躍し、センと夕凪の子の名前についてだった。



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