千。



大禍時のちとせ呪い*6  ||オオマガドキ ノ チトセノロイ

 センが言うべき言葉を見つける前に雪村は表情を元に戻していた。
「でも、千影様はどうなんだ?」
「……何がですか」
「千影様なら、お前を受け入れてくれるんじゃないのか。次期殿の術のおかげでお前は刀を抜かない限り狂わないのだろう? だったら千影様の元に身を寄せても良いんじゃないか」
何なら自分がハチロクの本部まで案内しようか、と雪村が続ける。聞けば聞くほど自分の顔が笑み歪んでいくのがわかる。
「千雨、どうした」
「遠慮しときます、雪村さん」
笑ったまま答える。
 クルイになった日から、センは逃げてきた。誰もセンを助けてはくれない。千花はもちろん、千影も。
「だって、父さんは今でも俺を殺そうとしているんですよ」
どうしてそんな場所にのこのこ行けると言うのだろう。雪村がセンを見や。見開いた目は左右にゆらゆら揺れ、「まさか」と口が動いた。
 追い討ちをかけるようで悪いがセンは続ける。
「俺の存在は父さんと、多分ハチロクのお偉方しか知らないと思います。他の人は死んだと思っている。千花も行方不明とは言わずに、修業だとか言ってあるんでしょう? 今、父さんとハチロクのお偉方が躍起になっていることがふたつあります」
雪村はまだ驚きを引きずった様子ながら、目でセンを促す。センは頷く。
「まず、千花を探し出すこと」
すっと指を一本立てる。大切な次期がいなければどの道ハチロクは終わりだ。
 ゆっくり二本目の指を立てながら、千影の望みを口にする。父親が我が子に一番望んでいること――。
「そして、俺を殺すこと……俺は父の汚点なんです」
千花が狂環師であることは流布していない。センを殺せば葬れる真実だ。千影の中ではきっと、センは子どもではないのだろう。消したい、消したい汚点で、クルイ。
ドンッ
雪村が床を叩いた。
「己の汚点だからと言って、我が子を殺そうとするだと。そんなことが、あっていいのか」
 歯を食いしばり、眉間に深いしわを寄せ、声は震える。珍しく怒りを表した雪村の言葉は最後、「千影様が」とか細い声で消え入った。
「良いか悪いかは別にして、俺の父さん、千影はいますよ」
己を殺そうとしている実の父、千影を「父さん」と呼ぶ、なんと滑稽なことか。
 雪村の感情が落ち着くまで、センは黙る。雪村は怒っているのか悲しいのかよくわからない顔をしていて、途中一度だけはっとした表情で口を開いたが、結局何も言わずまた黙った。
「もう大丈夫だ、取り乱してすまなかった」
泥水が乾いていくのと同じように雪村の表情は時間をかけて元に戻った。でも泥水の乾いた後に土が残るのと同じように、冴えない顔で口の端を指でなぞっている。
 センは深く呼吸する。
(どうやって話そうか)
今からする話は、本当はするつもりのなかった話。センの、望み。
 雪村が怒ってくれて少し嬉しかった。センの話は結局、千影への悪口ともとれる。ハチロクである雪村がそれを聞いたら、センを怒るのではないかと思っていた。もしかしたらこの場で斬られるんじゃないかとも思っていた。でも雪村は怒ってくれた。主である千影に対し怒ってくれた。
(だから俺は話すんだ)
 センが雪村に自分のことを話し始めたのは雪村相手では逃げられないと思ったから。でも今は違う。雪村を信じているから話す。さっきセンがクルイと人の境界についての恐怖を語らず誤魔化した時、雪村は困ったような、辛そうな顔をしていた。
 そんな感情もあるのか、と思った。
 話さなければ誰も何も思わなくて済むと思っていた。けれど何も話さなかったセンを見て、雪村は謝った。人の想いをわかってあげられない苦しみと、話してくれない悲しさ。ちらりと夕凪の姿がよぎり、心の中で謝った。
 センの望みを聞いたら雪村は困るかも知れない。でも笑ったりはしないだろう。何も話さず辛い思いをさせるなら、話して困ってもらおう。
(そっちの方が、なんか良い気がする)
「狂環師を殺せばクルイは人に戻れるでしょ」
 こう切り出すと雪村は少し困惑したように眉を寄せた。なにを今さら、と思っているのだろうか。
 そう、わかりきったことだ。ハチロクはもちろん市井の人々の多くが知っている。クルイが人に戻る術。だからセンは香和童子を殺した。
「俺は、人に戻りたいんです」
センは作り笑いを取っ払い雪村と対峙する。自分はどんな顔をしているだろう。人に戻りたいというのは心からの望み。願うにはあまりにも殺しすぎたから、口に出すことができなかった望み。
 それでも人に、戻りたい。
 そして人に戻るためには、姉を殺さなければいけない。
(千花を殺したとして、俺は本当に人に戻れたことになるのかな)
姉殺しだ。そんな奴を人と呼ぶのだろうか。そんな奴に笑う資格はあるのだろうか。望みを想うたび、もう戻れないところを歩く自分を見てしまうようで、ぐらぐら揺れる。
 姉を殺すと宣したおのれ。高望みを口にした嫌悪と羞恥が体の中にうねる。
「千雨」
 雪村がセンを呼ぶ。
「あまり深く考えるな」
「はい」
雪村なら笑わないだろうと決意したというのに、心の内で笑われているのではないかという疑いが芽生える。体が熱く、消えてしまいたい。握りしめた手が小刻みに震えだす。
(俺は、人殺しで人じゃないのに)
「千雨は、そうか。『人に戻りたい』のか」
 雪村はセンが口にしたセンの望みをぽつりと呟くと、穏やかな笑みをセンに向けた。
「良い望みだな、とても良い望みだ。いつも心に留め置きなさい」
(ああ、この人は)
センの想像をはるかに超えて、広い。泣きそうになって、うつむく。
 そういえば、と雪村は言った。
「変に思わなかったところがないわけでもなかった」
「え?」
何の話かと思い、顔を上げる。
「十年前のことだ。千影様が総領になられたのと同時に、ハチロクの幹部が総入れ替えになった」
「全員?」
「ああ、一番年かさの者でも私くらいの年で、千楽様の代の方々はどうなされたのだろうと思っていた」
「きっと俺が殺したから、人が足りなくなったんだ」
覚えていない己の人殺し。センは髪をかきむしった。
「いや、それはない。いくらクルイとはいえ、ただの子どもにハチロクの幹部がそう簡単に殺せるとは思えない。ハチロクはそこまで弱くない」
「でも俺が、殺したんです」
「どうやって」
「覚えて、ないです、けど」
センが殺した。
(どうして、覚えてないんだよ)
頭を抱え、目をつぶる。
 罪深い。ただの人殺しよりさらに罪深い。
 この手が、この身が、人を殺したと言うのに、
「どうして……っ」
覚えていないと言うのか。
 無理やり思い出そうとする。薄雲を通して過去の光景が浮かんでくる。
 センは人を殺した。センは人を殺した。センが人を殺す様子を、あの人は普通な様子で眺めていた?

狂って、刃物を持って、斬り裂き、何かが、どこかへ、落ちて。
また殺して、刺して、斬り落とし、首が、首が転がり落ちて、死んだ瞳が、センを見る。
光などないのに、センが奪ったのに、ぎょろりと、センを、見る。
千花も見ている、それを見ている、センを見ている、センを見て、見て……薄く笑った?

「千雨っ」
 雪村の声で、はっと気づく。
「俺は」
鼓動が早い。どぐんどぐんと脈打つごとに、こめかみの辺りが鈍く痛む。背中がぞくりとし、汗をかいていることに気づく。
「千雨、傷があるのにあまり根を詰めて考え事をするな、もういい、辛いことを思い出させようとして悪かった」
「いや、でも」
思い出せない自分は、人でなしな気がした。
 センは人でありたい。
 殺したのだ、斬ったのだ、たくさんの人を。この事実を受け止めるか受け止めないかが、きっと――。
(差なんだ)
だから。
「やめなさい。お前は人だ、優しい人だ」
 雪村はそう言ってくれる。けれど言葉には証がない。雪村は、人に戻りたいと願うセンを認めてくれたが今のセンを人と思ってくれているかわからない。
(人の心なんて、わからない)
「お前は私や夕凪を助けてくれただろう。それはお前が優しい人だからだ。お前は優しい。だから、苦しいんだ」
(違う……俺が苦しいのは人殺しだからだ)
「あのね、雪村さん、俺本当はわかっているんですよ」
「言うな、千雨」
人に戻りたいと望む甘いセンの裏で、冷静なセンはきちんと理解している。
「俺はもう、戻れない。帰る場所もない」
「そんなことは、」
雪村の言葉をさえぎる。
「すみません、疲れたのでちょっと寝ます」
(人にもクルイにもなれないから)
センは無理やり笑い、布団をかぶって目をつぶる。
 目をつぶれば当然、目の前は暗くて何も見えない。底のない泥沼に落ちていくような、どうしようもない安心と孤独に襲われる。自分が独りであることを思い出す。
 真っ暗闇の中で眠りについて――。
(このまま、死ねればいいのに)



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