千。



大禍時のちとせ呪い*7  ||オオマガドキ ノ チトセノロイ

「婆さま、ただいまー」
 夕凪は大きな声で呼びかけた。きく婆がいつもより早い足取りで出てきた。
「センさんがどうかしたのかいィ」
きく婆の声も表情も真剣だ。ここ最近、夕凪は朝早くから夜遅くまで詰め所にいてセンを看ていた。今日はまだ夕刻だから、きく婆が変に思うのも無理はない。
「あ、うん。センね、目が覚めたの」
なるべくその時のことは思い出さず、にっこり笑う。
「そォかい、良かった、本当に良かったなァ」
「うん」
 きく婆や村の人たちは、センや雪村たちに本当は何があったのか知らない。
 夕凪がした作り話では、センがたくさんのクルイに襲われたところを雪村が助けた。この時ふたりは怪我をし、その二人を見つけたのが夕凪ということになっている。きく婆はこの話を少し疑っているようだが、何も聞かないでくれている。
「お夕やァ」
「なに、婆さま」
「良かったねェ」
きく婆は目を細め、もう一度同じことを言った。夕凪も同じように頷く。きく婆は夕凪から目を離さない。小さな双眸がじぃっと夕凪を見ている。
「でもよォ、それならお夕は、どうしてそんな悲しそうな顔してんだいィ」
(え)
「婆さま」
「センさんに何か言われたのかいィ」
(なんで……)
 なんできく婆にはわかるのだろう。詰め所で流した涙は、川で洗い流してきたはずだ。ただいま、の声もいつも通りにしたはずだ。センが目覚めて良かったと言われたときの返事も、本当にうれしいから「うん」と言った、はずなのに。
 素直に喜べていない自分がいることを、どうしてきく婆はわかるのか。
 夕凪は、首を横に振った。
(違う)
「違うの、婆さま」
違うと言っておきながら、センの冷たい声を思い出すと体に力が入らなくなる。崩れた夕凪をきく婆が抱きしめてくれる。夕凪も祖母の温かな体に顔をうずめる。
(違う)
センが目覚めたことを喜べないわけでない。その喜びを殺すような悲しみが、胸にあるから喜べない。
「違うんだよ、婆さま。反対。センが何も話してくれなかったから」
悲しい。
 涙があふれてきた。涙をぬぐおうとした手を、きく婆が取る。
「泣いていいんだよォ、お夕。こんな時ぐらい、婆を頼ってなァ」
きく婆の声はゆるぎない。
 ああ、そうかと腑に落ちた。
(守られているのは、わたしだ)
きく婆を守っていると思っていた。村の人たちを守っていると思っていた。でも本当は、自分を支えるための何かが欲しかっただけだったのだ。家族を失った事実に目を向けるのが怖くて、守るから今は考える時ではないのだと、言い訳していた。
「あのね、婆さま」
「うん」
すん、と鼻をすい、きく婆の手を握る手に力を込める。
「センはね、クルイなの」
センが唯一話した、聞きたくもない事実。
 ――――。
 きく婆は何も言わず、夕凪が不安になって顔を上げたころ、
「そォかい」
と思い出したように言った。驚いた様子はなく、少し疲れたような返事だった。
「センさんを初めて見たときからァ、何か影があるなァて思ってたけどォ、そォかァ、クルイだったとはねェ。それでェ――」
ふいにきく婆の声が暗くなる。
「雪村様に怪我させたのは、センさんなのかいィ?」
「違うよ! それは、違う。センはわたしを助けてくれたの。でも、センはクルイで、ひ、人を……」
センは香和童子を殺した。その時の光景を思い出そうとすると、ぞわ、と頬が粟立つ。
「お夕が話したくないならいいよォ」
背中を優しく叩かれ、また涙があふれてくる。
「わたし、どうしたらいいのかな」
 きく婆は答えをくれなかった。
「それはお夕が決めることだよォ」
それだけ言うと立ち上がり、夕凪に背を向けた。そのまま廊下の奥へ歩いていく。
(わたしが、決める……わたしの、気持ち?)
 夕凪はクルイが嫌いだ。それは今でも変わらない。センはクルイだ。それも変えようのない事実。でもクルイのセンは、夕凪のことを助けてくれた。なら、そんなセンに夕凪はどんな思いを抱けば良いと言うのだろう。
(わからないよ、そんなの)
 きく婆は角を曲がりきる前に立ち止まった。
「婆は、センさんがクルイになったところを見てないから、お夕と同じでねェ。だからこんなことが言えるのかもしれねェけどォ」
数拍の間を開け、きく婆は言った。
「お夕を助けてくれたってんならァ、婆はセンさんに感謝するよォ」
(婆さま)
言い終えると、すぐに廊下を曲がり見えなくなった。
 土間にぽつんと、夕凪だけが残される。
 センとの関係をどうすべきかなんて、傍から見れば簡単な話だ。きく婆のようにセンを受け止めて、受け入れてあげればいい。センは夕凪のことを助けてくれたのだから。
(でも、センはクルイだから)
そう思ってしまう自分が嫌だ。
 ふらつきながら立ち上がり、壁を支えに自室に戻る。そしてまた、崩れ落ちる。
 クルイが怖い。
 家族を殺したクルイが憎い。
 センを嫌いになりたくはない。でもセンはクルイだ。
「話して欲しかったんだよ、セン」
どんなに辛いことでも最後まで聞く覚悟があった、はずだ。そうしないと、今みたいになる不安があったから。
(話してくれると、思ってたのに)
自惚れだったのだ。センは何も話さず、夕凪の元を去ろうとしている。
 クルイだという事実だけで去られたら、夕凪の中にはセンを嫌って憎む想いしか残らない。それが嫌だということもわかっている。それはつまり、センのことが嫌いじゃないと言うこと。それでもセンを認められないのは、センがクルイだから。堂々巡りだ。
 誰を殺せばセンは人に戻れるのか。
 雪村の黒目が抜けたとき、雪村のことを怖いと思った。でも香和童子が死んで、黒目が戻った雪村を見て同じようには思わない。
(センだって人に戻れば)
すぐに認められる――と考えたところで、突っかかる。香和童子。
 頭ではわかっている。誰かがあの子どもを殺さなくてはいけなかった。センがクルイじゃなくて香和童子を殺したのなら、夕凪はセンに素直にお礼を言っていただろうか。
 クルイであるセンに、言いたい言葉が見つからない。
(センが何も話してくれないから、仕方ないじゃない)
 なんだろう、センに全部話してもらって、「俺はクルイだけどそれでも人だよ」とでも言ってくれれば満足だったのだろうか。喉の奥から熱い塊がこみ上げる、涙が一気に溢れた。
「もう、いいや」
 答えなんか要らない。二度と会わない人に向ける言葉を考える必要なんてない。
(もう、何も考えたくない)
嗚咽を堪えようとすると頭の奥がぼんやり痛くなった。額の前で組み締めた両手が震えている。震えを抑えようと力を入れても無意味だった、むしろ逆効果だった。
 自分は、間違っている。それはわかっている。クルイだからといってセンを嫌う自分は間違っているし、醜い。
 夕凪は握りしめた両手で、額を叩いた。がん、がん。がん、がん。叩けば痛い、当たり前だ。それでもやめない。センは人なのだと、暗示しながら叩き続ける。きっとこの痛みが、夕凪とセンを再会させる最後の糸。
 どれくらいそうしていたのだろう。手の感覚も額の感覚もなくなった。やっとわかる。
「そん、な……」
自分にはセンを認めることができないことが、わかった。手に力が入らず、だらんと落ちた。
(ごめんね、セン)
心の中で謝る。悲しかった。
 センを認められず悲しい気持ちがあるのに、認められないのは。クルイだからといってセンを嫌う自分が嫌いだけど。
「でも、それ以上にわたしはクルイが嫌いなんだよ、セン」
醜い自分以上にクルイが嫌いなら――。
(きっともう、センと会うことはないな)
 また涙が流れてきた。
 切れても音がしないほど細い糸が、切れたのだと思う。



inserted by FC2 system