千。



大禍時のチトセ呪い*5  ||オオマガドキ ノ チトセノロイ

「今さらですけど、俺はクルイです」
 雪村は軽く頷いただけだった。小平次はすでに出ていって、部屋にはセンと雪村しかいない。
「俺をクルイにしたのは、千花です」
伏せていた雪村の視線が、ぼんやりセンに定まる。見開いた目。口を薄く開いたが、声はなかった。
「やっぱり、ハチロクである雪村さんでも知りませんでしたか」
雪村は何かを思案するように瞳を宙にめぐらせていた。
「千花は優しい人でした。俺が生まれてすぐ母が亡くなったので、千花は母の代りでもありました。なのに……」
千花は道を違えた。
 十年前、センが十歳のとき千花はセンを狂わせた。
「クルイになった俺は、わけもわからずたくさん殺しました」
屋敷にいた人々を、見境なく殺した。ハチロク、下男下女、客……。
「千楽(ちささ)さんを殺したのも、俺です」
「先代様を?」
雪村が少し大きい声を出した。千楽は先代の総領であり千影の父親、千花とセンの祖父である。
「はい、俺が殺したんです。十年前、ハチロクの代替えが急きょ行われたんでしょう?」
雪村は顎に手を当て、考える素振りを見せる。
「……確か、そうだったな。まあ代替え前から総領代であった千影様が実際を動かしていたからほとんど混乱はなかったし、急きょというほど慌ただしい気はしなかったが」
「そうですか」
雪村は微かに眉間にしわを作り、親指で唇の端をなぞった。考え事をする時の癖なのかもしれない。
「クルイになった俺を父さんは刺しました。腹にある傷がその時のものです」
 夕凪の家に泊まった最初の晩に見た夢はその時のものだ。千影がセンの腹を串刺した。
 着物の上から傷あとを触る。周りより少し硬く盛り上がった皮ふ。すでに閉じた傷に痛みなどあるはずないのに、痛い気がした。
「本当に、千影様がそんなことを」
雪村の声は小さく、暗い。
「千花が俺をクルイにし、父さんが俺を殺そうとした。一言でいえばそういうことなんです、俺の話は」
 こんな話、夕凪に出来るわけがない。
 雪村が唇の端をなぞっていた手を止め、ふいに言った。
「どうしてお前は生きているんだ」
雪村の言いたい意味がちょっとわからなかったが、すぐに思い当たる。
 千影に刺されてどうして生きているのか。
 クルイはとにかく壊すことしか頭にない。死にかけの傷を負っても逃げることはしない。数日前、森で出会った猪のクルイがそうだったように。千影がセンを一撃で殺せなかったならもう一突きすればいい話だ。センがその場にいた全員を殺したらなともかく、少なくとも千影は生きている。それなのに腹の傷は一つしかなく、センは生きている。
「千花のおかげ、っていうか所為なのかな」
 センは朧な記憶に苦笑する。
「狂っている時って、ほとんど覚えていないんです。でも父さんに刺されて動けなくなって……そうしたら急に体中の痛みがわかるようになったんです。ああ死ぬんだなって」
雪村は何も言わなかった。ただ黙って無表情だった。
 いつも思っている。千影に刺された時、あのまま死んでいれば良かったと。でも死にゆくセンを許さない人がいた。
「死にかけの俺を連れて千花は屋敷を出奔しました。そのあと、背中に刺青をいれたんです」
「夕凪が言っていたが、その刺青を裂くようにある大きな傷というのは、何なんだ」
「あー、それは知らないうちに。たぶんクルイで痛みも何もわからない時にやられたんじゃないかと」
 今までも幾度か、背中の傷について聞かれたことがあった。背から腹を貫く傷以上に目立つらしいが、自分の背中を見ることは出来ないのでわからない。
「千花に連れられ逃げる途中、俺は意識を失いました。目覚めた時、薄暗い森の中で千花は俺に言ったんです。『人に戻りたいなら、わたしを殺しなさい』って」
雪村が息を呑み、それから目をつぶり口の端を噛んだ。センは力なく笑う。
(千花……)
 あの人の真意は今でもわからない。『わたしを殺せ』と言ったときのあの人に、優しかった頃の面影はまったくなかった。曖昧な過去を手繰っていくといつも、肝心の前ではぐらかされ記憶が途切れる。
「千雨、お前の背の刺青には何の意味がある? 夕凪の話では、お前は自分の意思でクルイになったようだと聞いたが」
 雪村の目にわずかに剣呑さが帯びる。ハチロクとしてはここを聞かずして終われないのだろう。
「自分の意思っていうのとは少し違います。刀を抜くと我を忘れてしまうので」
雪村の眉が微かに動く。
「私と戦っているときは、自制できていただろう。私を気遣って斬りかかってこなかった」
今度はセンが眉を上げる番だ。
「覚えているんですか」
雪村は薄く苦笑した。
「ああ、ぼんやりとな。濁った水底から景色を見ているようだった」
やはり雪村は完全にクルイになっていなかったようだ。センも今でこそ背中の模様のおかげである程度の思考を残したままクルイの力を得ることができるが、千朱原の屋敷でクルイになった時のことはほとんど覚えていない。
「雪村さんと戦っているときは、夕凪がいたから」
「夕凪?」
雪村が片眉を上げる。夕凪がいるから何なのだ、と。
「守りたい人がいると、大丈夫なんです。自分のことを守ろうとして刀を抜くとクルイになっちゃうんですけど」
「その刀にも秘密があるのか」
雪村が漆黒の刀を見る。
「千花が去り際に残した物なので、普通の品じゃないと思うんですけど……よくわかんないです」
センは情けない笑みを浮かべた。こんな説明しかできないことが情けない。
「随分と曖昧なんだな」
「はい、しかも背中の模様に月の光を当てるとさらにクルイの力が得られる気がしますし」
「ははっ、もうわけがわからないな」
「はい、俺にも全然」
 お手上げ、と雪村は軽く手を上げた。センも声を上げて笑う。これでいい。
 雪村にはわかるはずがない――センの恐怖なんて。
 不確かな人とクルイの間、どうしたら狂うのか、どこまでが大丈夫なのか、己は人なのか。誰にもわかるはずないのだからわざわざ言う必要はない。言えば無暗に人を悲しませるかもしれないし、怒らせるかもしれないし、苦しませるかもしれない。だったら一人で抱えている方が楽だ、センの心が。
「……わかってやれなくて、すまないな」
「え、いや」
 ぎりぎり聞こえるくらいの声量で雪村が呟いた。眉間に薄くしわを刻み、口は一の字。
(ばれてた)
雪村はセンの嘘笑いを気づいていた。知っていて、でもわからなくて、だから辛そうな顔をしている、のか。
(雪村さん……)



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