千。



千呪獄の月日向*4  ||センジュヒトヤ ノ ツキヒナタ

 香和童子の笑みが凍る。
「黙れ」
低く冷たい声。剥き出しの殺意を含んだ声。明らかに様子が変わった。逃げなければ、と思った時には遅い。
「ぐっ」
香和の槍がセンの腹を突き刺す。腹の底から血がこみ上げてくる。変に温かい血味。口の中におさまらず、くちびるの端から流れる。腹の底からさらに血があふれ、吐く。
「黙れっ、黙れっ、黙れっ! おんしは我がただ、快楽のためにクルイを作っていると思っておるのか。愚弄するなっ」
香和は槍を地面にまで貫通させ、それでもまだ力を込めている。息が荒い。
 これは香和の感情だ。にやにや笑いを崩し去らせるほどの激情。
(快楽のためにクルイを作っているんじゃないのか……なら)
――何故?
 ふっと意識が遠のく。
(いくらなんでも、やばいな)
考え事をしている場合ではない。香和との戦いに集中しなければ気を失う。
「弱いうえに不愉快な男だ、おんし。これ以上苦しめるのも面倒だ。次の一突きで楽にしてやろうの」
 落ち着きを取り戻した香和童子はぶすっとした声で言った。センは遠くを見る。視線の先には夕凪と雪村の姿。夕凪が雪村のことを抱えているようだ。よくは見えないが、そこにふたりがいる。守りたい人。
「千呪の子よ、殺す前にひとつ答えろ……おんし、何ゆえクルイ化せぬ?」
 センの視線に気づいたのか、香和童子が聞いてくる。片眉を上げ、口の端を笑み歪めている。小馬鹿にしたような声だ。
「クルイ化?」
「何を今さら。とぼけるな。それとも、相思の娘の前では、醜い姿になれぬか」
喉の奥を鳴らし、香和もちらりと夕凪を見る。
「そう、し?」
相思。香和の言っていることが素直に面白くて、口元が歪む。
(ありえないだろ)
「おんし、この期に及んで笑うか。つくづく不気味、異形、異形。先におんし、あの娘を守ると言ったが、おんしは我に殺される。ふん、やはりクルイ……言葉に真がこもらぬな」
「……嘘じゃないさ。お前なんかに誰も殺させはしない。俺が、守る」
センはちょっと笑って見せた。
(そう、守るんだ)

 守る。

この言葉だけが、この行為だけが、せめて、センを人として留めてくれるだろう。だから――。
(もう、いいか)
センはぎゅっと刀を握った。
 夕凪たちを守るためには香和童子を殺さなければいけない。香和童子を殺したなら、夕凪たちを守ったことになる。守るために殺すのと、殺した先で守ったのと、
(どこがどう違う?)
 頭だか体だか、心だかが疼く。認めたくないと思っていたから“それ”は牙をむくのであって、拒まなければ驚くほど容易くセンを受け入れてくれる。
(ここが、俺の“本当”だ……)
最初からわかっていた。わかっていたけど、幸せに憧れた。でも、もう諦めよう。
(俺は人として生きられない)
目を閉じて、目を開く。
 冷たいところに、心が沈む。
 腹に突き刺さる刃を掴む。皮膚が裂けるが痛くない。むしろ心が躍っている。
――ああ、いいね。
「離せ、千呪」
まだセンの変化に気づいていないのだろうか、香和が低く命じた。センは傷が広がるのも構わず、刃を腹から抜く。痛みはない。どくりどくりと熱い血が体をめぐっている。
 立とうとすると流石に足がもつれた。無理やり立ちあがり、香和童子に薄い笑みを向ける。流れる血がうっとうしくて舐めると、塩と鉄の味が舌に広がった。喉の渇く味だ。
「香和、お前は結局、人だろう?」
吐きだす言葉がどうしても、嘲りを含んでしまう。明らかに変わったセンの様子に、香和が一歩後じさり距離をとる。
 センはもろを肌脱いだ。傷と血まみれの上半に、月の光が反射する。
「さっさと殺しとけばよかったのに、俺のこと」
もう香和にセンは殺せない。
「狂環師が、クルイに勝てると本気で思ってるわけ、ないよな」
楽しい、楽しい、壊したい、殺したい。これが、センの本当。クルイの本能。
 半眼で香和を見つめるセンの瞳、その片方に黒目はない。


(セン……?)
 月の光がセンを照らしている。
 夕凪は、急にセンが遠くに行ってしまったような気がして心細くなった。
 距離が遠いのではない。むしろセンの後ろ姿がよく見える程度には近くにいるのだ。なにが遠いのか。心か。明るすぎる白月が、センの背一面に施された刺青を照らす。大きい輪の中に三つの輪が絡みつくように彫られている。その三つの中心をつなぎとめるように、また小さな輪。
(それに、何、あの傷……ひどい)
刺青以上に目を引いたのは、精緻な刺青を台無しにするような傷あと。背骨に沿い、刺青を真っ二つにしている。
 刺青も傷あともはっきり見えるのに、どうして、センがこんなに遠いのだろう。
 センがふいに夕凪の方をふり返る。顔が見えた。見えたから、ぞくりと寒気が背中を駆ける。センのことが怖くて仕方がない。
(セン、今)
自分が見たものを信じたくない。あまりにも変えようのない事実だから、信じたくないのだろうと思う。
 センが夕凪の方を向いたのは一瞬のことだった。
(でも)
夕凪はぎゅっと手を握った。胸の前で組んだ手を握りしめた。
 センの片方の目から、黒目が抜けていた。白目は夜の方がより目立つ。
「うそ、でしょ。セン」
 とても簡単なこと。
 白目の生き物はクルイ。


「さっきまでの俺を殺さなかったこと、骨の髄から後悔させてやるよ」
 とてもいい気分だ。香和童子を殺したくて、うずうずしている。斬られた傷もふさがっていく。
「もう手加減はしてやらない」
センの嘲りに香和がぴくりと眉をあげる。
「聞き捨てならぬな。その物言い、まるで今までおんしが本気を出していなかったようではないか」
「あたりまえだろ」
くくっと喉を鳴らし、センは笑う。
「お前を殺しちゃ困ったんだよ、香和。雪村さんまで死んでしまうじゃないか」
終わりまで聞かず、香は童子はかっと目を見開き、
「おんし、我を利用したかっ!」
槍を突き出してきた。感情にまかせた攻撃は簡単に避けることができた。そのまま踏み込む。香和の小さな顔は、片手でたやすく掴めた。
「なにが悪い?」
センは笑ってやった。
 雪村と香和童子は繋がっている。雪村はクルイのなりかけで、香和は狂環師。香和童子が死ねば雪村は人に戻れるが、あの傷で人に戻っても死を待つだけだ。なら、狂環師とクルイの力を利用してやればいい。クルイの尋常離れした回復を雪村に与えてから、香和を殺せばいい。それまでは殺してはいけなかった。
「まあ、今はまったく困らないけどな」
むしろ殺さないと困る。雪村が人に戻れないし、そもそもこの衝動を納める場所なんて、殺す以外に見つからない。壊したい、壊したい、殺したい。
 手に力を込める。
「が、あぁっ」
香和の悲鳴。もっと力を込める。このまま頭を潰してしまおうか。
 殺し方なんて構わない、ただ殺せればいい。クルイは、壊せればいい、殺せればいい。



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