千。



狂い烏の濡れ羽色*4  ||クルイガラス ノ ヌレバイロ

 夕凪が帰ってきたのは、東の空が白み始めた頃だった。夕凪の顔を見た瞬間、ふっと力が抜けてしまった。立ち上がることが出来ない。
「お夕やァ」
きく婆が夕凪に縋る。夕凪もほっとした表情できく婆を迎えた。それからセンの方を向いた。
「ありがとう、婆さまのそばにいてくれて」
穏やかな声だった。センも安心して頬がゆるむ。
「夕凪に大きな怪我が無くてよかった」
着物の所々に赤いしみがついているが、おそらくクルイのものだろう。
「うん、途中で雪村様が来てくれたら。助かったよ、そうじゃなかったら結構大変だったと思う、数が多かったし」
「雪村さんだけ?」
「うん、灼尊殿は来なかった。どうしたんだろ、話を聞く暇がなかったから」
(なんか引っかかるな)
 村にクルイが流れ込んだとあっては、ハチロクなら昼夜関係なくすぐさま駆けつけるだろう。
(寝ていたのか? いや、違う)
雪村と灼尊は交代で一日中見回りをしていると、小平次が言っていた。どちらかは起きていたはずなのに、どうして村に来るのが遅れたのか。
(昨日の夜、ふたりは北神居にいたはずなのに)
センは耳が良い。昨夜はいつも以上に音に敏感になっていた。南神居から集落に行くにはこの家の前を通らなければいけないのだが、誰かが駆け抜けた音はしなかった。
 クルイの気配は案外容易に知れる。殺気を垂れ流しているようなものだから当然と言えば当然だ。ハチロクである雪村と灼尊が、北神居からなだれ込んだクルイの大群に気づけないはずがない。
(どういうことだ)
「婆さま、ちょっと雪村様のところへ行ってくるね」
 夕凪がきく婆の体を離しながら言う。
「昨日のお礼も言いたいし、灼尊殿のことも聞いてきてあげる」
最後の言葉はセンに向けたものだ。
「でもよォ」
きく婆は不安そうな顔をし、夕凪の着物を離したがらない。
「婆さま、すぐ帰ってくるから、ね?」
幼子をあやすような口調で夕凪が言う。
「いいよ、夕凪、俺が行く」
 センは夕凪の頭をぽんと撫で、土間へ下りる。
「え?」
センはふり返って笑いかける。
「俺が雪村さんのところへ行ってくる。夕凪は疲れているんだから寝てなよ」
「でも場所」
「知ってるから大丈夫」
「ちょっと、センっ」
夕凪の言葉を最後まで聞かずに家を出た。
 白い朝日に目を細める。心の中のもやもやを吹き飛ばしてくれるようだ。
 しかし上向いたセンの気持ちも、村を見たとたん一気に下がった。
 森囲の畑に人はいなかった。
(ひどいな、これは)
菜っ葉や豆の小さな苗が、ことごとくなぎ倒されている。せっかく耕して肥を撒いた畑もめちゃくちゃで、これでは一からやり直すよりさらに大変だろう。今歩いている道もえぐられ、削られ、でこぼこだ。
 田畑の奥にある家の方に、ちらほらと人影が見える。材木を持っている人も見えるから、家も壊されたのだろう。よく聞けば、金づちを打つ音も聞こえてくる。
(でも夕凪の様子から見て、大怪我をした人はいなかったみたいだな)
 少しほっとしたが、すぐに新たな不安が湧いてくる。
――雪村は、狂環師だろうか?
だとしたらセンは雪村と戦う気でいる。でも勝てる気がしない。良くて相討ち。だが雪村を殺してしまったら夕凪が悲しむ。
(なら聞きたいことだけ聞いて、このまま去ればいいか? いや)
狂環師であるか疑うような発言をしたセンを雪村が見逃してくれるかといえば、たぶん無理だ。
「まあ、悩んでいても仕方ないか」
普段はなるべく人と関わらないようにしているけれど、今回はどうしても疑念を晴らしてから去りたい。それはきっと、夕凪がいるから。
 夕凪には、幸せになってもらいたい。
武器を取ることなく、女の子らしく生きてもらいたいと思うのだ。
(きっと俺は夕凪のことを少し好きなんだろうな)
 鼻で笑ってしまう。
「人真似、か」
刀の鍔に触れると、ひんやりと冷たかった。
(俺にはこっちの方が似合いなのにな)
 どんどん沈んでいく。気合を入れるために刀の鍔を硬く握ってみる、が、手汗でつるっと滑った。不吉である。ため息も出てきた。
(しっかりしろ、俺)
「よし」
もう一度気合を入れ直すと、悪い考えが浮かばぬように、ただ黙々と詰め所を目指した。



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