千。



狂い烏の濡れ羽色*5  ||クルイガラス ノ ヌレバイロ

 ハチロクの詰め所はひっそりとしていた。
「すみませーん」
この前と同じように声をかける。正直まだ、雪村に何を聞き、何を言えばいいのか決められていない。
 人の気配がないのに、雪村の声がした。
「なんだ、センか」
低い声。雪村は柱にもたれかかるようにしてこちらを見ていた。半分影に埋もれている。
(びっくりした……なんで気配を消してたんだよ)
「癖だ」
「え?」
「人の気配を感じたら、相手が誰だかわかるまでとりあえず気配を消している」
「そう、なんですか」
(物騒な癖だな……つか、なんで俺の思っていること)
 雪村の口の端に笑みが浮かぶ。薄暗がりの中で微かに笑う様が絵になる人だ。
「お前は考えていることがすぐに顔に出るな、わかりやすい」
またセンの心中を言い当てる。たしかにセンは表情で内心を隠すことが得意ではないが、雪村は雪村で人の心の内を見ることに長けているのだろうと思う。
「それで、何の用だ」
 笑顔を引っ込めて雪村が聞いてくる。軽く息を吸い、気合を入れる。
「夕凪に代わって、お礼に来ました。昨夜はありがとうございましたって夕凪が」
「わかった。夕凪にも助かったと言っておいてくれ」
「どうして来るのが遅れたんですか」
雪村がセンを見た。何の感情もうかがえない瞳が逆に怖いが、センもまっすぐに雪村を見返す。
「クルイはこっちの北神居から来たって聞きました。数も多かったみたいだし、それこそ気配ぐらいわかるでしょう」
わざと小馬鹿にしたような言い方をした。怒って口を滑らしてくれることを少し期待したが、あまりにも淡い期待だった。雪村は冷めた表情のまま、
「昨夜は灼尊が夜番だったのだが、あの莫迦が居眠りをしてしまってな。私は小平次に起こされるまで騒ぎに気づかなかった……森囲の村には本当に悪いことをした。後で謝りに行こうと思っている」
冷めた声で言った。
「灼尊さんはどうして来なかったんですか」
「起こしても起きなかったんだ。酒でも飲んでいたのかもしれないな」
「そうですか」
(嘘だな)
 と勘は言っていた。センは雪村のことを知らない。灼尊のことも知らない。でも灼尊は、馬鹿なくらい仕事にまっすぐな男である気がした。そんな灼尊が、酒を飲んでクルイ番を怠るはずがない。
「雪村さん、俺、明日の朝村を出ようと思っています。三日後って言われても、俺にも都合があるので」
だから今来たんですよ、と作り笑いで言う。
「そうだな、無暗に引きとめて悪かった。別に三日後と言ったのに深い意味があるわけではなかった」
「そうなんですか」
(本当に?)
雪村の表情は変わらない。
「ああ、三日もすればこちらの仕事に切りがつくかと思っていたんだが……まあ、もう一度お前の顔が見られたから、別に良い」
達者でな、という雪村。何かを企んでいるのなら引きとめてくるかと思っていたのにあっさり送り出された。
(俺が疑い過ぎなだけか?)
 雪村も灼尊も誰も狂環師ではなくて、ハチロクが来たこととクルイが増えた時期が重なるのも偶然で、疑念を生むのはセンの心のねじ曲がり……。最初に追いかけられたから知らぬうちに悪く見ているのかも知れない。
(きっと、そうだ)
 本当に、そうだろうか?
(そのはず、だ)
 それが一番良い。夕凪も悲しまず、センも安心して村を出て行ける。
 じわりと滲んでくる疑念を閉じ込めるように硬く手を握る。握る手に、力が入る。大丈夫、大丈夫。
(だけど……っ)
 それでも消えない予感――狂環師がいる。
「あなたは何を知っているんですか」
わずかに、雪村の肩が揺れた。
「なにも」
からかうような笑み。私は嘘をついている、とわからせるための笑み。
「私はもう言うことはない、帰れ帰れ」
犬でも追い払うように手で追い払われる。やっぱり口元には笑み。
 もう、聞いてしまおうかと思った――あなたは狂環師なのですか、と。口を開く。
「失礼します」
出てきた言葉は裏腹だった。
 聞けなかった。今でも雪村が狂環師だったら都合が良いと思っている。でも確かめるのが恐い。夕凪の笑顔を奪ってしまうのが恐い。
 頭を下げ、背を向ける。
(結局なにもわからないままかよ)
ため息をつく。もうセンに出来ることはない。おとなしく明日の朝、ここを出ていこう。きっと大丈夫だ。センが出ていくことを簡単に許すということは、雪村たちにセンを害す気はない。ここにきて三月経っても何もしないということは、森囲村の人たちに何かをする気はない、はずだ。実際、クルイが出ても助けているし。
 仮に雪村たちが何かを企んでいたとしても、この村には関係のないことなのだ。
(なら、いい)
どんな悪事を企んでいようと構わない。夕凪が、笑っていられるのなら。
「セン」
 呼びとめられ、びくっと後ろを振り返る。
「な、なんですか」
汗が一気に噴き出した。心音もうるさい。雪村は相変わらず澄ました笑み。
「夕凪と一緒になったらどうだ」
「は?」
予想外の言葉に、思考が追いつかない。どういう意味だ。深い意味があるのか。センの様子を見て、雪村は声をたてて笑う。
「なかなか似合いだと思うがな。ただ夕凪の相手には少し頼りないかな、お前では」
「そ、そうですよ」
苦笑を返すのがやっとだ。
「あれは案外寂しがりだ……離れてやるなよ」
「いや、明日の朝には出発しますから」
「そうだったな、引きとめて悪かった」
笑う雪村の目元は優しい。
(俺を引きとめる口実ってよりも、からかっているだけみたいだな……おきくさんと裏でつながっている、わけない、よな)
新たな疑惑も生まれたが。
 もう一度頭を下げ、センはハチロクの詰め所を後にした。
 疑いが渦巻く心が少し凪ぎ、光が射す。



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