千。



狂い烏の濡れ羽色*3  ||クルイガラス ノ ヌレバイロ

 家に帰ると、既に夕凪がいた。
「おかえり。珍しいね、村の方に行ったんでしょう。どうだった……ていうか、何しに行ったの?」
「うん、ちょっと。あんまりにも暇だったから散歩に。とってものどかな村だね」
雪村に会いに行ったということは隠しておこうと思い何気なく言うと、夕凪の表情がわずかに曇った。
「ごめんね、わたしが無理に引きとめちゃったから……しかも家の仕事までやってもらっちゃって」
(そんなこと気にしてたのか)
けっこう強引な娘だと思っていたが、心の内では色々と考えていることがあるらしい。自然と頬が緩む。
「かわいいね、夕凪。気にしないで、俺も楽しいから」
「え」
夕凪の頬に朱が散る。
(夕凪ってからかわれやすいんだろうな)
センでさえ、からかいたくなるんだから相当だろう。
「あ、あのわたし、婆さまの手伝いしてくるから!」
 さっと背を向け、夕凪が足早に家の奥に入っていく。その姿がおかしくて笑っていると、あ、と声を上げ夕凪が振り向く。
「さっき森で雪村様に会ったの」
思わずぴくりと瞼が動いた。
「雪村さんに?」
「うん、話したいことがあるから三日後に詰め所に来るようセンに伝えてくれって。なんだろうね」
「三日後って、どうして」
夕凪は首をかしげた。
「さあ、わからないけど今はお忙しいからじゃない?」
「そう、わかった」
(本当に向こうからお呼びがあるとは……仮に雪村さんが狂環師で、この三日間にクルイをたくさん作って出迎えてくれるとかだったら、嫌だな)
 佐七の話を聞いた今となっては、どうしても雪村たちを疑わずにはいられない。
「セン、どうして苦笑いしてるの。あ、詰め所の場所なら大丈夫だよ、私が案内してあげるから」
センはへらっと笑って夕凪の言葉を受け流す。夕凪が今度こそきく婆の元へ行った。
(三日後って……あと三日はここにいないといけないってことか)
「どうして三日後なんだよぅ」
 ちょっと自棄気味に呟いた。


 森で佐七が話した懸念は、思ったよりも早く訪れてしまった。
『近いうちに村にもクルイが来るんじゃねェか……』
佐七が言った次の日の夜だった。
「大変だっ!」
土間に村の男が駆けこんできて、叫んだ。センはちょうど土間の近くにいて、びくりとした。普段なら来客をきく婆に伝えに行くが男の様子が尋常じゃないので、自ら声をかける。
「どうしたんですか」
「クルイが村に出たんだ、お夕ちゃんはいねぇのかっ!?」
男はセンの着物をぎゅっと掴み、まくしたてた。
(なんでクルイが出たら夕凪を呼ぶんだ?)
「それは、ハチロクの仕事ではないんですか」
困惑気味に聞くと、男はきっとセンを睨みつけた。
「あんな奴ら当てにならねぇっ! そもそもクルイは北神居から来てんだ! あの人でなし共が、クルイを」
「源さん、それ以上言わないで」
 鋭い声が男の言葉をさえぎる。
「夕凪」
夕凪は弓矢を持ち、腰に短い刀を差していた。
「わたし、行くから……源さん、早く!」
口早に言うと、センに背を向け出ていこうとする。
「ちょ、夕凪、待って、危ないよ」
ふり返った夕凪を、遠くに感じた。
「わたしがやらないといけないの」
はっきりとした声と口調。様子から恐怖は窺えない。
(なんで。恐くないの?)
「センは来ちゃだめだよ、危ないから。婆さまのそばにいてあげて、お願い」
またセンに背を向け、夕凪は出ていった。去り際の、仕方なさそうな笑み。センは声をかけることもできず、ただ突っ立っていた。
「お夕は行っちまったのかいィ」
 きく婆の声ではっと気づく。すぐ後ろに立っているきく婆は、瞳に暗い光を湛えていた。
「お夕はハチロクの方々が来るまで、ずっとクルイを退治してきたんだァ……前からたまにはクルイが出たから」
「え?」
「家族が死んでから、お夕は『強くなろう、強くなろう』って頑張って無理をしてんだァ。村のみんなもお夕を当てにすんのも仕方が無ェんだ。けどよォ」
「おきくさん」
だんだん話す声に水気が多くなっていくきく婆の姿は、いつもより小さく見えた。
(夕凪)
 夕凪の笑顔がぼやけてしまいそうで、今すぐ自分の目で確かめないと、自分がどうにかなってしまいそうだった。
「俺、夕凪のこと見てきます」
あふれる気持ちに耐えられなくなって走りだしたセンの手を、きく婆が掴んだ。
「ここにいておくれよゥ」
震える声。震える手。
「でも」
「この婆を、ひとりにしないでおくれ」
(おきくさんも、心配なんだ)
当たり前だ。セン以上に夕凪のことが心配に決まっている。心配で不安で、でもどうすることもできないから、待つしかない。
(夕凪もおきくさんの気持ちを分かっているから、俺に頼んだのか)
「わかりました、一緒に待ちます」
硬い床の上に座る。
 不安だった。悪い方へと想像が巡っていき、そんな想像をする自分が許せない。ただ黙って夕凪を待つだけの時間が辛い。沈黙は辛いけれど、何も言えなかった。
 何を言ったって、きっと意味はないんだろうから。今の状況じゃ、どんな言葉も安易だ。気休めにもならない。
(これが、待つ身か……)
 センのことを待ってくれる人は誰もいない。だから少しだけ、夕凪のことがうらやましかった。



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