千。



狂い烏の濡れ羽色*2  ||クルイガラス ノ ヌレバイロ

「あのところで、『ハチロク』の詰め所はどこにありますか?」
 話を逸らそうと思い、口に出した。
 三日前、雪村はまた近いうちに会おうと言った。でも未だに雪村からは何の連絡もない。ならば自分から訪ねてみようと思った。出来れば、夕凪抜きで。
(このまま逃げてもいいけど、雪村さんは悪い人じゃないと思うから)
センの秘密を知っていそうな雪村の態度――何をどの程度知っているのか。
(もしかしたら、千花のことも……)
危ない賭けの中の、淡い期待にかけた。
 詰め所が北神居にあることは夕凪に聞いて知っていた。佐七に会わなければ歩きまわって探すはずだったが、話を逸らす意味でもちょうどいいと思った――思ったのだが、
「テメェ、まさか『ハチロク』に入りたいなんて思ってんじゃねェだろうなァ?」
佐七の視線がセンの刀に向き、声は低い。怒声だ。
(これは、冗談じゃないな)
「違いますけど……どういうことです?」
佐七の怒りに気づかないふりをして、ほほ笑んでみせた。
 佐七はセンの答えを聞き少し表情を緩めたが、すぐに忌々しげな顔になる。
「けっ。儂ぁ『ハチロク』が嫌いなんじゃ」
「……どうして」
『ハチロク』を嫌うのは悪党や狂環師くらいだと思っていた。佐七は唸る。
「クルイが増えたんだよ、奴らが来てから」
「え」
(クルイが増えた?)
さっと寒気が背を抜けた。
 佐七は森の方に視線をやり、話を続ける。センもつられて森を見る。進めば街道に出るという道は曲がりくねって途中で見えなくなった。焦げ茶の地面に木漏れ日がまだら。
「連中が来たのは三月くれェ前なんだがよゥ、それまでここら辺にはクルイなんか滅多に出なかったんだ。たまァに迷いクルイが来るくらいでよォ……それなのにこの三月、どうだ? 毎日のようにクルイが森の中を駆けてらァ……それを狩るのが二人しかいねェってんだから、いくら『ハチロク』が強くても近いうちに村にもクルイが来るんじゃねェかって皆で話してんだ」
聞けば聞くほど寒気がし、黒い塊がこみ上げる。
「その話、夕凪は知っているんですか」
聞く声が知らずの内に険しくなってしまう。
「うん? ……いやァ、お夕ちゃんは連中のことを気に入っているからな」
さすがに言い過ぎたと思ったのか、佐七は気まずそうに頭の後ろを掻いている。センも佐七の話が頭の中をぐるぐる巡って、言葉が出てこない。ふたりとも黙り込んでしまった。
「ハチロクの詰め所はこの道をまっすぐ行くと右手に森が拓けているから、すぐわかる……じゃあ儂ァもう行く」
 思い出したように佐七が言い、センも反射的に礼を言う。佐七は村の方へ、センは森の方へそれぞれ歩き始める。
「何用があって行くのかは聞かねぇが、あんま連中と深く付き合うんじゃねぇぞ」
佐七は言い残した。
(みんながみんな、雪村さんや灼尊さんのことを慕っているわけじゃないんだな)
 むしろ佐七の話を聞いた限りでは、夕凪以外の村の人はあまりハチロクのことをよく思っていないようだ。
(どういうことだ?)
雪村たちが来てからクルイが増えた。だから村の人たちはハチロクを嫌う。
(とってもわかりやすい話だ)
 センにとっては、ここからが肝心。この事実を簡単に考えるなら、実はハチロクの中に狂環師がいてクルイを作っている、ということになる。
――雪村たちは、狂環師なのか。
皮肉な笑みが浮かんでくる。
「だとしたら、かえって都合がいいかもしれないな」
(夕凪は悲しみそうだけれど)
ハチロク以上に、センの知りたいことに近いかもしれない。
 しばらく歩いていくと建物が見えてきた。数本の木々の向こうに、ひっそりと建っている。建物に続く脇道の地面は、均されたての初々しさがまだ残っている。
(へえ、これが。思ったより小さいな)
小さな部屋が二、三あるくらいだろうか。
 センは建物を眺め、ぽり、と頬を掻く。
「さて」
(どう聞こうか)
下手な聞き方をすればあっさり殺されてしまうかもしれない。緊張のためか苦い笑みがこみ上げてくる。ちょっと息を吸い、声をかけた。
「すみませーん」
誰も出てこない。
(いないのかな)
「よく考えたら、この辺は昼間からクルイが出るっていうし、二人とも見回りしているのかもしれないな」
 独り言を言い、出直そうと詰め所に背を向ける。一歩踏み出した時に声をかけられた。
「何かご用ですか」
声の主は雪村でも灼尊でもなかった。これまた、お爺さんだ。人の良さそうな笑みを浮かべていたお爺さんは、センの顔を見ると何故か目を見開いた。
「あなた、お名前は」
お爺さんは驚きを隠すことなく聞いてくる。
(なんだ?)
このお爺さんもハチロクなのだろうか。
「……センですけど、雪村さんいますか」
 センが答えると、はっとしたようにお爺さんの目がセンを見つめた。今までも見ていたが、どこか遠くをさ迷っていたのだ。
「あぁ、すみません、ぼんやりしてしまいまして……雪村さんは今、南神居の方へ見回りに行っています。灼尊さんならいますけど、今寝ているんですよ、夜番に備えて」
「そうですか」
(南にいるんだったらわざわざ悪目立ちしてここまで来る必要はなかったのか)
内心でため息をついたが、反面、雪村がいなくて少しほっとしている自分がいた。
 雪村が狂環師であるかどうか確かめるのが怖いのだ。狂環師だったら都合がいいと思ったけれど、それはそれで夕凪が悲しむだろうから。だから雪村への問いが先延ばしになって安堵している。
「急ぎの用でしたら呼んでまいりますが」
 お爺さんが懸念顔で聞いてくるので首を横に振る。
「いえ、また来ます……あの、失礼ですけどあなたの名前を教えてもらっていいですか」
「あ、はい。小平次と言います。こちらの詰め所で雪村さんたちのお世話をさせてもらっているんですよ」
「そうですか、ご苦労さまです」
センはにっこり笑って頭を下げた。
(小平次……聞いたこと、ないな)
「小平次さん、昔どこかで会ったことありましたっけ?」
 小平次は一瞬目を瞬かせた後、恥ずかしそうに笑った。
「ああ、いえ。さっき見入ってしまったのは、あなたの顔が見知った方の若い頃に似ていたもので、つい。失礼いたしました」
慇懃に頭を下げられたので、あわててセンも謝る。そのあとすぐに詰め所を離れた。
 詰め所を出、森の中を戻る。どこかで会ったことがあるかと聞いたとき、小平次の体はぴくりと動いた。ほんの少し、見逃してしまうほど少し。
(あの人は俺のことを知っているのか?)
それともセンが、よほど小平次の知り合いの昔に似ているのだろうか。
(心当たりがないわけでもないけど)
複雑だ。頬を掻く。
 クルイが増えたことといい、小平次の反応といい、わからないことだらけだ。
 深々と、腹の底からため息が出た。
 いろいろな難しいことが頭の中を占めていたおかげで、帰り道は村の人たちの視線も気にならなかった。



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