千。



狂い烏の濡れ羽色*1  ||クルイガラス ノ ヌレバイロ

 きく婆の言葉に流されるまま、センは夕凪の家にしばらく滞在することになった。
「よっ、と」
鉈を振り下ろす。鈍い音がして薪がふたつに割れる。
「ふう」
これで最後だ。手の甲で額の汗をぬぐう。後ろに積んだ薪の山を見てよしと頷いた。
 夕凪の家に泊まり始めて、三日が経つ。夕凪はきく婆に、センが怪我をしているからしばらく家に置いてほしいと言ったらしい。だから最初の一日はおとなしく寝ていたのだが、実際のところ大した怪我はしていないのだから暇で仕方がない。そこで夕凪に頼み、家の手伝いをさせてもらうことにしたのだった。
「あれェ、やっぱり早いなァ。ご苦労さん、ほれェ、お茶でも飲め」
 後ろから声をかけられた。きく婆が縁側でお茶を淹れている。
「ありがとうございます、おきくさん」
きく婆の隣に腰を下ろす。ぬるめのお茶を一気に半分ほど飲んだ。
「あの、夕凪は」
今度はゆっくりお茶を飲みながら、何気ない風に聞く。
「お夕なら、森に山菜をとりに行ってもらったよゥ……いなくて残念だったねェ」
からかうようなきく婆の言葉に苦笑を返す。センが悪い夢を見て留まることになったのだからそんなはずないのだか、どうもきく婆の様子を見ていると「全てはきく婆の手の平の上」という感じがしてしまっていけない。
「どっちの森に行ったんですか」
「南神居の沢の方だよゥ」
「そうですか」
 昔ひとつだった神居の森は、森囲村が出来てから南北ふたつに分かれたのだという話は夕凪に聞いて知っていた。
 センは残りのお茶を一気に飲み干し、立ち上がる。
「俺、村の方にちょっと行ってきます」
きく婆が意外そうな顔をする。
「あれェ、珍しいねェ」
珍しいというか、初めてだ。今までセンはほとんどを家の周りで過ごしてきた。一番遠くても南神居の川に水を汲みに行ったくらいか。とにかく、村の方に行ったことはない。
 センはへらっと曖昧に笑う。
「さすがに飽きてしまったので」
「そォかい」
 きく婆に頭を下げ、センは家を出た。きく婆は何故か面白そうな顔をしてセンを見送ってくれた。
 夕凪の家は一軒だけ集落から離れた場所にある。庭を出、だらだらと続くゆるい坂を下りると集落へと続く道に交わる。センはそこでちょっと立ち止まる。腕を組んで左右を見る。
(さて、どうするか……)
右に行くと南神居の森。センがこの前、灼尊に追いかけられ、クルイに突き飛ばされた方だ。左へ行くと森囲村があり、それを抜けると北神居、その先はセンが元々歩いていた街道に出るのだときく婆が話してくれた。
「あんまり目立ちたくないんだけどなぁ」
正直、村には行きたくない。それでも行こうかと思ったのは、北神居に『ハチロク』の詰め所があるから。雪村に聞きたいことがある。
 センは苦笑し頭を掻きながらも左へ曲がった。
 時刻は昼過ぎ、森囲村の人たちはみんな働き者と見えて畑にいた。土を耕し、肥を撒き、草を抜く。センが歩く道の左右の畑で。
(すごい見られている)
視線を感じるが、誰も声をかけてこない。一様に物珍しげな目でセンを見ていた。剣呑な目でないだけ幸いか。センは出来る限り人の良さそうな笑みを浮かべ、たまに目がかち合うと挨拶しながら道を歩いた。
 そのうち畑も家もまばらになり、木々が増えてくる。
「この辺が北神居か」
ふうと一度、息をする。あの道中はよろしくない。見せ物になった気分だ。帰りも同じ道を通るしかないのかと思うと、腹がきりと痛んだ。
「おいィ、こんな所で何してんだァ?」
 いきなり声がし、ぎくりとする。振り向くとお爺さんが立っていた。色黒で髪と眉毛は真っ白、ぎゅっと眉間にしわが刻まれていて、いかにも頑固そうだ。
「あの、えーと、こんにちは……あなたは?」
愛想良くあいさつしたつもりだがお爺さんの眉間のしわが深くなる。ぎろっとセンを睨んできた。
「なんでこの村に住んでる儂がテメェみてェな見慣れん奴に名乗らないかんのだ」
 不満を隠そうともしない声。センは急いで頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。俺はセンっていいます。あの、夕凪さん……いや、おきくさんの家に泊まらせてもらってます」
お爺さんは何も言わない。ぬったりとぐろ巻くような気分の悪さが腹の底から押し寄せる。
(うーわー、どうしよ、どうしよ)
どうやって謝ろうかと顔を上げると、そこには笑いを必死で堪えるお爺さんが震えていた。
 ぱち、と目が合う。お爺さんは吹き出した。
「ぶわっはっはっはっ、きくさんの言ってた通りだなァ、テメェっ! 良い奴だァ」
「へっ」
意味がわからない。センが目をぱちくりすると、お爺さんはさらに笑う。
「儂ぁ佐七ってぇ、この近くに住んでる。きくさんの家によく出入りして、あんたのことは知ってた……いやね、きくさんがあんまり『センさんは良い人だァ』って言ってたからよ、確かめたくなっちまったんだァ」
でも今のあんたの態度だけ見てると良い人って言うよりも気弱だなァ、佐七は目の端に浮かんだ涙をぬぐった。
(良かった……怒らせたわけじゃ、ないよな?)
 ほっとすると頬が緩む。佐七がそんなセンの顔をじぃっと見つめてくる。
「な、何でしょう?」
小恥ずかしくて、一歩下がる。佐七は顎をざりざりやりながら、
「やっぱ恰好良いなァ、テメェ。きくさんが会ってすぐ婿に貰うって言ったのも頷けらァ、あの人は面食いだから」
「はっ!?」
佐七はにやりと笑って顎をなでる。
「あれェ、違うのかい? お夕ちゃんがえらい好い男と一緒になるってんで、村中騒ぎだぜェ」
「……そんな」
びっくりしすぎて、言葉が出ない。
(村の人たちの視線はそういうことだったのか)
どうりで剣呑さが無く、好奇心を前面に押し出していたわけだ。それとさっきのきく婆の、どこか面白げな顔も納得だ。
「俺は、全然そんなんじゃないんですよ。ただ、泊めてもらっているだけで。やだなー、噂が一人歩きしちゃって」
 ははは、と乾いた笑みを浮かべてみる。佐七はにたにた笑ったままだ。
(これは早々にここを立ち去らないとな)
このままじゃ本当に夕凪と一緒にされかねない。
(もしかして、おきくさんはそこまで考えているのか)
……とりあえず考えないことにしておく。



inserted by FC2 system