千。



一花笑みの徒戯*7  ||イッカエミ ノ アダソバエ

 障子越しに朝の白い光が差し込む。朝だ。まぶしいと思い目を開けた。
「うぅ」
普段寝起きは良いはずなのだが、今日は瞼が重い。
(布団の上で寝たからか?)
久々のことだった。
 あまりに気持ちの良い眠気だったのでもう一度眠ってしまおうとした。目を閉じるとぐわん、と頭の奥が沈んでいく。が、心に何かが引っかかる。ふっと頭に浮かんだ名前。
(……夕凪?)
夕凪がなんなのだろうと思ったちょうどその時、激流のように昨夜の出来事が思い出された。
(夕凪っ!?)
ばっと隣を見ると、夕凪はいない。
「夢だったか」
ほっとひとつため息を吐く。一気に目が覚めてしまった。変に激しい己の心音が聞こえる。体が熱い。片手で額を覆う。
(あんな夢見るなんて……何だ、俺は欲求不満なのか?)
ものすごく恥ずかしい。自分ごときが夕凪の優しさに甘えてしまって申しわけない云々、ということもちらりと頭をよぎったが、やっぱりただただ恥ずかしい。
「あー、もう」
 起き上がり、ばしばしと頬を叩く。気合を入れなければ。しかし夢の中でこの手を夕凪が握っていたのか、と思ってしまいもういけない。
「ぐぅ」
奇声を発し布団の上にまた倒れ込む。
(久々に人と話したからって、舞い上がりすぎだろ、馬鹿が)
 己に言い聞かせ大きく息を吸う。吐く。
(俺はすぐここを出ていくんだぞ、また独りで行くんだ)
もう一度、繰り返す。少し落ち着いた。
(まあ、よく手を握るだけで留まったな、俺)
 少し自分をほめてみる。欲求不満で見た夢にしては、好き勝手やらかしていないのではないか。
(夢とはいえ何かおかしなことしてたら、夕凪やおきくさんに合わす顔がないもんな)
苦笑しながら頭を掻く。ようやく動揺も収まってきて、よっと立ち上がる。
 廊下に出ようと襖に手を伸ばす。だがセンが触れる前に襖が勝手に開いた。びくっと跳び上がる。
「あれ、起きてたの?」
夕凪だ。何となく気まずくて一歩下がる。笑顔を作ったが、ひきつってしまう。
「お、おはよう。夕凪」
「おはよう」
夕凪は穏やかな笑みを浮かべている。夕凪の様子に変わったところはない。ちょっと安心する。
(よし、やっぱり昨日のは夢だったんだな)
「もうすぐ朝ご飯ができるから、呼びにきたの」
「うん」
 夕凪の後ろに付き、廊下を歩く。
「昨日はよく眠れた?」
「う、うん」
いつになくぐっすりだ。
(ぐっすりすぎておかしな夢を見るくらいでしたよ、まったく。草の上の方が向いているのかな、俺)
夕凪は満足そうに大きく頷いた。
 何気ない様子で話を続ける。
「あ、婆さまに聞いたらね、やっぱり良いって言ってたよ。喜んでた。だから遠慮なく、家にいてね」
「うん……はい?」
言葉の意味が頭に回ってきたところで、思わず立ち止まる。
(なんのことだ?)
さっと血の気が引いた。寒気がした。
 センが付いてこないことを不審に思ったのか、夕凪が振り向く。不思議そうな顔をしている。
「あれ、もしかして……覚えてない?」
と小首を傾げた。なんとなく夕凪の顔に意味ありげな笑みが浮かんでいる気がする。いや、おそらくそれはまったくの思い込みだろうけれども。
「な、何を?」
声が掠れた。
(まさか……いや)
情けない話だが、冷や汗で脇が湿っている。センの動揺に一切気づく様子もなく、夕凪は続けた。
「昨日の夜、セン、恐い夢を見てね、」
「いや、待った!」
とっさに手を出し、話を制す。そこは覚えている。というか。
(夢じゃなかったのか!?)
改めて夕凪の口から言われると情けなさすぎる。センは頭を抱えたくなった。
「その後、の、こと。俺、夕凪に何か……えーと、言った?」
さすがに何かしたかとは聞けなかった。怖くて。夕凪は先と変わらぬ穏やかな笑みで言った。
「わたしが『怪我が治るまでここにいて良いよ』っていったら、『うん』って言ったの、センが」
「……うそ」
「ほんとほんと。半分寝てたみたいだから、覚えてないんだよ……ほら、早く歩いて」
センの呆然とした呟きに、夕凪が声をあげて笑う。
 後を追いながら必死で頭を動かす。
「あ、あの夕凪」
「なに?」
「俺、やっぱり行くよ……怪我だって、大したことないし」
夕凪が立ち止まる。ゆっくりとセンをふり返る。目元に浮かぶ、優しい笑み。
「恐い夢見たんでしょ?」
「うん」
何故か素直に頷いてしまった。
「なら、いなよ……怪我をしているから、恐い夢を見るんだよ」
「俺、怪我なんか……」
声が震えた。無性に泣きたくなった。夕凪はどこまでも優しくて、
「センの心の怪我が治るまで、いてよ。……婆さまも喜ぶし」
言葉が心を揺さぶる。
 泣いてしまいそうだった。でも少しおかしくて、口元が笑む。
(だとしたら、俺は死ぬまでここを離れられないな)
センの心の傷はここじゃ癒せないから。
(はっきり言わないと)
大きく息を吸う。
(今すぐにでも、出て行かなくちゃ)
ここにいても、辛いだけだ。穏やかな心は長く続かない。すぐに己の心の弱さを悔むことになる。
(俺は人と関わっちゃいけないんだ)
こう思ったとき、しっくりした。昨日からふわふわした幸せの中をほっつき歩いていた自分の、こうあるべき姿に戻った気がする。人と関わらず、ずっと独りで。
 硬い表情で黙り込んだセンを、夕凪が心配そうに見ている。口を開く――さよならだけを、一言。
「あれェ?」
場に響いたのはセンの声ではなかった。きく婆の暢気な声。
「なかなか来ねェから、見に行こうと思えばよォ、何だこんな場所で黙りこくってェ。さ、もう出来てんだから早く入りなよゥ」
「う、うん」
「はあ、おはようございます」
いきなり現れたきく婆に、センと夕凪はちょっと戸惑いながらそれぞれの膳についた。一瞬だけ静か。
(今、言わないと)
と思ったときにはきく婆がセンに話しかけてきている。
「センさん、いやァ、怪我がひどいんだってェ? 災難だなァ。どうぞいくらでもここにいてくれて良いからなァ。センさんみたく良い男が家にひとりいると家の中がぱっと明るくなって良いなァ! ねェ、お夕。どうせならこのままお夕の旦那になってほしいくらいだよォ、この婆は」
「ちょっ、婆さま!」
「はあ、いえ」
きく婆はからからと声を出して笑う。夕凪は顔を真っ赤にして叫ぶし、センはきく婆のまくしたてに驚いて言葉が出なかった。
 ただ一つだけ言えることは。
(今すぐ出ていきます、なんて言える……わけないか)
昨夜のきく婆の姿がよぎる。
 心の中でそっとため息をつき、センは膳に手を付けた。とてもおいしかった。



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