暮れ間に沈む



末路の、先*2

 病は気から――その言葉は本当だったのかもしれない。あれから、佐織の具合はどんどん良くなっている。薬と一緒に飲む水も苦くなくなった。
 佐織は布団から抜け出し、庭に面した廊下に出る。途端、ひんやりした空気が体を包み込んだ。佐織の部屋は冬を忘れるくらい暖かいけれど、やっぱり外は寒いのだ。部屋が暖かいのは、先生がたっぷり炭を入れた火鉢を置いてくれたから。佐織の顔に思わず笑みが浮かぶ。以前は辛いだけだった寒さも、今では火照った体を冷ますのにちょうどいい。
「佐織、体が冷えるよ」
 そう言いながら、先生が肩掛けをかけてくれた。後ろに立つ先生を見上げ、首を振ってみせる。全然寒くない。先生は少し眉間にしわを寄せた。
「こら、寒くなくても冷えているんだ。治りかけなんだから、ほら、部屋に入って」
今度は素直にうなずき、暖かい四畳半に戻る。
 マリアも入ってきて、当然先生も来るのだろうと思ったら、
「お茶でも淹れてこよう」
と言って、そのまま障子を閉めてしまった。佐織とマリアだけが部屋に残される。これは今までになかったことだ。
 マリアは先生が閉めた障子をじっと見上げている。佐織は一度手を叩いてから、おいで、と手招きした。マリアはゆっくりふり返ったが、じろりと佐織を睨んだだけで、その場を動かない。
 四畳半だ、手を伸ばせばすぐに触れられる。佐織は手を伸ばした。
 にゃあっ
「っ」
 マリアの唸りと鈴の音。佐織は手を押さえてマリアを見つめた。まだ佐織を睨んでいる。
「どうした、黒猫、佐織」
戻ってきた先生は数秒立ちつくし、状況を理解したらしい。畳の上に茶を乗せた盆を置くと、マリアを呼んだ。マリアはひょんと跳びはね、先生の腕に収まった。
「佐織」
先生の声はどこか冷たい。
「マリアに勝手に触るな、いいね」
ごめんなさい、謝ろうと口を開いたが声が出ない。
 佐織の顔を見る、黒猫先生の表情が揺らぐ。
「と、にかく、傷は洗っておきなさい」
佐織は何度も何度も頭を下げて謝った。引っ掻き傷の痛いのなんて、どうでもいいから。
 怒らないで、捨てないで。先生の傍にいられないのは、いやだ。だって――。
「怒ってなんて、いないから。まだ本調子じゃないんだ、ゆっくり休みなさい」
先生は口早に言って背を向ける。これまでになく焦っているような口ぶりだった。マリアを心配しているのだろうか。先生が出て行く。
 先生の出ていった先をしばらくぼんやり見ていたが、急に自分が先生をあんなに怒らせてしまったことを思い出し、佐織は泣いた。
 しばらく泣いた後、佐織は立ち上がる。もう一度、先生に謝りに行こうと思ったのだ。
 障子を開け、冷たい廊下へ。先生の部屋は、この家で一番大きい、六畳間。部屋の近くまで来ると、足を静かに進めた。怒っていないと言っていたが、やっぱり怖いのだ。
「マリア、マリア」
 呻くような、先生の声が聞こえた。何事かと思い、急いで駆けよる。襖が少し開いていた。
「私には、お前しか、いない。そうだろう」
佐織の足は、部屋に踏み入る前に止まっていた。
 目の前の光景。
 マリアを抱きしめ震える、先生。見たこともない、弱い姿の先生。
「お前だけだ、マリア。畢竟、どんな恩も事実も、ただひとつの醜い想いの前には無意味になるんだろう、ねえ、マリア、答えてくれ」
マリアに答えられるわけがない。先生が強く抱きしめるたびに鈴が鳴るだけだ。
 先生は廊下に佐織が立っていることにも気づかない。マリアの名を呼び続ける。
 先生とマリア、ふたつの存在だけの世界。
「マリア、好きだよ、好きだ」
好き――――先生がマリアに放った言葉が、皮肉にも佐織に答えを教えてくれた。
 佐織が先生に持つ気持ちの名前を。


 昨日寒い廊下に立ちつくした所為か、佐織の体調はまた悪くなった。佐織に見られていたことを知らないのだから当たり前なのかもしれないが、先生は何ごともなかったように看病してくれる。
 それでも、昨日までよりも先生が佐織の部屋にいる時間が減っている。よほど具合が悪い時以外、ほとんどの時間を佐織の部屋で過ごすこともあったのに。
 ぽつんと取り残される佐織。重苦しいもやもやが胸に溜まっていく。泣いてしまいそうになって、急いでこれはこれで良いのだと思ってみる。自分の中にある感情の名前を知ったばかりの佐織には、先生がそばにいない方が良い。同じ部屋にいたらどきどきしてしまって、きっと先生の顔を見られない。そうしたらきっと、頭のいい先生には佐織の気持ちがわかってしまう。
 気づいてしまった恋心。
 この気持ちは他のこととは違い、伝えてもいないのに知られてしまうのは嫌なのだ。
 どうすればいいのだろう。
 佐織には黒猫先生しかいない。比喩などではなく、本当にいない。家に住み始めたばかりの頃、わからないことは何でも聞きなさいと言われた。先生に聞けば、教えてくれるだろうか。
 受け入れてほしいとは言わないけれど、恋心の末路――その答えのひとつを教えてください、黒猫猫先生。
 佐織は布団から這い出し、筆と墨を取った。たどたどしい筆づかいで、言い表せない気持ちを紙にのせる。平仮名しか知らない佐織の、精一杯の気持ち。
 すきです
 紙を握り締め、部屋を出る。足元がふらついた。もうすぐ、自分は死んでしまうのだろうか。佐織は泣きそうになった。一年前までは、死んでもどうということがないと思っていたのに。
 黒猫先生の部屋に、気配はない。佐織の部屋にいないときは大概、この部屋にいるのに。外に出てしまったのだろうか。帰りを待つうちにこの気持ちがしぼんでしまうのではないか。おろおろしているとき、佐織の耳は鈴の音を捉えた。
 マリアの鈴だ。
 マリアは先生といつも一緒の黒猫。マリアのいるところに先生はいる。つまり先生は家の中にいるのだ。鈴の音が聞こえる方にふらつく足取りを進めた。うす暗い廊下は氷の上を歩いているようだ。素足に刺すような痛みが走る。もう少しすれば冷たささえ感じなくなる。
 先生にこの紙を渡すのだ。渡すだけ渡して、それから先のことは、それから。頭の悪い佐織の出した精一杯の答えだ。
 マリアの鈴が導いてくれたのは、ほとんど立ち入ったことのない、立ち入りたい場所、勝手場だった。一段低い土間になっていて、そこに竈と流し場と水甕が並んでいる質素な造りだ。
 黒猫先生は水を張った甕の前に立っていた。マリアがその足元に絡みつく。鈴の音。立ち止まる佐織。黒猫先生が手にしているのは佐織の湯呑みと、紙袋。
 どういうことなのだろう。
 佐織は何も考えられなくて、ただ立ちつくした。体の辛いのさえ忘れた。足裏の冷たいのさえわからない。なにもわからなくて、ぼんやり突っ立ったまま先生の持つ紙袋を見つめていた。
 紙袋に書かれている文字は読めない。漢字ばかりで難しいのだ。でも、知っている。先生が教えてくれた――それは、毒。飲んではいけないもの。飲んだら、死んでしまうもの。
 ゆっくりと、先生がふり返る。
 うっすらと笑っていた。平凡な顔つきの先生が、いやに妖しく美しい男に見えた。寒気。
「佐織」
びく、と体が震えた。すきですと書いた紙に縋るように、両手を胸の前で握り締める。紙がくしゃくしゃと鳴った。それでも強くつよく握る。そうでもしないと、立っていることも危うかった。
「これがなにか、わかるか」
 静かな先生の声。やっとの思いで小さく頷くと先生の笑みが深くなる。佐織は手に力を込めた。
 どうして先生は毒を持っているのですか。ずっとそれを飲ませていたのですか。
 先生は、佐織のことが嫌いですか。
 聞きたいけれど、聞きたくない。いや、やっぱり聞きたくない方が多い。ここで見たことも先生に抱いた感情も全て忘れるから、ほんの昨日の幸せに戻りたい。
 先生は頭が良いから、佐織の気持ちなんてお見通しなのだ。きっと、むしろ、だからだろう。先生は無情だ。薄笑みを湛え、先生は教えてくれた。
「佐織、私はそのうち、お前を殺すよ」
殺す、という言葉。佐織の知りたかった言葉はこんなものではない。それとも、これが佐織の抱いた恋心の末路だとでも言うのだろうか。ちょっと前の自分に馬鹿だと言いたかった。受け入れられない想いなんて辛いだけだ。
「逃げるなら、お逃げ」
 聞きたくなくて、耳に手をやり首を振る。けれど、聞いてしまった後にそんなことをしても無意味。まとわりついてくる余韻に似た冷たさ。心を突き刺す。それから逃れるように勝手を飛び出した。落とした紙が目に入ったが見捨て、廊下を駆けた。
 足がもつれ、廊下にしたたかに体を打つ。涙がにじむ。己の弱々しい鼓動に合わせ打った痛みが繰り返す。冷たい。怖い。苦しい。苦しい。本当に、苦しい。
 逃げるなら、お逃げ――先生の言葉が頭をよぎる。それは佐織にとって最後の望みなのかもしれない。だとしても、望みなんていらない。感情も行為も何もかも後悔することばかりだけれど、ここまできたら引き返せない。引き返す気なんてない。
 先生が問うた時から佐織は逃げないと決めていた。死にたくなどないが、殺されたって良い。佐織は先生の傍にいる。
 だって先生が、すきです、から。


 先生がくれる水は、さらに苦くなった、気がする。先生自身もそれを認めるようなことを言う。
「よく、そんな水を飲むね」
先生の声も瞳も佐織を蔑んでいる。先生の隣にちょこんと座るマリアの金の目は無感情だった。
「ねえ、佐織」
 先生が懐から皺だらけの紙を取りだした。見覚えのある紙だ。すきです、と綴った佐織の想い。紙を広げ、先生は微かに笑う。
「こんなものを書いて。私が佐織の想いを知ったところで、私は佐織、お前を殺すことを止めはしないよ」
 先生の笑みが佐織の心を追い詰める。恥ずかしくなって俯いた佐織に、先生は“だんまり”さえ許さない。
「――まだ、私のことが好きかい、佐織」
かっと体中に熱がめぐる。どきどきと心の臓が鳴る。一呼吸おいてから、ゆっくりとうなずいた。いくら先生が心変わりしないと言っても、佐織の心だって変わらない。
「……嘘だ。死にたくないから私に媚びているんだ」
 そんなことない。何度も首を横に振るが先生はわかってくれない。涙がにじむ。うつむいたままで良かった。
「言葉はいくらでも嘘をつく。でも、そうか。お前は普通ではないから、楽しみだ」
言葉の意味がわからず顔をあげると先生は佐織を見ていなかった。楽しみと言うわりに、つまらなそうな顔をしてマリアの毛並みを撫でている。
「佐織の死に際にでも、お前の本心がわかるから」
意味がわからないが、先生は教えてくれる気もないようだ。マリアが心地良さそうに目を細めた。
 佐織は自分のどのようなところが普通ではないのか知らない。黒猫先生だけが知っている。教えたのは佐織だし、佐織は今でもその“普通じゃないところ”を伝えることはできる。けれど具体を知らない。昔、誰かに教えられた通りの言葉をなぞるだけ。
 たしか黒猫先生はそのときも「それはとても、楽しみだ」と笑っていた。今と同じ、冷たく見える笑み。
「さあ、佐織、水をお飲み」
 差し出された先生の手には水の入った湯呑み。震える手でそれを取り口に含めば、やっぱり水は苦かった。


 寒い。寒い。震えている。自分の肩を抱こうとも、止まらない。襤褸の着物を着、佐織は冷たい地面に転がっている。
 先生と会う前の佐織みたいだ。みたい、というのは全く同じではないから。昔だったらこんなときでも、心は苦しくなかった。
 佐織は転がったまま眼球だけを動かし道行く人々を見つめた。足早に去る人たち。先生は、いない。
 心の中で黒猫先生のことを必死で呼ぶ。
 先生、先生、助けてください。
 すると想いが通じたのか、ゆらゆらした中から先生が現れる。心配そうな顔をし、おそるおそるこちらに手を伸ばしてくる。佐織もありったけの力をふりしぼって手を伸ばす。
 そこにあらわれた三本目の腕。女の手。金色の髪と黒色の瞳を持った女。
 女は先生の手首を握る。先生が顔をしかめる。先生は腕を引いたが、女の力が強いのか二、三度やって諦めた。逆に女は先生を引きよせ、耳元で囁いた。どういうわけか、その声は佐織の元にも届いた。
「馬鹿な人ね……貴方が躊躇うなら、わたしが殺してあげるわ」
女が赤い唇を引き上げる。先生か離れた腕は佐織の方へ。
 伸びてくる手。
 首筋に触れる指。
 温かい、指先が、佐織の首に食い込む。凄い力。
 苦しい。怖い怖い、助けて、先生、助けて。やっぱり死にたくないです。先生の傍にいたいです。
 そんな想いを込めて先生を見つめるが先生は何をするでもなく立ちつくしている。青白い顔に乗った目を一杯に開きこちらを見ているだけだ。
 女の力はどんどん強くなる。目の前がちかちかと白や淡黄(あわき)に色づく。最後に赤く染まった視界。遠くなっていく先生の姿。首を閉める女の、金色の髪が落ちてくる。
『――には、わたしだけ居ればいいの。お前は、邪魔だわ』
――。女の言った名前に覚えはなかった。でも、物を知らない佐織にもわかる。――は、先生の名前。
 佐織は口を開く。
「――、さ、んっ」
先生の名を、呼べた気がした。


 気づくと佐織は、自分の部屋の真ん中に立ちつくしていた。頭がなんとなく重い。手が自然と自分の首に伸びていた。苦しくない。今のは夢か幻だったのか。
 今度は口をぱくぱく動かしたが、先生の名前は音にならなかった。ひとつため息をつき、顔をあげる。
 びくりと体が震えた。一歩後ろに下がる。
 金色の髪のうつくしい女が、目の前にいた。佐織が女に気づくと、女は紅い唇をすっとつり上げた。
 美しいのに、怖い。無意識のうちに一歩、二歩と足が後ろに下がっていた。しかし四畳半の狭い部屋だ。すぐに床の間の柱に背が当たる。女が一歩、二歩近づいてくれば、意味もなかった。
 膝から力が抜け、尻もちをついた。
 伸びてくる腕。
 触れる温かい指先。
 絞める力は、なんと強い。
 幻のくり返しのような。
 でもこれは現(うつつ)だから、心の中でどんなに呼んだって先生はこない――涙が流れた。
 佐織は必死で手を動かす。女のことを叩いても絞めあげる力は全く変わらない。それでも手をやみくもに動かす。手が何か、硬いものに触れた。何かもわからず手に取り、女目がけて必死に振った。
 鈍い音。
 ぎゃあという叫び声と――佐織を呼ぶ先生の緊迫した声。
 でも先生の呼び声は、きっと佐織の願望が聞かせた幻だったのだ。
「マリア」
 呆然とした先生の声で、我に返った。先生は障子に手をかけたまま、突っ立っていた。少し荒い息をし、無表情に、佐織の少し手前を見下ろしていた。佐織のことは目に入っていないようだ。
 先生の目線をたどると、畳の上で濡れた毛並みのマリアが痙攣していた。
 濡らしているのは、血。
 ずし、と手に重さを感じた。おそるおそる目をやると佐織は青銅の小さな像を握っていた。この部屋のささやかな床の間に先生が置いてくれたものだった。佐織に似ているから、と言ってくれた少女の像。佐織に似た青銅の少女は血にまみれている。
 一瞬それが、自分の顔になった。
 佐織は浅い息をくり返しながら首を横に振る。マリアの痙攣が弱くなっていく。
 違う、違うんです。私が殴ったのは、殴ったはずなのはマリアではないのです。縋る思いで先生を見上げたが、先生は佐織を見ていなかった。死んでいく黒猫、マリアを見つめていた。ぴくり、ぴくりとマリアの命がこぼれていく。
「マリア、マリア」
先生が数度呼んでいる内に、マリアは動かなくなった。
「……佐織」
 呼びかけられた瞬間、佐織は顔を覆った。先生に合わせる顔がない。
「佐織」
先生の声は困っているように聞こえた。体の震えが止まらない。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、と叫びたかった。
「佐織……だって……それだって結局、偽りだろう」
 先生の声は、やけに低かった。大きく息を吸う音。
「私は佐織を許さないよ、絶対に」
その声を、遠くに聞いた。
 ごめんなさい、と叫びたかった。大好きな先生の愛するマリアを、佐織は殺してしまったのだから。
 でも、言えるはずもない。紙と筆が無ければ、佐織からの気持ちなんて先生には伝わらないのだ。
 だって、佐織は声が出ないのだから。



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