暮れ間に沈む



末路の、先*3

 甘たるい香りに、むせ返りそうだった。
 カタカタと障子が鳴り、切り裂くような風の音。真冬の中の現実離れした暑い部屋。
 何も考えるなと言い聞かせる。私はただ、佐織の首を絞めればいいのだ。なにもわからなくなった佐織が、とぼけた双眸で私を見ている。佐織の首にかけた手に少し力を込めると、佐織の喉が小さく鳴った。力が抜ける。
「くそっ」
 私は人を信じない人間だった。それは佐織に出会うまで揺るがない事実だった。
 他人は要らない。私にはマリアだけいれば良い。幼い頃に拾ってからずっと一緒だった黒猫。マリアが普通ではないことはわかっていたが、私はマリアに縋って生きていた。それを間違いだとも思わなかった。
 マリアも私のことを束縛した。人に対する不信を抱いた人間と魔性の猫はちょうどよい組み合わせだった。
 佐織を拾ったのもマリアにそそのかされたから。
 佐織と出会う少し前の私は、マリアと距離を置きたいと思っていた。人を信じないと言いながらも、時おり微かな迷いや憧れが生まれる。人の友人や恋人を欲しいと思うのだ。そんな私にマリアいつもこう言った。
『人なんて、信じちゃ駄目よ。心変わりばかり繰り返すもの』
 今までならそれで納得していた私が、どうしてかあのときは得心しきれなかった。もう限界だったのだろうか。私の様子を見、マリアは怖い目をしていた。
『じゃあ、わたしが証明してあげる』
 身寄りのない、できれば娘。その娘が私に恋をするよう仕向けろと言う。私のような平凡な男に恋をする女がいるのだろうかと思ったが、それまでマリアが言うことに間違いはなかったから、マリアの言う通りにした。
 飲ませる水に少しの毒を溶かし、佐織を弱らせた。弱っていく佐織を、わざとらしいくらい甲斐甲斐しく看病をした。マリアは佐織が恋を自覚したところで裏切れと言った。
 そして私は佐織に裏切られ、独りに戻った私に、マリアが笑う。『ね、言った通りだったでしょ』
 こうなってくれなければ困ると思っていた。人は裏切るものだと確認しなければ私が壊れてしまう。私の根治を変えられるほど佐織の存在は大きくなっていた。惹かれていた。
 冬に佐織と出会ってから共に過ごし、秋の初めくらいだろうか。その頃から、佐織に触れるのが戯れなのか否か、わずかに逡巡するようになっていた。戯れだと言い聞かせた。
 少し前、佐織がマリアに引っ掻かれ怪我をしたことがある。そのとき佐織は己の指先よりも私に必死に詫びていた。揺らぐ。自己が、揺らいだ。懸命なのは私に偽の恋心を抱いているからだ、私の機嫌を取っているのだ、そう思おうとするのに、一方、本気で佐織を心配していたのだ。
 自分が殺そうとしている女を。何度、毒を水に溶かすことを躊躇っただろう。その度、マリアが後を押した。自分の根幹が揺らぐのが嫌で、マリアに押されるままに動いた。
 だから佐織を裏切ったのに。それが返って、決定的に私を揺らした。壊した。佐織は私の裏切りを知っても傍にいた。差し出す苦い水を飲んだ。それでも私は佐織の気持ちを疑う言葉を発したが、素直に受け入れられないから何となく頑なに拒んでいただけで、わずかな下らない矜持にすぎなかった。自分が一番よくわかっていた。
 佐織がマリアを殺したことだってそうだ。佐織を憎むことができない。佐織に与えていた毒は摂(と)りつづければ徐々に幻覚をみせるものだった。きっと佐織は幻をみていたのだろう。それともマリアが本当に佐織を殺そうとしていたのかもしれない。マリアは恐らくそれができた。
 そうでもなければ、佐織があんなことをするはずがない。私は佐織の心の優しさを知っている。知ってしまったから、きっと苦しいのだ。
 あの時、声が出ないはずの佐織の叫びを聞いた、気がした。私は夢中で佐織の部屋へ駆けていた。障子を開けるか開けないかのうちに、佐織の名を呼んでいた。死んでいくマリアよりも無事な佐織を見て安心した。
 私は、つくづく佐織を好きなのだ。
 だから私は身勝手に、佐織を手にかける。私は、人を信じたくない。恐い。
 長いような短いような葛藤から醒め、佐織の首に伸びる手に力を込める。佐織の体はいつも温かい。生まれつき体温が高いのかもしれない。初めの頃は触れる度、その熱に驚いた。今は少し、愛おしい。
 佐織の喉が鳴ったが、今度は力を抜かない。
 佐織に嫌われなければならないことばかりを繰り返してきた。マリアの死を必死で詫びる佐織に私は非道いことを言い放った。もう戻れないところに突き落としてしまった。佐織は気が触れた。感情が一日中、ふわふわした曖昧な場所に漂っているようで、私の声も届かない。
 佐織の体が震えるが、止めない。
 こうなってしまってからやっと、佐織の尊さを実感している。佐織はいつも私のことを見て話を聞いてくれた。字を教えようと言えば、一生懸命になってくれた。マリアは私のことを見たことなんてなかった。目を見て話し合えるものなんて望んでいなかったはずなのに、それが安心できることを佐織から教わった。いや、望んだからこうなったのか。佐織にはいいとばっちりだ。
 佐織の笑顔が頭をよぎる。
 首を絞めれば、佐織は死ぬ。愛おしい女を殺そうなんて、自分でも本当に意味がわからない。佐織が普通の娘なら、本当に意味のない行為だ。
 佐織はきっと私を恐れ軽蔑しているだろうけれど、それを佐織の言葉で聞きたい。佐織自身に私を突き落としてほしい。
 普通ではない佐織には、それができる。
 佐織は、想いを直接他者の頭にぶち込む。
 いつだったか佐織が平仮名で表したそれは、佐織にしてはやけに汚い言葉づかいだったから誰かから聞いたのをそのまま書いたのだろう。マリアの存在があるから、佐織の力を疑わなかった。
 都合が良いと思った。今も、意味は全く違ってしまったけれど良かったと思う。こうでもしないと、もう佐織の想いなんてわからない。すきです、なんて言葉だけ残していかれたら、本物なのではないかと浮かれる自分が無様。結局、私は自分のことだけを考えている。そんな私のことなんて、佐織は嫌いだろう。
 ぐ、と力を込めると佐織の閉じた両目から涙がこぼれた。最後に泣き顔なんかは、見たくなかった。
 私が何か違う道を選んでいれば、きっと違う末路があったはずなのに。首を絞めながら、思わず笑みを浮かべていた。どうして、追い詰める恋しかできなかったのだろう。
 佐織が涙に濡れる目が薄く開く。声の出ない口を大きく開いた。
 もうすぐ佐織が、死んでしまう。
『――さ、ん、すきです』
聞こえた、と言うのは違うのに、確かに私の中に佐織の気持ちが伝わっていた。
――――――――――っ。


 カタカタと鳴った障子の音で、気がついた。辺りは真っ暗で、火鉢の中で熾る炭の赤みだけが周囲をほのかに照らしていた。
「佐織」
返事はなかったが探すまでもなかった。佐織は畳の上にぐったりと横たわっていた。露わになった白いうなじに手を伸ばした。抑えようとしても微かな震えが止まらなかった。
 触れる。
 冷たい。
 胸が重くなった。からかいや戯れで触れていた佐織はいつも温かかったのに。どうして、ようやく、真心から触れられたのに冷たいのだろう。
「佐織、佐織、さ、おり、っ」
 すきです、と佐織は教えてくれた。あんな仕打ちしかしなかったこんな私を、どうして未だ好きでいてくれたのか。どうして私は信じてやれなかったのか。どうして、どうして、どうして。自分でも答えがわからぬし、佐織も答えてくれない。私が奪ったのだ。
 久々に涙が流れた。止めどなく流れた。
 畢竟、人を信じられぬ者の末路なんて、こんなものなのだろうか。それはそれで良い。割り切れる。しかし、私を好きでいてくれた佐織に私は何という最期を与えてしまったのだろう。
「私の残りの命を、お前にくれてやれたら、良いのにね」
佐織は私に色々な物をくれたのに。変わらない想いがあることを教えてくれたのに。
 私はくちぶるを噛み締め目をつぶった。
 ぱち、と小さく火の爆ぜる音がした。
 ふいに首筋に冷たいものが触れる。咄嗟に目を開いたが、光景が、私の思考を遮断する。
 佐織だ。
 佐織が身を起こし、苦しそうな顔で私を見ているのだ。幽霊か。佐織の冷たい指先が私の首筋から始まり徐々に上へとすべる。顎から耳へ輪郭をなぞり、こめかみ、私の目じりで止まる。
 そして幼子にやるように涙をぬぐってくれた。
 辛そうな顔をしたまま佐織の動きが止まる。微かに口元が動くのが、ぼんやりと赤色に照らされてわかった。口は動いても声にはならない。
 申し訳なさそうな、悲しそうな顔のままなのに笑って、佐織が私の目元から手を離す。離れていく手を思わず取っていた。佐織は目を見開き、私を見つめる。
「佐織、私のことが、好きか」
泣き後の声は嗄れ掠れていた。なぜか、佐織の顔も見る間に泣き顔になる。
 くしゃくしゃになった顔で、頷いてくれた。
「どうして……」
嬉しくて私の目からも再び涙が出てくる。佐織はきょろきょろした。紙と筆を探しているようだ。
 掴んだままだった佐織の腕を引き、自分の腕の中に抱く。謝ろうと思ったのに、口をついたのは違う言葉。
「ありがとう、佐織」
体は冷たいのに、摺り寄せた頬は熱かった。
 力任せに抱きしめる。
 勝手に末路を決めつけて、そこへばかり向かおうとしていた。私と佐織の関係はそこへ向かっているようで、少しも動いていなかった。ただ佐織を私とマリアの結末に巻き込んでいただけ。何も始まってない。
 もうすぐ、長い冬の夜が明ける。
 佐織には謝らないといけないことがたくさんある。魔性とはいえ長年私を支えてくれたマリアにも本当の意味で別れを告げよう。佐織を医者に診せないといけないし、佐織に好きだと伝えたい。
 やっぱりまだ人を信じ切れない私は、佐織が私に抱く好意が錯覚なのではないかと疑ってしまうけど、だからたくさん話したい。佐織は声が出ないけれど、きっと大丈夫。目を見て、きちんと受け止めて、そうすれば言葉がなくてもわかってあげられる。
 どこにつながるかわからない道を、佐織と一緒に歩いて行けたらどんなに良いだろう。私が佐織だったら、私のことを許しはしないだろうけれど、佐織はどうだろう。
 ねえ、佐織、もし許してくれるなら一緒に歩いていこう、と。この言葉を口に出せるのはずっと先。ずっとずっと先。まずは、私の気持ちから伝えようか。
 でもとにかく、夜が明けるまではこのまま静かに。
 それから先のことは考えず、私は佐織を抱きしめていた。

   末路の、先…おわり



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