暮れ間に沈む



末路の、先*1

※若干いやらしいと取れる表現があります。極度に苦手な方はご注意ください。
※作中に差別的と取れる表現がありますが、あくまで表現上の使用であり作者に差別意識があるわけではありません。



 甘たるい香りに、むせ返りそうだった。
 カタカタと庭に面した障子が鳴る。肌を突き刺す冷たい風が、木々の間を抜けているのだろう。
 それでも、山に盛った炭が赤く熾(おこ)る四畳半は汗ばむほどだった。事実、私のこめかみを汗が伝う。いや、これはこれから犯す行為に対しての緊張だろうか。迷いなどではない。迷いは、ない。
 私の前に座る佐織(さおり)は何がおかしいのか、くすくす笑いながら火鉢の中に砕いた香の欠片を無造作に投げ入れている。火の爆ぜる音。頭が痛くなるほど、甘いあまい香り。
「佐織」
呼んだ声は掠れていた。
 真白い佐織の首筋に指を這わせる。びくりと強張る佐織の体。佐織は笑うのをやめ、私の方を見た。とろりと濁った佐織の瞳。私のことなんて、映っていないのだ。
 ぼやけた表情に、ひとつ口付けを落とした。ふ、と微かな息がどちらからともなく漏れる。佐織の体をゆっくりと畳の上に寝かした。
 カタカタと障子が鳴り、切り裂くような風の音。真冬の中、現実離れした暑い部屋。
 佐織の細い首に手をかける。
 甘たるい香りに、むせ返りそうだった。




 佐織は普通の人ではないらしく、そして独りだった。
 どこで生まれたのか知らない。ふた親の顔も知らない。気づいたときは道の上で、日々を何とか生き延びる生活をしていた。物乞いをするにも色々な決まりや範囲があるから、その何処にも属さない佐織は隠れながら残飯を食らい、逃げるように町々を転々とした。
 冬は特に辛い。寒さもあるし、残飯が得られなかったときに齧る草木も眠っているのだ。
 そんな佐織に転機が訪れたのは冬の初め、黒猫先生に出会ってから。
 辿り着いた町の何番目だったかはわからない。残飯をあさって逃げるように立ち去ることになるはずだった町。その町を佐織は足を引きずりながら歩いていた。前の町で棒で殴られた。最初は痛かった足は、感覚もなくふわふわしていた。
 歩けなくなって道端に座りこむ。地べたの冷たさが尻を伝って全身に広がる。肉の付いていない佐織には、ただ座っているのさえ痛いし辛い。骨が地面に当たっているようなものなのだ。冷たいのと痛いのと辛いのと、それと体に力が入らなくて佐織はこてんと地面に転がった。それでも目だけは開けて、道を通る人々の顔を見つめていた。
 人々は冷たい瞳をして佐織をちょっと見下ろし、足早に去っていく。
 死ぬんだなあ、と思った。誰がいつ言ったのか、自分は普通の人ではないと聞いたが、結局は普通の人だった。寒さに凍え、飢えはひもじく、死んでいくのだから。せめて眠っているみたいに死ねたらと思った。
 目をつぶる――その頬をべろりと舐めるものがあった。温かい、ざりとした感触。
 びっくりして目を開けると、目の前は真っ黒だった。舐められたところが冬の空気の所為で引きつるように冷えていく。
「ああ、これは、ちょうどいい」
低く、ぼそぼそとした喋り方。
「死んでいないのかい」
目の前はまだ真っ黒で、何も見えない。もしや自分はとっくに死んでいるのだろうかと考えたが、違った。
「おいで、黒猫。女の顔が見えない」
 ぼそりとした声の後、ばっと視界は元通りの道。道に突っ立っている人の足元が見えた。佐織は眼球だけを動かし足元の上を見た。
 男だった。地味な色の着物と羽織が暖かそう。大きな黒猫を抱き、男は佐織を見下ろしていた。
「汚い娘だ。黒猫、お前よくこんなのを舐めたな」
呆れるような口調だ。佐織には男の言葉は全て聞こえていたが、よくわからなかった。ただの気まぐれだろう。それを考えるのさえ面倒くさい。
 佐織は再び目をつぶろうとした。変な男の気まぐれに、付き合ってなどいられない。
「これなら、死んでも誰も悲しまないだろうなあ」
とても暢気な調子で、冷たい言葉。この意味なら佐織にもわかった。そう、誰も悲しまない。
 すっと影が射し、薄れていく意識の中に男の顔。しゃがみこんだのだろうか。
「私がお前に、最期をあげよう」
暗くなっていく意識では、いや、佐織の頭ではきっと黒猫先生の言葉の意味などわかるはずもなかったのだ。
 ただ、黒猫の瞳が金色だったのを覚えている。


 それが黒猫先生との出会いだった。実は、佐織という名前もそのとき貰った。あと年齢も。十六歳だ。佐織は自分の年齢を知らなかったから、黒猫先生が見た目で年齢をくれたのだ。名前も年齢も服も住むところも、今の佐織が持っているものは全て先生がくれたと言っても過言ではない。
 その時から、もうすぐ一年が経とうとしている。けれど佐織はほとんど黒猫先生のことを知らない。見た目は、なんとも特徴のない若い男の人。散切り髪は普通に黒く、背は高くもなく低くもない。覚えやすいところに黒子(ほくろ)があるわけでもない。肌が白くて指が長い気がするけれど、佐織には比べられるだけの知識や経験がないからよくわからない。
「佐織、具合はどうだい」
 佐織が首を左右に振ると黒猫先生は微かに眉を寄せた。佐織の額に手が伸びる。ひんやりと冷たく、心地良い。幸せだなあ、と思って精一杯笑ってみたが、上手く笑顔になっているかわからない。先生は冷たく見える笑みを返してくれた。
 先生の家に住むようになってから一年あまり。佐織は日に日に具合が悪くなっている。最近は寝ていることの方が多い。
「無理はしなくて良い。ほら、薬だよ」
先生が盆に乗せた薬に手を伸ばす。それを目で追っていた佐織は、先生の陰からひょこと顔を出した黒猫と目が合った。今日も黒猫の金色の目は何を考えているかわからない。
 黒猫は先生の飼い猫。名前はマリア。でも黒猫先生はほとんどマリアを名前で呼ばない。いつも黒猫と言う。マリアの黒さは真に美しい。つやつやとした毛は、誰が見たって佐織の髪より美しかった。マリアはいつも必ず黒猫先生の周りにいる。
「起きられるかい、ほら」
 黒猫先生に支えられて、何とか体を起こす。黒い小さな粒薬を数粒、口に含む。口元にあてがわれた湯呑みの水と共に飲み下した。
 この水は、いつも苦い。町の水だからだろうか。水道の水だからだろうか。いつか飲んだ小川の水はおいしかった。
「ゆっくり休むんだよ」
横になった佐織の前髪を撫で、黒猫先生は薄い笑みを浮かべる。この人の笑顔は、とても冷たく感じるのだ。それとも本来、笑顔とはそういうものなのだろうか。
 立ち上がり佐織に背を向けた先生と、マリア。長い尾がゆらりと妖しく揺れた。
 佐織はひとり、部屋の真ん中に取り残される。四畳半。先生は小さな部屋がいくつもある大きな家に住んでいる。六畳間が一番大きくて、先生の居場所。佐織には二番目に大きい四畳半をくれた。可愛らしい床の間があるこの部屋は縁側の障子を引けばささやかな庭が見られる。背の低い木蓮が裸になっている。
 佐織はひとつ、ため息をついた。たったそれだけのことでも胸が苦しい。こんなに病弱になってしまって、自分の体はどうしたというのだろう。こんな佐織のことも黒猫先生は嫌な顔をせず看てくれるが、佐織は本当は、黒猫先生に何かしてあげたい。佐織は家事も炊事もほとんど知らないから最初は黒猫先生に教えてもらわなければならないが、それにしたって、寝込んでしまった間中動けていれば今ごろ、少しは黒猫先生の役に立てるようになっていたはずだ。佐織がここにきてから教えてもらったのは文字、それも平仮名だけだった。
 悲しくて、情けなくて、涙が出そうだった。
 ――――そのとき、ひとつ、鈴の音。
 音がしたのは廊下の方。見ると、障子には黒猫先生の影。すっと開き、りんちりんと鈴を鳴らし、先生を先導するようにマリアが入ってきた。首には赤い紐で括られた小さな鈴。瞳と同じ、綺麗な金色。
「可愛いだろう」
 佐織の傍に座り、マリアを膝に乗せた先生はうっとりした顔をしている。佐織には決して見せてくれない顔。先生の言葉に素直になれず、頷くのが少し遅れた。
「ふいに思いついてね。これで黒猫がどこにいてもわかるよ」
満足そうに言い、黒猫先生はマリアの艶やかな黒い毛に指を流した。マリアは心地よさそうに目を細める。
 しかし、その鈴にどれだけの意味があるのだろうか。だってマリアが先生のそばから離れることなんてまずない。マリアはいつでも先生と一緒だ。
 うらやましい。ちりり、と心の隅に芽生えた想い。
 その想いにびっくりして、佐織は黒猫先生から目を逸らした。
「佐織」
ふいに伸ばされた指が、佐織の首筋に触れた。思わずぞくりと身が震える。いつも冷たい先生の手が、今は少しだけ、温かい。この温もりはマリアのものだろうか。
「大丈夫、きっと近いうちに良くなるよ。さっき泣きそうになっていただろう」
そういう意味じゃないと伝えたかったが、体が重く、動かなかった。
 優しくされるとかえって、自分の惨めさが浮き彫りになる。泣きたい思いがぶり返し、今度は涙が流れてしまう。先生の前で泣いてしまうなんて、どれだけ先生の手を煩わせる気なのだ、と自分を叱った。でもいっそう情けなくなって、涙が出た。
「泣くな、佐織」
 すっと目の前に先生の顔。佐織の顔に、先生の短い髪がかかる。あと、吐息も。目元に触れる、乾いた冷たい、くちびる。
 くちびるはすぐに離れ、先生の柔らかな笑みがあった。マリアに向けるものと似た笑み。
「『病は気から』という言葉もあるんだ。だから、弱気になるんじゃない」
弄ぶように佐織の前髪を撫でる黒猫先生。その指先からは既に微熱が失われていた。
「ゆっくり休みなさい」
 最後にぽんと頭をやって、黒猫先生は立ち上がった。
「では私は行くよ。黒猫の鈴を見せたかっただけだから」
部屋を出ていく先生とマリア。
 佐織は心がとてもとても、とても温かくなった。嬉しくって、思わず笑みがこぼれる。温かさも嬉しさも、思わずこぼれる笑みも、一年前までは知らなかったもの。先生がくれたもの。
 少し遠くで、鈴が鳴る。マリアの居場所を告げる鈴が。



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