四秘籠―ヨツヒコ―



四秘籠の弐*およし

 誰にも言わないでくださいまし。それだけが、望みです。
 終生語ることはないと思っていたこのお話、貴方様に語るは何の因果でしょう。しなびたこの婆を、およしと呼んでくださった貴方様だからでしょうか。わかっておりますとも、わかっておりますとも。貴方様は志保お嬢さまの悲劇を聞きたく、この婆の元に来られ、この婆に優しくしてくださる。わかっておりますとも。間違ってもおよし、貴方様に恋慕することはございませんよ。若い方は先走りやすくていけませんな。……ここまでわかっていて話してしまうのだから、結局、心のどこかでは話したいと思っているということでしょう。
 ――――。
 ……志保お嬢さまは素晴らしいお方でした。結婚することもなく独りで生きているわたしにとって、本当の孫ように思えました。赤い瞳を持って生まれてこられたのは、悲劇と言うほかないでしょう。そのせいで、旦那さまも奥さまもお嬢さまのことを疎まれたのですから。
 ええ、貴方様がこの様なお話を聞きたくないのは表情でわかります。ですがしばしお付き合いくださいまし。本当のことを言うとわたしは、お嬢さまと林蔵さんの関係を知っていたのですよ。たった一度だけ、ふたりが真夜中に一緒にいるのをたまさか見てしまったのです。月の明るい夜の下、林蔵さんの胸にしなだれかかるお嬢さま。ふたりの姿は絵巻から抜け出してきたように美しかったのでございます。
 本当は許されるものではありません。お嬢さまと下男の恋などは。わたしが真に旦那さまや奥さまにお仕えしていたのなら、ふたりの関係を報告しなければいけなかったのです。でもわたしにはできませんでした。林蔵さんはお嬢さまにとって、唯一の救いだと思ったからです。お嬢さま方の関係を知っていたわたしですから、旦那さまが「産婆を呼べ」とおっしゃった時も大きな衝撃を受けることはありませんでした。
 旦那さまはお嬢さまの懐妊にひどく立腹されましたが、わたしは心底で喜びさえ感じておりました。お嬢さまにもやっと家族ができるのだと。
 お子様……そう、お子様なのです。貴方様が聞きたいのは、ここからでしょう。志保お嬢さまの死について聞きたいだなんて、酷いお方です。
 わたしは井戸の底で志保お嬢さまの亡骸を見つけました。お嬢さまの亡骸は引き上げられ、わたしが白装束を着させて差し上げました。そのとき、わたしは恐ろしいことに気付いたのです。
 ――志保お嬢さまのお腹がへこんでいたのです。
 もちろんぺったんこになっていたわけではありません。でもほんの少しだけ、子どもの魂の大きさくらいだけ、へこんでいたのです。
 子どもの魂の大きさ、ですか。この言葉を最初に使ったのはわたしではありません。寺の住職さまですよ、あの半分惚けた。志保お嬢さまのお腹が少しへこんでいることに気付いたのはわたしだけのようでした。わたし、怖くて。井戸の奥の方までよくよく浚ってくれるように頼んだのです。でも何も掬われなかった。
 わたしが気付いた微細な変化をわたしは誰にも言いませんでした。言えなかったという方が正しいかもしれません。言ってしまったら言葉はひとり歩きして、わたしの勘違いで済むことではなくなってしまうから。このまま言わないでお嬢さまがお墓の中に入ってしまえば、あれはわたしの見間違いだったと思うことができるかも知れないと思えるだろうと考えたのです。
 そんな淡い期待を抱いていたわたしですから、お嬢さまの死から二、三日経った頃に奥さまが井戸から何かの声が聞こえるとおっしゃった時は、心の臓が止まるかと思いました。実際、その声をわたしは聞くことができませんでしたけれど、だからこそ怖い……人間、そういうものにございましょう。その怖いのを誰かに聞いてほしくて、わたしは住職さまに、志保お嬢さまの亡骸は腹が少しへこんでいたと言ったのです。
 そのとき住職さまがぽつりとつぶやいたのが先程の言葉、「子どもの魂の大きさ」です。別に特別な考えがあって言ったわけではないでしょうとも。あのじじさまは惚けていらっしゃいますから、きっと、大昔に読んだ伝奇の中からでもふと思いついた一言が口をついたのでしょう。
 住職さまの言葉を聞いて、なるほどと思いました。亡骸の腹のへこみはちょうど、そのくらいの大きさだと。
 なぜ惚けた住職に話したのか、ですか。それは簡単な話です。あのじじさまが惚けていたから。わたしは何も、答えや解決を求めていたわけではありません。ただ自分ひとりで咀嚼するにはあまりにも恐ろしい出来事を、吐きだしたかっただけにございます。まともに頭の働く方じゃあいけません。すぐに話が広まってしまいますから。わたしが話の大元だと知られるのが怖かったという理由もありました。
 ……この辺でやめておきましょう。これ以上話しても、貴方様が満足する話はないようですし。ふふ、表情を見ていればわかりますよ。この話は貴方様とわたしだけの秘密――だなんて言ったら艶めかしすぎますでしょうな。ああ、そうでした。住職さまも知っておりましたね。ですがこの話の伝播、この三人だけで終わりでございます。

 なんの根拠もない貴方様の、誠実さを信じましょう。誰にも言わないでくださいまし。



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