呼び続ける。



11*蛇と蜥蜴

 現実とはしばしば、悪夢と言い換えられる。
 屋敷の門をくぐった誠一郎に、目を腫らしたおよし言ったのは「志保が死んだ」ということだけだった。およしはそれだけしか言わず、泣きだした。誠一郎にとっても、それだけで十分だった。平吉がおよしに代わり何かを言っているが、そんなもの耳に入らなかった。
――志保が死んだ――
誠一郎の目の前が真っ白になるのは、その事実だけで十分だった。
 後から聞いた話では、志保は井戸の中で死んでいたらしい。見つけたのはおよし。朝、居候先の家から屋敷に来たとき、いつもなら笑顔であいさつしてくれる志保の姿がなかった。腹に子がいる身ではいろいろ疲れていて寝過ごすこともあるだろう、と気にしなかった。
 台所にある水瓶に井戸から汲んできた水を満たす、これがおよしの毎朝の日課だった。冷たいより痛いに近い冬の空気を吸ったり吐いたりしながら、およしは井戸へ向かった。あれ、と思った。井戸の周りが水浸し、まるで大雨が降った後のようにぐちゃぐちゃしていたからだ。だがそれも、真冴か誰かが水を汲んだけどこぼしてしまったのだろうと思い、大して気にしなかった。
 およしはぬかるみに足を取られないように注意しながら釣瓶を落とす。桶は勢いよく落ちていき、ばしゃん、としぶきの音をあげるはずだった。
がぼん。
やけに鈍い音。およしは不審に思った。深い井戸の底に何があるのだろう。のぞきたいと思うのは、人の性。のぞいた先に見えたのは、暗い水底でもはっきりとわかる。人の肌の白だった――。
 誤って井戸に落ちたのだろう、ということだった。その夜、屋敷にいたのは真冴と志保だけで、真冴は寝ていて何も知らないと言う。真冴は、朝から志保の姿が見えないので心配し、志保の名を呼び探しているらしい。確かに耳を澄ませば、真冴の頓狂な呼び声が聞こえる。
 誠一郎は話を聞き終え、「そうか」とだけ答えた。別に悲しみは増減しなかった。誠一郎の悲しみは志保の死から来ものであって、どんな話を聞こうとも無駄を剥げば残るのは結局、志保が死んだという事実だけだからだ。使用人に葬式の準備を命じると自室に引っ込んだ。
 薄暗く寒い部屋の中、文机に突っ伏し頭を抱えた。どうしてだ、どうしてだ。本当に死んでしまったのか。誠一郎は志保の遺体を見たくなかった。いつか見た、林蔵の遺骸を思い出した。死ぬことによって人は全く別の何かになってしまう気がした。どれほど近しい人でも、愛する人でも他人でも、一様に人ではない別の何かになってしまう。誠一郎は、別の何かになってしまっているかも知れない志保を見たくなかった。
 誠一郎に、涙はなかった。悲しみはあるが、それは喪失感と言い換えられる。志保が死んだ、という事実。
「うあぁ」
号泣の代わりに口から洩れたのは、重たい呻きだけだった。

 読経がぽっかりと空いた心のすき間を通り抜けていく。志保の葬儀だ。村一番の分限者の娘の葬儀とあって、参列者は遠方からも含め結構な数になった。今日もあの惚けた坊主の声はよく通る。しかし、それにまぎれて人々の囁きも聞こえた。志保の目のこと、林蔵のこと、林蔵の自殺、志保の懐妊、真冴のこと、志保の死。そんな話ばかりが、耳につく。厳粛な雰囲気を壊さないように、それでいてその禁忌に抵触するのを楽しんでいるかのように人々の囁きは絶えない。
 よく晴れた、暖かな日だった。ぼんやりとした青空と白雲は、葬儀の日にはまるで合っていない。
 志保の葬儀は滞りなく終わり、墓へと葬列が出発する。その葬列に、誠一郎と真冴は加わらない。村の風習だ。若い者が死んだとき、家族は家に残り死者を見送る。あなたが帰ってきてくれるなら私たちはいつまでもここで待っていますよ、という残された者の悲しい願いだ。叶うことのない願いが生んだ風習だ。
 葬列はだいぶ遠くまで進んだ。黒い服を着た人々が歩いて行くのはまるで蟻の行列のよう。誠一郎と真冴は、その様子を門の内から見ている。隣の真冴は鼻歌を歌いながらふらふらしている。きっと自分がなぜここに立っているのかもわからないのだろう。誠一郎の心は痛んだ。真冴はまだ志保の死を理解していない。この先も娘の死を知らず、志保の名を呼び続けるのだろうか。
 このまま夢の世界にいた方が真冴は幸せだろう。だが、誠一郎は辛いだけだ。真冴と、志保を失った喪失感を分かち合いたかった。
「真冴、志保はね、死んでしまったのだよ」
誠一郎は言った。
 その一瞬、何かが変わる。なんとも言いにくいが、晴れた冬の空が突然重苦しい雨雲に覆われたような、不愉快で恐ろしい変化が一瞬、誠一郎を襲った。ばっと隣を向き真冴を見る。
「志保ぉ、志保ちゃーん」
真冴は歌いながら志保を求め、屋敷の中に入って行った。誠一郎は立ちつくした。
――真冴は、蛇だ。
 真冴の顔を見たとき、真冴は夢の中の住人だった。しかし、誠一郎は真冴の正気を感じとってしまった。刹那だけ目の恥で捉えた真冴の顔が脳裡にこびりつき、離れない。
 ひどく清々しい正気の顔で、真冴はにやりと笑ったのだ。それは刹那と呼ぶのも長いくらいの時。だけれど、確実に真冴は笑った。心の底から、正気の内から、志保の死を笑った。
 誠一郎は直感した。
――真冴が志保を殺したんだ。
 志保の葬列はとうに見えなくなった。だけれど体も心も思うように動かず、誠一郎はいつまでもその場所に突っ立っていた。

真っ暗闇の中に浮かぶ白い面(おもて)は、真冴か。
「お前が志保を殺したのか」
誠一郎は確信を持った問いをぶつけた。
真冴の色白の顔がにいと歪み、やけに赤い舌がみえる。やはり、この女は蛇だ。
「そうですよ」
正気の声で真冴は言い、笑みを濃くした。どうして、と聞くのが怖く誠一郎は真冴を凝視するしかなかった。
「でもあなたに、わたしを駐在に突き出すことなんてできませんよ」
 しばらくし、真冴はくすくす笑いこんなことを言いだす。どういう意味だ。
「己の妻が娘を殺すなんてこと、あなたの矜持が許さないもの。現にあなたは、気づいているのに告発する気はないでしょう」
赤い舌とやけに鋭い犬歯を見せ、からから笑う。襟元から覗く白い首がなまめかしい。
 ゆらりと真冴の姿が揺れ、誠一郎のすぐ前に現れる。誠一郎は逃げようとしたが、体は石のようであり、動かない。口の端を釣り上げた真冴が、誠一郎をあざけるような口調で言う。
「あなたもわたしも、志保を愛していなかったっていうことですよ」
とん、と胸を突かれ、誠一郎は仰向けに倒れる。見上げた先は、どこまでも闇だ。ちがう、ちがう。頭の中で真冴の言葉を否定するが、体は動かない。
「誰も志保を愛せなかったのですよ。志保を愛せる人間なんて、この世にはいなかった。あなたのしたことは、父親ごっこでしょう」
真冴は明らかに誠一郎をあざけっていた。言葉の裏に偽善者を嗤う響きがあった。しかし、誠一郎は言い返せなかった。ちがうと理性で否定する前に、心がその通りだと認めてしまったから。
 真冴の体は、姿を変えていく。舌が長くなり、目が黒く輝き、手足がなくなり鱗が生える。蛇だ。真っ黒な、蛇だ。細く長い蛇はするすると誠一郎の首に絡みつくと、誠一郎の鼻の先に首をもたげた。しいしいと赤い舌が出たり入ったりする。
「どいつもこいつも、結局は己が一番かわいいのさ」
真冴から為った黒蛇は、狂ったように笑った。
 これは夢だ、誠一郎は思った。
――覚めることのない、悪夢だ。

 気がつくと、誠一郎は自室の文机に突っ伏して眠っていた。肩には羽織がかけてある。誰かがかけてくれたのだろう。葬儀の後、いつの間にか部屋に戻っていたらしい。どれくらい眠っていたのか、辺りは薄暗かった。
 息が荒い。心臓がどぐどぐ鳴る。今まで見ていたものが夢なのか現なのか、はたまた現を反映した夢なのかわからない。汗で、着物がぐっしょりと濡れていた。
 真冴が志保を殺した。この真実の、なんと胸糞悪いことか。真冴が正気を保っていることの、なんと救われないことか。
 真冴もまた、志保の懐妊を知ったとき大切な何かが壊れてしまったのかも知れない。人から正しく見られているという矜持が壊れて誠一郎が志保を殴ったように、真冴も一線を越えてしまったのかも知れない。
 だからといって、真冴のしたことは許されることではない。真冴に罪を認めさせなければ。だが、
「うぅ」
誠一郎は呻くと文机の上のものを払い落し、頭を抱えた。できない。真冴を殺人者だと言うことなど、己にはできない。
『己の妻が娘を殺すなんてこと、あなたの矜持が許さないもの』
夢の中の真冴が話しかけてくる。
「そんな矜持、捨てたはずだ。私は、志保を、志保を」
喘ぐようにつぶやく。己に言い聞かせる。このままでは、志保があまりに不憫じゃないか。
『誰も志保を愛せなかったのですよ。志保を愛せる人間なんて、この世にはいなかった。あなたのしたことは、父親ごっこでしょう』
 また聞こえる幻聴。
「ちがう、ちがう」
誠一郎は拳を握り、理性を保たせる。夢の中とは違う、真冴の言葉に耳を傾けたりしない。現実で自分は志保のことを愛していたではないか。志保のことを想え。志保を愛した自分を思い出せ。真冴の声は、幻だ。己の醜い心が、真冴の声となって表れているだけだ。
「私は、志保を、愛していた」
愛していた、愛していた、愛していた。呪文のように唱える。少しだけ心が凪ぐ。
 そのとき、がらりと部屋の障子が開いた。驚いて、跳びじさる。
「真冴……」
「あなた、志保を見ませんでしたか」
間延びした調子で真冴が聞いてくる。誠一郎の背中に、悪寒が走った。なにも答えずにいると真冴はぱたんと障子を閉め、行ってしまった。志保の名を呼び、志保を探すふりをしながら。本当は知っているくせに。志保を殺した張本人なのに、気が触れたふりをして。二度と正気の人間として扱われないであろうに。
――そうまでしてお前は志保を殺したかったのか、真冴。
「なぜだ」
『あなたもわたしも、志保を愛していなかったっていうことですよ』
 つつっと涙が流れだした。誠一郎の体は文机から滑り落ち、畳の上で丸くなった。涙が、止めどなく流れる。志保の死を聞いても流れることのなかった涙が、流れ続ける。
「どうして、愛せなかったんだ」
自問とともに、志保のことを思い出す。涙に濡れた赤い瞳。どうやっても、自分は。
「くくっ、くくぅ」
自然と、己を嘲る笑みが浮かぶ。己を見て微笑む美しい志保。その双眸の暗い赤。ぎゅっと体に力が入る。どうやっても、自分は、自分と真冴は。
「その赤色が怖かったんだ」
 ははは。涙を流しながら、乾いた笑いをこぼした。部屋の真ん中、大の字に広がり、目から涙を、口から笑い声を出し続ける。
 それでも、とふと気まぐれのように思う。事実を露呈させることも志保に対するひとつの罪滅ぼしになるのではないか、と。そこに聞こえる、また幻聴。
『そんなことして、誰が喜ぶの』
真冴の声は笑う。
 ――誰が喜ぶ――。確かにそうだ、と思った。志保はもう死んでしまったし、真冴は捕まる。自分は、世にも非道な事件の両主役の家族として、脇役としてみじめな人生を送ることになるだろう。
「そんなの、嫌だ」
そう呟けば、聞こえるのは真冴の高笑い。気まぐれの考えはすぐに消えた。
 頭がずきずきと痛い。胃がかっと熱くなり、吐きそうになる。
『どいつもこいつも、結局は己が一番かわいいのさ』
この台詞だけ、なぜか男の声で聞こえた。どこかで聞き覚えのある声。
「……林蔵、か」
似ているが確かめるすべもないし、確かめたくもない。
 誠一郎はてのひらで顔を覆った。
「はっは。林蔵、やはりお前は頭の良い男だったな。その通りだ、その通りだ」
 真冴が蛇なら、己は手足をもがれた蜥蜴だと思う。姿は似ているが、あのような純然たる悪意の牙を持たない。ただ闇雲に流れる血潮で志保の心を汚しただけだ。志保の存在は真冴に牙を与え、己から手足をもいだ……いや、違う。牙を生み、手足をなくしたのは志保を見て動いた己らの醜い心なのだろう。
 大きな感情の波が来て、大声で叫びたくなる。くちびるの端を噛み、こらえた。顔から笑みは消え、口の端から流れるのは赤い血。口の中に広がる鉄の味をかみしめながら、誠一郎は言った。
「許せ、志保」
私はもう、もがくことさえあきらめた蜥蜴だから。

 覚めることのない悪夢の中、朽ち果てるまでじっとしているしかできない、哀れな蜥蜴だ。



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