呼び続ける。



10*あざわらう孤月

 真っ暗な夜の闇を、白い月があざわらう。
 冬の夜気は澄み渡り、牙を持っているように鋭い。人の心の柔らかく温かい部分を切り裂く刃だ。暗闇を照らすのに、その糸のような三日月はあまりにも頼りなかった。
 志保はそんな月を見上げ、息を吐いた。白い吐息は空に昇り、すぐに見えなくなった。何となく体が熱く、外に出た。冷たい空気がすぐにほてった体を冷やしたが、白磁のような月に目を奪われ、志保は月をぼんやり眺めていた。大きく膨らんだ腹を愛おしそうにさする。もうすぐ、本当にもうすぐ子どもが生まれるのだ。林蔵と志保の子が。
 ざ、
何かが地面を引きずるような音を聞き、志保の体が固まる。音のした方を向く。人がいた。どくりとひとつ、心音の後、かっと体が熱くなる。人影は夜の中でも一段と濃い影となり、志保の方に近づいてくる。志保は思わず後じさるが、井戸の縁に当たりそれ以上うしろへ下がれない。
 人影は志保の十歩ほど手前にある。ふらふらと風に揺れる若草のような歩き格好。その歩き方にある人の顔が浮かび、志保は不安げに聞いた。
「かあ様ですか」
ふらりと影の動きが止まる。
「あら、志保ちゃん」
黒い影は、真冴だった。志保は安堵で息をつく。緊張して熱くなった体を撫ぜる夜風が、一瞬心地よかった。
 寝間着一枚の真冴に志保は駆けより、自分の着ている綿入れを真冴の肩にかけた。
「母さま、どうしたんです。こんな夜更けに」
「ふふぅ。かあさまは、水が飲みたくなっただけよぅ」
真冴はからからと犬歯を見せ笑う。
 志保もふふっと笑い、井戸に桶を落とした。少し遅れて、ガポンと音がする。
「志保が汲んで差し上げます」
「ありがとう、志保ちゃん」
 背後に母の視線を感じる。足踏みでもしているように不規則なざりざりという音が聞こえた。
「志保はどうして、こんなところにいるのぉ。風邪ひいちゃうわぁ」
間延びした真冴の声。最近ではこの調子が常であり、志保もこの口調に母を思うようになってきた。
「なんとなく体が熱くて。体を冷やしてはいけないと思うのですが、つい」
志保は答える。腹に注意しながらつるべ縄を引く。寝間着のすき間から、冷気が容赦なく肌を刺す。きん、と体の芯まで沁みいるような痛みに耐え、母のため釣瓶を引いた。
「目に布がなくて、よくお外が見えるでしょう。いいわねぇ」
「はい」
志保は父、誠一郎と話をしたその日から、目に布を当てるのを止めた。初めのうちは赤い瞳を人目にさらすことに恐怖があったが、今ではだいぶ慣れた。
「あらぁ、そう言えば、およしや平吉はどこにいるの。およし、およし」
 真冴が突然そう言い、およしの名を呼んだ。きっと真冴は志保の返事を聞いていなかっただろう。話題が突然かわる、最近の真冴にはよくあることだ。だけれど志保は気にしない。仕方なさそうに苦笑するだけだ。
「およしさんも平吉さんも今は屋敷にいないじゃないですか、かあ様」
志保はまさか、真冴が追い出したからだとまでは言わなかった。真冴もどうしてとは聞いてこなかった。その代わり、
「あら、あの人は」
と聞く。
「父さまは、今宵はお出かけじゃありませんか。新しい家の下見に行っていて。今夜はかあ様とわたし、ふたりきりです」
そう言いながら、志保の心は躍る。
 志保の腹の子が生まれたら、誠一郎はこの家を引き払ってどこか静かなところに隠棲しようと言った。この村には想いがありすぎるから、と。家族四人静かに暮らそう、と。それはそのままこの村で築いてきたものを志保のために捨てるということである。暮らしも質素になるだろう。それでも誠一郎は志保のことを想ってくれた。
 志保はつるべ縄を握る手に力を込める。溢れるこの温かな気持ちを懐炉のように胸に抱く。一瞬、夜気の冷気を忘れた。
「そうね、今はお前とわたししかいない」
 真冴の声を驚くほど近くに感じた。志保の体は凍ったように動かなくなる。声の調子が、いつもと違う。あまりにも真冴の口調は。
「か、かあ様」
「お前など、わたしの子ではない」
正気じみている。母に言われた言葉に志保の手から力が抜け、労力は無駄になり、ぼちゃんと桶が水底に落ちた。
「かあ様」
 志保は呼んだ。震える声は、空気の冷たさのためではないだろう。後ろにいるのは、誰。志保は後ろを向いた。
「かあ様」
志保は呼んだ。そこにいたのはやはり真冴だった。志保の綿入れを脱ぎ棄て、真冴は志保の真後ろに立っていた。真冴は能面のように無表情で、ただ目ばかりが真っ黒く憎々しげに志保を見ている。本物の母なのに志保にはなぜかしら、口調が違うかしら、目の前の真冴が母と重ならなかった。
がっ。
 両肩を思い切り掴まれ、一瞬、体が井戸に落ちそうになる。なんとか後ろ手に井戸の縁を掴み持ちこたえた。
「かあ様」
志保は呼んだ。真冴は手の力を緩めるどころか、さらに力を込める。踏ん張る足元の土がえぐれる。
「かあ様」
志保は呼んだ。志保を見る真冴の双眸は正気の光が宿っており、その瞳は我が子を見る母親のそれではなかった。
「かあ様」
志保は呼んだ。赤い瞳の片方から、涙が頬を伝った。この時初めて真冴の表情が嫌そうに歪む。
「赤い瞳っ。忌々しい、忌々しい」
呪詛のように真冴は言葉を繰り返す。真冴の力はとても強く、志保は逃れることが出来なかった。志保の頭の中は真っ白だった。何が起こっているのかわからない。わかっているのは、目の前にいるのが本物の真冴であるということだけ。真冴が本当の母であるから、わからない。何もわからないから志保は、すがるように母の名を呼び続けた。迷子のような気分でもあったかも知れない。
「かあ様、かあ様……」
 ぎゃあぁぁ  ぎゃあぁぁ
 どこかで猫が凄まじい声をあげた。
「かあ様、かあ様、かあ様、かあ様、かあ様、かあ様、かあ様、かあ様、かあ様、かあ様、かあ様…………っ」
志保は、呼び続けた。だけれど。
「この、化物がっ」
 志保の呼び声は、正気の真冴の心には届かなかった。
 ふっと体が宙に浮き、力がどこかに逃げていく。ぐるりと回る目の前。志保は意識せず、腹をかばった。ふいに人の顔が脳裡によぎる。平吉、およし、父、そして林蔵。志保の目に最後に映ったのは暗い虚空にぽっかり浮かぶ、白々しい三日月。三日月が、あの夜林蔵が見せた意地悪な笑いと重なった。その月の白の後は、闇、闇、闇。
 一瞬の、出来事だった。
――ああ、あの月は、人を嗤う。

 ぼぢゃんと何かが、水底に落ちる音がした――。



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