呼び続ける。



12*呼び続ける。

 井戸から人の声がすると騒いだのは、真冴だった。
 志保が死んでから、二、三日経った日のことだった。初めは赤子の喃語のような「あー」とか「うー」という声で、風の唸りにも聞こえたそうだ。しかし真冴はひどくおびえ、これを誠一郎に話す。もちろん気が触れた人間のふりをして、だ。
 その話を誠一郎はこう考えた。真冴の中の罪悪感が、ありもしない声を聞くのだろう、と。罪悪感が幻聴を生むのなら、そのうち自分にも罪が語りかけてくるだろう、自嘲の笑みを浮かべ誠一郎は真冴の話を聞いていた。
 それから数日の間、真冴は毎日、いつでもその声が聞こえると言った。しかも赤子が言葉を覚えていくように、その幻聴は日に日に意味のわかる言葉を発するようになると言う。こうなるといよいよ、真冴は本当に気がおかしくなった。今までのふわふわした気の触れ方ではなく、もっと切羽詰まったような雰囲気だ。三日も経つ頃にはすっかりやつれ、寝込んでしまった。自分の耳の周りを掻きむしりながらくり返すのは「呼んでいる、呼んでいる、呼ぶな」という言葉だけだった。
 しかし実際、その声は真冴にしか聞こえないらしかった。誠一郎にも聞こえないし、ほかの使用人、また村の人間も誰も聞こえないという。それを知ると真冴は、また一段とおびえた。誠一郎たちは二月後にこの家を出ることにしていたが、真冴は今すぐにでも、早く家を出たいと言った。

 真冴が初めて声を聞いた日から五日目。
 月のない、真っ暗闇の中、誠一郎は眠れぬまま布団の中で寝がえりをくり返していた。掛け布団の端がめくれると、するりと冷たい空気が温められた体に触れる。誠一郎はぶるりと身震いし、ぎゅっと目をつぶった。早く、眠りたかった。
 そのとき。それは突然誠一郎にも聞こえた。
――ねえ――
はっと目を開ける。声が、聞こえた。どくりと心臓が脈打ち、熱い血が体を一周めぐる。
――ねえ――
布団に入ってくる冷気のように、その声は誠一郎の心を冷やした。急激に冷えた体、皮膚の上を嫌な汗が伝う。
――ねえ――
ちょっと高めの、幼子のような声音。
「志保、か」
口の中が乾いていて、からからに干からびた声しか出なかった。娘の名を呼んだが、声がくり返すのは「ねえ」の一言だけだ。
 誠一郎にはこの声が幻聴だと思うことはできなかった。この声は己の罪が語りかけてくるものではない。だらだら汗を流しながら、誠一郎は悟った。この声は、自分の思考とは別の、きちんとした意思のある者の声だ。――この声は、きっと志保の声だ。
――ねえ――
感情の薄い口調で、呼びかけられる。返事のひとつでもすべきなのかもしれないが、その声を聞くたびに体は硬くなり動かせなくなる。心臓だけが早鐘を打つように動く。この呼びかけを毎日聞いているのなら、なるほど、真冴の気が本当におかしくなるのもわかる。
 誠一郎はなんとか目をつぶり、意識を眠りの中に落とそうとした。夢など見たくない。真っ暗な世界でとにかく、この声から逃れたかった。ねえ、ねえ、と聞こえる声を追い出すように、ぎゅっと目をつぶった。
 ――――――。
 少しの間、浅く眠っていたのだろうか。ぼんやりと目を覚ますと、声は聞こえなくなっていた。さっきまで勢いよく流れていた血が、今はとくとくと穏やかな音を立てている。だがしかし、あの声を夢だと思うことはできそうになかった。浅い呼吸を繰り返し、誠一郎は暗い天井を見つめる。あの声がこれから毎日、この家を出るまでの二月、聞こえ続けると言うのだろうか。いや、あるいは一生……。
 一筋、冷たい汗がこめかみを伝った。
――お、おお――
 なんの前触れもなく再び、声が聞こえた。静かな夜を震わせて、声が何かを言おうとする。落ち着いてきていた動悸はたちまち元に戻り、また誠一郎の体は動かなくなる。さっきまでの「ねえ」とは違う。声は確実に何か言おうとしている、何かを言おうとしている。何を言おうとしているのだ。
――お、おか――
聞きたくないのに声は心に直接響いてくる。さっきよりも鮮明に、はっきりと、息遣いさえ感じられるほど、近くに。
 声は何か言おうとしている、何かを言おうとしている。何を言おうとしているのだ。
 誠一郎には、わかった。声が何を言おうとしているのか。声は、呼んでいるんだ。
――おかあさん――
ぎゃあ、という悲鳴が聞こえた。おそらく真冴の声だろう。
 そして「お母さん」呼んだなら、次に、志保は呼ぶだろう。がちがち、誠一郎の歯が鳴った。
――お、と――
呼ぶな、呼ぶな。誠一郎は必死で両の耳を押さえ、布団にもぐりこんだ。呼ぶな、呼ぶな、呼ぶな。
――おと、お――
呼ぶな、呼ぶな、呼ぶな、呼ぶな、呼ぶな。
ただ、それだけを願った。志保に呼ばれるというのは、己が見捨てた娘に呼ばれるというのは罪を突きつけられるようで、怖い。
赦してくれ、赦してくれ、赦してくれ。
 だって、仕方がないじゃないか。失った者を守るにしては、失う物があまりに多かった。だから言えなかったんだ。仕方がないじゃないか。誠一郎は言い訳を並べた。
 誠一郎の懇願は叶わず、静かな呼び声を聞いた。
――おとうさん――
布団の中の真っ暗闇、その中にあって何故か、その声はより鮮明に鼓膜を震わした。
「やめてくれっ」
――おお、おお――
 止めてくれ、止めてくれ、呼ぶな、呼ぶな、赦せ、赦せ。お前は優しい子だったじゃないか、志保、苦しめないでくれ。
――おとう、さん――
誠一郎は叫んだ。声が出たのかはわからない。だけれど、叫んだ。心に直接届くその声を、噛み殺すように。
――おじぃ…………
 最後の一声を聞き終える前に、誠一郎は意識を失った。
 月のない暗闇だった。目を開けても閉じても変わらない、暗闇だった。


 誠一郎と真冴が屋敷を出たのは、それから三日も経たずしてだった。「まるで、逃げ去るようだった」と言ったのは、村の悪童どもだっただろうか。真冴の気は、本当に触れてしまったらしく、見ていてみじめになるくらいだった。
 誠一郎たちが早々に引っ越したのは、真冴だけでなく誠一郎も井戸から声を聞いたからだ。誠一郎は倒れこそしなかったものの、顔色が青白く軽く十は歳をとったように見えた。
 誠一郎たちの行先は、今となってはわからないし、家系が続いているはずもないだろう。一人娘の志保が、死んでしまったのだから。
 とにかく誠一郎たちが引越し、屋敷から人が消えた。
 家から人が消えても、井戸の中から呼ぶ声は聞こえた。だけれどその声を聞ける者は、村にはいなくなった。誰も彼も、その声を聞けない。
――ねえ、ねえ――
だから、返事もない。
――ねえ、ねえ。誰も、いないの――
それでも声は呼び続けた。返事はなくとも、誰かがいつか、答えてくれると信じて。
 井戸の底からでは屋敷に人がいないことさえわからないから、信じて、呼び続ける。
 今でも、いつまでも。


***


 名も知らない
 ただ胎のなかで、その温もりだけを
 覚えている
 母を呼んだ。
 母は、答えてくれなかった。

 どんなものであるかさえも知らない
 在るのかさえ
 本当のところはわからない
 父というものを呼んだ。
 父は、答えてはくれなかった。

 母が敬い、最後は慕った
 祖父を呼んだ。
 祖父は、答えてはくれなった。

 母が恋い、最期は恐れた
 祖母を呼んだ。
 祖母は、答えてはくれなかった。

 たった一つだけ、生まれる前に
 自分に向けられたことば。
 『数奇な、紫の瞳だ』
 誰の声かさえ
 わからない。
 誰か、教えて。
 ――――ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ……。
 呼んでみた。

 誰でもいいから
 答えてほしかった
 だけれど だけれど
 だれも
 答えてくれなかった


***


成仏した母の面影を求めて
どこかを彷徨(さまよ)う父の魂を求めて
誰かの返事を待ちわびで
今日も、志保の子どもは呼び続ける
今でも、いつまでも
呼び続ける――。

- 終 -



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