呼び続ける。



9*愛を、もういちど

「志保、志保ぉ。志保ちゃん」
 間延びした真冴の声が廊下に響く。
「なんですか、お母様」
志保がはにかみながら真冴の前に現れる。真冴は志保の姿を見つけ、若い娘のようにぱぁっと笑った。
「志保ちゃん。こっちおいで、髪をとかしてあげるから」
志保はちょっとの間、黙っていたがやがて気恥ずかしそうに返事をすると、母の元へ近寄った。
 廊下に母娘は隣り合って座り、真冴が志保の髪を梳く。廊下は初夏のさわやかな日差しと風のおかげで、たいへん心地よい。
「ほら、ほぉら。綺麗な髪ねぇ。志保ちゃん、志保ちゃん」
真冴は志保を愛撫し、髪をすくい上げ愛おしそうに言った。
 志保の懐妊を告げて以来、真冴は段々に心が平常から離れていき、今ではすっかり気がふれてしまった。志保を子ども扱いし、極端にかわいがる。それでも志保の表情が以前より数段明るくなったのを見れば、真冴の心が壊れてしまったのもあながち不幸とは言えない。
「おや、ふたりともここにいたのか」
 誠一郎が穏やかな表情を浮かべやってきた。志保の隣に座る。親子三人、庭の新緑をながめる。ふんふんと真冴が鼻歌を歌っている。言葉はなくとも気まずくならないこの雰囲気に、志保も誠一郎も心から嬉しそうに笑う。
 しばらくするとおよしがにこにこしながらお茶を持ってきてくれた。
「あぁら、およし。ありがとう」
ふわふわした口調で言い、真冴がお茶を飲む。誠一郎はその様子を見、およしに申し訳なさそうに向き直った。
「すまないね、およし。真冴がわがままを言うものだから、お前には苦労をかける」
すると、およしは見ているこちらが心配になるくらい勢いよく頭を振った。
「そんな、わたしは全然構いませんよ。何度言ったらわかっていただけるのです。わたしは本当に、これっぽっちも不満なんてないのですよ。大した距離でもありませんし。昼間の間は奥さまのそばにお仕えできるのですから。それは平吉さんも一緒です」
 真冴は気がふれたからと言ってほとんど手がかかることはない。だがひとつだけ困ったことがあった。家に住み込みの使用人を置きたくないと駄々をこねたのだ。昼間は普通に世話をされるのだが、夜になると突然、およしや平吉に「出ていけっ」と怒鳴りつける。そうなると家にいてもらうわけにもいかず、誠一郎は仕方なくふたりが屋敷の近くの家に居候できるように手配した。
「距離がなくとも、居候と言えばいろいろ気を使うことがあるだろう」
 なお謝ろうとする誠一郎を制し、およしは豪快に笑う。
「不自由も気苦労もありません。それに仮にあったとしても、お嬢さまのこんな幸せそうな顔を見ていたら、そんなもの吹っ飛ぶってものですよ」
そう言うとおよしは一礼してその場を離れていった。
 誠一郎はおよしの背に苦笑を向けた。最近では使用人も以前より明るくなったように思う。ふと志保を見ると頬を少し上気させ、白い歯を見せ笑っていた。
「志保、幸せか」
「はい」
笑顔を濃くし、志保は答えた。
「志保が幸せで、かあ様も嬉しいわぁ」
真冴が志保を掻き抱く。志保は笑い声をあげた。
 穏やかだ。どこまでも高い空と打ちたての綿のような真白い雲は、皆それぞれの心中を表しているようだった。


「志保、いるかい」
 誠一郎が呼びかけると、中から志保の返事があった。
「入るよ」
志保は廊下に面した障子を開け放ち、その向こうの庭を眺めていた。
「どうしたのです」
「少し、話があるんだ」
 声が上ずってしまった。誠一郎の心中が伝播したのか、志保の表情が少しだけ固くなる。志保の懐妊がわかってから小一カ月、誠一郎はあの日以来、再び志保と今後についての話をしていなかった。
「今、わたしも志保も……真冴もとても穏やかな関係を築いていると思うんだ」
「はい、日々がとても、楽しいです」
「でも、それだけいけないと思うんだ」
 志保の口元がすこし結ばれる。誠一郎はここ最近、ずっと考えていた。今の状態は確かにとても安定して見える。そう、見えるだけだ。志保を可愛がってはいるが、愛してはいない。これは志保の幼少期と同じではないだろうか。表面だけを可愛がり、志保の持って生まれた宿命に触れることを恐れるのならば。
「わたしたちは、志保、お前を愛したいんだ」
志保の体がかすかに揺れる。
「恐れからくる溺愛でもなく不気味さからくる敬いでもなくただ、愛したいんだ」
 誠一郎は志保の近くにより、腰を下ろす。
「志保、本当のことを言うよ。父さんも母さんもお前のことが、お前のその赤い瞳が怖かったんだ。母さんは父さん以上に怖かったのかも知れない。だから、その目に布を当てた」
志保は何も答えず、くちびるを強く噛んだ。誠一郎は胸がどくどくしてきた。ずっと考えてきたことをいざ言おうと思うと、くじけそうになる。逃げてはいけない。己を奮いたたせる。今、志保に言ったばかりじゃないか。志保が生まれてくるまで持ち続けていた感情。
 ――愛おしい、わが子よ。
志保自身をもう一度愛するためには。
「その布をとって、その瞳を見せてくれないか」
 え、と志保の口から空気が漏れる。
「その瞳で世界を、父さんや母さんを見ておくれ」
誠一郎は志保の頭を撫でた。
「その腹の子は産みなさい。悪かったね、あの時はひどいことを言ってしまって。父さんと母さんと志保、三人で育てていこう」
志保はさらに強くくちびるを噛む。噛んでいる場所が白くなった。
「志保」
呼びかける。志保の目にあてられた布が、じわりと濡れた。志保は頭のうしろに手をやり、次に、その布を解いた。
 どくりと、心の臓がひっくり返るように鳴った。十数年ぶりに見る娘の瞳。赤い瞳。晴れやかな赤ではなく、暗い影を呑んだような赤色。ほうっとため息が漏れる。志保の不安そうな視線に気づき、誠一郎は苦笑しながら言う。
「ふふ、血潮のような色だ」
志保が目を伏せる。ああ、いけない。傷つけてしまったのか。たしかに赤い瞳は血を固めたようだ。だがそれは悪い意味ではない。涙に濡れるその瞳は、
「だけれど、きれいだ」
 目頭と鼻の奥が熱くなる。涙がこみ上げ、頬を伝った。ぐずと鼻をすすり、誠一郎は志保をまっすぐに見つめた。赤い瞳を持っていようとなんだろうと。
 ――愛おしい、わが子よ。
誠一郎は志保の細い体を掻き抱く。
「志保、生まれてきてくれてありがとう。お前は、わたしたちにはもったいないくらいの自慢の、娘だよ」
志保が生まれた瞬間に心に満たさなければいけなかった感情。遅くなってしまったけれど、やっと言えた。
「お父様、うれしいです。うれしいです」
胸の中で、志保が泣く。誠一郎も涙と鼻水が止まらない。
 これからは全てがあるべき形に戻って行く。誠一郎は心の底からそう思った。志保のことを愛せると、本気で思った。
 初夏のすがすがしい風が、涙に濡れる頬を撫でていった。



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