呼び続ける。



8*父とむすめ

 梅雨時のじっとりとした雰囲気は、時の流れまで粘性に変えるのか。時が経つのが異様に遅く感じられる。永久(とこしえ)と錯覚する長いながい時間、誠一郎はじっと目をつむり、腕を組み、椅子に座っていた。
 産婆が来たとおよしが言いにきたのは、ずいぶんと前な気がする。産婆とおよしは平生から別して付き合いのある仲であり、屋敷に呼んでも不審はないだろう。だが、もし万が一のことがあれば、そんな云々はすべて無意味だ。もし、志保が。もしも。
 屋敷中が静まり返っている。じっと息をひそめて、少しでも声を出したら壊れてしまいそうな沈黙を守っている。
「……雨、か」
なんとなく水の匂いを増した空気を感じて目を開けると、音のない霧雨が、さわさわと地面を濡らしていた。誠一郎の口から、自然とため息が漏れた。この憂鬱が、雨のためだったらよかったのに。
「旦那さま」
 そのとき、およしが障子越しに部屋の前に立った。後ろには産婆の影も見える。返事をすると、遠慮がちに障子を開きふたりが入ってきた。
「どうもお手数おかけしました」
誠一郎は産婆に頭を下げる。
「いえいえ、そんなことないですよ」
 産婆が少しぞんざいな口調で答えるが、これはこの女生来のもの――または職業により身に付いたもの――だから誠一郎も気にしない。むしろ気になるのは、普段強気そうな表情をしているこの産婆が、今はやや固い顔をしていることだ。ずっと昔から産婆をやっている七十近いこの婆は、誠一郎を取り上げた婆でもあるのだ。いくら誠一郎が村一番の分限者であるからといって緊張するということはあるまい。
「それで、志保の具合はどうですか」
 なるたけ平静を装った。微笑さえ浮かべた。産婆も、引きつった笑みを浮かべる。およしだけが今にも卒倒しそうなほど表情を硬くし、数瞬の静けさ。
「……あんたもついに……祖父さんだよ」
産婆が言った。
 やはりそうか。そう思ったきり誠一郎の目の前も頭の中も全部、真っ白になった。頭にくる、頭にくる、頭にくる。自分が積み上げてきたもの、先祖が積み上げてきたものすべてを、志保は踏みにじろうとしている。その思いだけが体中をめぐり、自然と足が動いていた。
 ドンドンと廊下を踏み鳴らし、志保の部屋へ向かう。荒く襖を開くと、布団の上に志保が座っていた。志保がはっとしたように誠一郎を見る。誠一郎は声もかけずに志保に歩み寄ると、その横面をはたきつけた。
「この阿婆擦れがっ」
もう一度、頬をはたく。志保は何も言わず赤くはれた頬を押さえ、歯を食いしばっている。もう一度振り上げた手に誰かがすがった。
「おやめください、おやめください、旦那さまっ」
 およしだ。こういうときでも人目を気にするのだろう、誠一郎の体から自然と力が抜けた。それでもおよしは誠一郎から離れず、荒い息をぜいはあしている。誠一郎も息が上がっている。志保は両手で顔を覆い、嗚咽していた。
 しばらくして、産婆がやってきて、誰にとなく言う。
「親子ふたりで話すのも大切だろうよ」
その言葉を合図にするようにおよしは誠一郎の体を放した。
「旦那さま、どうかお嬢さまに手をあげないでください。あげないでください」
懇願するおよしの視線から逃げるように、誠一郎は顔をそむけた。産婆に急かされ、およしは部屋を出て行った。
 誠一郎は布団の上でうずくまる志保を見下ろす。志保の肩は小刻みに震えている。さきほどの激情とは違う、もっと、黒く濁ったヤニのような怒りがこみ上げてくる。
 雨がびゃあびゃあ音を立て降り始めた。
 志保の肩は小刻みに震えている。
「腹のその子どもは、おろしなさい」
己の感情を無理やり抑えつけ、なるたけ冷静な口調を務めた。今なら、まだ、間に合うか。誠一郎の思考は産婆に腹の子をおろす段取りをつける方に移った。
「いやです」
 しかし志保はかぶりを振った。誠一郎は頬がぴくりと動いたのが自分でもわかった。
「いやだ、だと」
「そうです、この子は、産みます」
志保が親に、誰かに反抗するとは夢にも思っていなかった。怒りよりも先に、驚いた。
「産んだらどうなるか、わかっているのか」
 誠一郎は徐々に怒りを思い出し、口調に思い切り込めて言った。志保が親の反対を押し切って子を産むというのなら。
「家を出て行けとおっしゃるなら……そうします。ひとりでも、この子を育てます」
志保が自分の腹にそっと手を当てた。
「甘い考えを起こすな。お前のような娘がひとりで子を育てて行けるほど、世間は甘くない。あきらめなさい」
「いやです」
「志保っ」
 誠一郎は叫んだ。どうして、今の志保はこんなにも聞きわけがないのか。今、というだけではない。志保が林蔵の子どもを身ごもったこと自体、分別のない行いだ。これは、なんだ。
「私たちに対する当てつけのつもりか」
ぴくりと志保の肩が動く。やはり、そうか。
「……当てつけ。どういう意味ですか」
白々しい。
「私たちに不満があるから、下男なぞに手を出したのだろう。……馬鹿な真似を」
誠一郎は言葉を選ぶことをせず、言った。
 林蔵に志保を任せたのが間違いだった。誠一郎は林蔵のことを気に入っていたが、それはあくまで下男としてであり、婿云々の話ではない。林蔵を志保の話し相手にさせたのは、林蔵が無害な男だと思ったからであり、まさか志保を孕ませるためではない。誠一郎は舌打ちした。
「林蔵さまを悪く言わないでください」
志保がはっきりした口調で言った。
 癪だ。目の前がぐらぐら揺れるほど、体が熱い。立っているのも危うい。また志保に手をあげてしまいそうだ。
「さっきから、林蔵さま、林蔵さまと。本気で林蔵を想っていたとでも言うのか!」
「わたしは林蔵さまを愛していましたし、林蔵さまもわたしを愛してくれました。わたしたちの愛は、愛を超えたのです」
志保は叫び、立ち上がり、誠一郎と視線を合わせるように少し顔をあげた。
「わけのわからぬことを。馬鹿な娘だ。林蔵も愛してくれただと。違う、あの男はお前の体が目当てだったに違いない。お前だってそれに気付いたのだろう」
だから。お前は――。言いかけた言葉を、志保がさえぎった。
「違う! 違います」
「ならどうして、林蔵を殺した」
 水を打ったように、静寂が父娘を呑みこむ。しまった、と思ったときにはすでに遅い。言ってしまった。誠一郎は心の中の最も大切に守らねばならないものを、己の猜疑の牙で傷つけてしまったということに気付いた。こみ上げてくるこの気持ちは、きっと喪失感だ。己は人から善人に見られているという矜持は、崩れてしまった。
 部屋の中が静かになった分、外の雨音がよく聞こえる。
 志保の体が、沈む。座り込んでしまった。
「わたしが、林蔵さまを……殺した」
しばらくしてから発せられた志保の声は、糸のようにか細かった。夢中の言のように曖昧な口調だった。
「ひどい」
ぽつりとこぼれたその一言が幾つもの罵倒より深く心にのしかかる。
 だが誠一郎は娘を疑うことを止めなかった。本当は今すぐにでも土下座をすべきなのだろうが、矜持の崩れた今、誠一郎を止めるものはなかった。萎えかける心を奮わせる。人としての心を捨ててでも聞かなければいけない気がした。林蔵が死んだ時から持ち続けていた疑念。
――志保、おまえが林蔵を殺したのか――。
答えを出すのは、今しかない。
「……林蔵は瞼を縫い閉じて死んでいた。普通の死人じゃない。第一、自分でこんなことをする理由がないではないか」
「わたしの元に毎日見舞いに来てくださるたび、お父様はわたしのことを疑っていたのですか。かけてくださった言葉すべてが、偽りだったのですか」
 志保は誠一郎の問いに答えず先程からと同じ口調で言った。
「志保、答えなさい」
「嬉しかったのに……」
切実な口調。志保のこの言葉を最後に、誠一郎の周りから音が消える。雨の音も、己の鼓動も、そのほか微細な物音も、すべて。腹の底から溜め息のように息を吐きだすと、もう立っていられず、誠一郎は床にへたりと座り込む。
 何も、考えられない。
 無音の中、本能は己の過ちにおののいている。娘を疑ってしまった。たとえ万人が黒といえども親だけは守ってやらねばならないその心を、あろうことか親自身が疑い、傷つけてしまった。猜疑と義務にまみれた言葉を一心に信じてくれた娘をどうして疑ってしまったのか。今ならわかる、志保は林蔵を殺していない。志保を殺人者に仕立てたのは、自分のこの歪んだ心だ。
 何が一番、こわい――。
それは己の心だ。最初からわかっていた。わかっていたのに、それを認めるのが嫌で、志保の赤い目を怖いと思い込もうとしていた。
 志保の言った通り、所詮全てはまやかしだったのか――。
「ちがう」
誠一郎は思わずつぶやいた。違うはずだ。真冴が身ごもった時に感じた気持ちは今でも、些少なりとも残っているはずだ。
「志保」
 誠一郎は立ち上がった。何か言わねばならないのだろうが、上手い言葉が出てこなかった。
「腹の子のことは、今はいい」
志保がはっと誠一郎を見た。
 そのまっすぐな心に耐えられなくて、誠一郎は踵を返す。
「養生しなさい」
最後にそう言うのが精いっぱいだった。後ろから、志保の嗚咽が聞こえ始めた。数歩歩めば、その嗚咽は雨音に消えて聞こえなくなった。


 志保の部屋を出た後、誠一郎は真冴の部屋へ向かい、志保の懐妊を告げた。その途端に真冴は倒れてしまい、また一時、屋敷の中はざわざわとする。
 ――ざわざわにまぎれて、狂気は確実に芽吹いていた。
「……おまえまで倒れてしまって。志保のことはまた今度ゆっくり話そう。今は何も考えず、体を休ませなさい」
 誠一郎は真冴の部屋を出、歩き始める。布団の上で起き上がり、下を向いている真冴は何も答えなかった。
 ――びゅんびゅん吹く風と、地面をぬかるませるほど強い雨にまぎれて。
「もう、終わりよ。終わりよぉ」
 真冴がしわがれた声でつぶやく。部屋を出て行った誠一郎はもちろん、雨風の音のせいでとなりに控える下女にさえ聞こえなかった。
 ――ぐらぐらと危うげに揺れる弥次郎兵衛の片腕に狂気が宿り、重くなる。
 降り始めた雨は雷を伴い、ここ数十年を見ても稀に見ぬ大雨となった。
 ――片側だけ重くなれば、均衡が崩れてしまうから。
 滝のような雨に打たれても、真青な紫陽花の色は褪せなかった。それどころが煙る景色の中で、より一層青色が濃くなったようにも思える。
 ――もう、弥次郎兵衛は倒れることしかできない。



inserted by FC2 system