呼び続ける。



7*真青な紫陽花

「神経の使い過ぎによる、ただの疲れでしょう」
 志保の脈を取り、心音を聴き、熱を測ると医者は、「養生すれば良い」と言い残し帰って行った。
 志保が倒れたので、林蔵の葬儀は慌ただしく終わった。もともと流れ者であった林蔵だ。こう言っては悪いが経をあげてやっただけでも感謝してもらうしかないだろう。もし林蔵が本当に自殺だったのなら、という一文を誠一郎は呑みこんだ。
 葬儀も終わり、志保の体も大事ないとわかると、邸の中はひっそりとした静寂に包まれた。林蔵の遺体は寺に運ばれ、近いうちに埋められるだろう。もう、見ることはない。雨はいつの間にか止んだが雲は流れず、不愉快な湿度が残る。
 誠一郎は自室の庭に面した障子を開け、濃霧にぼんやりとけむる庭を眺めていた。紫陽花が、真っ青だ。あの紫陽花たちは昨日もあのように青かっただろうか。昨日までと今日の間に、本来あるはずのない確実な境界ができた気がする。もう戻れない、と思わせる何か。
「旦那さま」
 誰かに呼びかけられ、ふと夢想から覚める。振り返ると、廊下に立っていたのはおよしだった。およしは何かをはばかるように声をひそめて言った。
「志保お嬢さまが目を覚まされました」
「そうか」
誠一郎はまた意識せずにそう答え、部屋を出た。
 志保の部屋へ向かう。後ろからおよしが付いてくる。およしも平吉同様、住み込みで働いている五十半ばの女だ。夫も子もないためか、よく志保を可愛がってくれる。志保の部屋の前に来る。ぴっちりと襖がしまっており、すばやくおよしがそれを開けた。
「志保」
敷居越しに呼び掛ける。「はい」と、志保の弱々しい返事を聞く。
「少しの間、大丈夫かい」
「はい」
 誠一郎は部屋に入った。後ろで、およしが静かに襖を閉める。志保と二人きりになる。志保の部屋に入るのは久しい。女の子の部屋というのがどういうものなのかよくわからないが、それでも、十九の娘にしては地味な色調でまとまっている方なのだろう。唯一、棚に置かれた人形の着物の赤が異様に目に染みた。
 部屋の真ん中に敷かれた布団に志保は寝ている。無理に起き上がろうとする志保を手で制する。
「具合はどうだい」
「はい、大丈夫です」
志保の顔は蝋のように真白く、かたい。大丈夫というのは、本意ではないのだろう。
「倒れたのは疲れすぎだからだそうだ。ゆっくり休めば大丈夫、心配はいらない」
誠一郎は志保がすぐに「はい」と答えるだろうと思っていた。が、じっさい志保が「はい」と返事をするまでに数秒の間があった。
 誠一郎は何気なくを装い、聞いた。
「なにか心配なことでも、あるのかい」
「……いいえ、ありません」
「……そうか、ゆっくり休みなさい」
「はい」
これを切りにして父娘の会話が途切れる。どうにも居心地が悪くていけない。誠一郎は早々に立ち上がると襖に手をかける。
「志保」
 己でもあまり意識せず、名前を呼んでしまった。いたわりの言葉をかけるためではない。己の中に膨らんでいくこの疑念に答えを与えるため。名を呼んでしまったけれど、
「ゆっくり休みなさい」
それを聞くのが恐ろしくて、繰り返したのは心のこもらぬ言葉。部屋を出、襖を閉める。もう、およしはいなかった。
 早足に自室へ戻りながら、誠一郎は考える。いつからこんなに歪んでしまったのだろう、この家族は。志保の赤い瞳が歪めたのか、それとも。
 娘を人殺しではないかと疑い、生まれる沈黙に居心地の悪さを感じる。
「いつから歪んでしまったのだろうね、私のこころは」
誠一郎は空を見上げ、つぶやいた。いまだ雲は厚く、空からの返事はない。


 志保の床はなかなか上がらなかった。二、三日の間ずっと寝ているのに、快方に向かわない。誠一郎も毎日志保の様子を見に行くが、これといってしてやれることはない。この二、三日の間に、林蔵の遺体は埋葬された。結局、誰一人として林蔵の瞼の内を見たものはいなかったわけだ。
 誠一郎は今日も、志保の様子を見に行く。それが、親らしい行動なのだろう。
「志保、気分はどうだい」
「だいぶ、いいです。心配おかけして、ごめんなさい」
 ここ数日くり返されるやり取りは、今日も変わらない。
「たまには、外の空気を吸った方がいいかもしれない」
誠一郎は、庭に面した廊下の障子を開けた。湿っぽいが真新しい空気が肺に入ってくる。志保は体を起こし、庭をじっと眺めている。目には布が当てられたままであるのに。
「紫陽花は、」
庭を見ながら、志保が言う。
「紫陽花はいつの間に、あのように真青になったのでしょう」
 そう言われて、誠一郎も庭を見る。確かに紫陽花は憂鬱そうな青色を湛え、咲き誇っている。だが誠一郎にはその青よりも、志保の赤が怖かった。見えるはずのない景色を見るそのこころが、怖い。そして、志保を怖いと思ってしまう自分がどうしようもなく情けない。
 今日こそは、聞こうか。そう思うと胸がどくどくと早く脈打ち、苦しくなる。しかしこのまま疑念を胸に抱えたまま志保に接していたら、自分の気がおかしくなってしまうだろう。誠一郎は動悸を無理やり抑え、口を開いた。
 しかし、やっと決心した言葉は声にならなかった。
「う。」
誠一郎の声が出る刹那、志保が口元を押さえて立ち上がり、どこかへ駆けて行った。
「志保っ」
誠一郎は思わず叫ぶ。ざぁっと血の気が引くのを感じた。娘に対し、新たに生まれる疑い。それを勘違いだと確かめるため、もう一度直前の志保を思い出す。
 だが、それは疑いを深めるだけだった。今志保は、口のほかに腹も抑えていなかったか。腹を気にするような素振りじゃなかったか。
「まさか」
呆然とし、自然と言葉がこぼれた。
「旦那さま、どうなさったんですか」
 さっきの叫び声を聞きつけたのだろう。およしが慌ててやってきた。
「およし」
およしを見る。およしがぎくっと少し身を引いた。今の自分はそんな怖く見えるのだろうか。だがそんなことに構ってはいられない。
「産婆を呼べ」
 自分の声音が固い。およしの表情もみるみる固くなった。しかし、すぐに元のなんともないない顔に戻ると返事をして、消えた。志保はまだ戻ってこない。戻ってきた志保に、大丈夫かの一言でもかけてやるのが親というものだろう。
 それをわかっていながらも、誠一郎は志保の部屋を後にした。志保が戻ってきたら、自分はいたわるより先に、怒鳴りつけてしまうかもしれない。そんな非情さを己で己の前に突きつけてしまうのが、誠一郎は嫌だった。
 自室へ向かう道すがら、目に入った真青な紫陽花が、なぜかしら林蔵の姿と重なった。



inserted by FC2 system