呼び続ける。



6*あま音と記憶

 激しい雨音の中でも坊主の読経はよく響いた。
 林蔵の死から半日としないうちに、誠一郎は坊主を呼んだ。あの、林蔵が一時身を寄せていた寺の、半分惚けた坊主だ。八畳の座敷にいるのは誠一郎と真冴、志保、それと平吉やおよしをはじめとする使用人だけ。淋しい弔いは、しずしずと進む。
 耄碌(もうろく)していても人生の中に染み込んでいるのか、坊主の声には深みがある。遠くから呼びかけてくるような、耳元でささやかれるような不思議な響き。 誠一郎はその声を、ぼんやりと聞いていた。
 頭の中に雨音と読経と静寂が反響し、目の前がくらくらする。林蔵の死を知ったとき皆それぞれに驚いた様子だったが、今は誰も沈痛そうな面持ちで坊主の経を聞いている。横に並ぶ志保も口をきゅっと結び、両手を膝の上にそろえている。
 志保。誠一郎は心の中で娘の名を言った。さっきから、嫌な気持ちが心中に渦巻く。不思議な声音の読経に誘われるように、誠一郎はほんの少し前の記憶をたどっていた。



 雨が降り始めたため、誠一郎の遺体は屋敷の中に運ばれた。ざあざあと雨の音ばかりがうるさく、部屋の中の静けさを際立てる。部屋にいるのはさっきまで庭にいた面々と、あと平吉が座敷の隅にちょこんと座っている。沈黙は増すばかりで、話すことが咎であるかのような雰囲気がある。
 そのためか駐在役人が口を聞いたとき、一瞬場の空気が凍り付いた。駐在は嫌そうに顔をしかめたが、おおげさに咳払いをして言葉を続ける。
「さて、この林蔵さんというのは、どうして亡くなったんだろうね。自分で首をくくったんだとしたら……おい、平吉さん、何か心当たりはないかい?」
いきなり名指しされ、平吉はびくりと肩を揺らした。一拍間を置いてから、怖そうに首を横に振る。
 誠一郎も、心当たりはない。白い布団に寝かされ、林蔵は青白い死に顔を天井に向けていた。その目は、もちろん、糸で縫いとめられている。
「なぁ、自分でやって、こんなにきれいに縫えるもんなのかい」
 顎の無精ひげを撫でまわしながら、駐在役人が言う。誰、とは名を呼ばなかったが医者が答える。
「痛いし、怖いでしょうねぇ。でも、できないことはないでしょう」
「ふーん、そうかい。俺には考えらんねぇけどなぁ」
不満そうに駐在が言う。
 しかし誠一郎は内心で少しほっとした。そうだ、医者の言うとおり自分の瞼を自分で縫うことはできる。とても、常人のすることではないけれど。誠一郎の中に渦巻く嫌な予感が、ちょっとだけ小さくなる。林蔵は、自殺だ。
「まぁとりあえず、糸を抜きますかねぇ」
 頭をがりがり掻きながら、駐在役人が言った。誠一郎は思わず口をはさむ。
「どういう了見で」
「このままじゃ、かわいそうでしょう」
誠一郎の声音がいやに固かったのに驚いたのか、駐在は目をぱちくりさせ答えた。誠一郎ははっとする。今自分で認めたはずの事実を心の底では否定している、ということに気付いた。林蔵は誰かに殺されたと思っている自分がいることを、誠一郎は恐怖した。そんなことを思っているから、駐在役人の人間らしい感情から出た言葉を疑ってしまうんだ。
「ああ、そうですね。すみません、突然のことで少し気が立っているようです」
 誠一郎はそう言って少し笑った。わからぬように皆の顔を盗み見る。誰か誠一郎と同じ疑念を抱いている者はいないか。……いないようだ。いたとしたら、いたとしたら己はどうするだろう。
「こういうのはお医者に任せよう。お願いしますよ」
駐在にこう言われて、医者が林蔵の遺体に手を伸ばす。
 誰とは言わず、いや、全員が、ごくんと息を呑んだ。林蔵の瞼が開かれる。開かずの瞼が、開かれる。それは一種、禁忌を破りわざと聖域を蹂躙するような薄暗い快楽に似ていた。医者の指が林蔵の顔に触れようとした瞬間、
「お待ちください!」
突如、女の声がしたと思うと障子を開け志保が入ってきた。
「志保」
 誠一郎は思わず大きな声を出してしまった。しかし志保はその声に耳を傾けず、無理に医者と林蔵の間に割り込み、医者と向き合うようにして座った。
「ど、どうしたというんだね、志保ちゃん」
困惑顔で医者が問う。困惑しているのは医者だけではない。志保の登場によって、誠一郎の嫌な予感が一気に膨れ上がった。
「林蔵さんの目の糸を、抜かないでいただきたいのです」
登場の仕方こそあらあらしかったものの、志保の声は至極落ち着いていてはっきりしていた。
「志保ちゃん、どうしてそんなことを言うんだい。このままじゃ林蔵がかわいそうじゃないか。三途の川の渡し場で、迷っちまっていけないよ。さあ、死人なんてあんたのような若い娘さんが見るものじゃない。言い方は何だが、引っこんでな」
 駐在がいさめるように言う。その声に多少のいぶかしみが含まれているように聞こえるのは、誠一郎の気のせいだろうか。
「駐在さん」
志保がすいっと駐在のほうに顔を向ける。
「林蔵さんは亡くなられました。このように、自分の目を縫い閉じて」
「あ、ああ」
「それは林蔵さんが死んでもなお、自分の瞼の内を人に見られたくなかったからにございましょう」
 志保はここで一度言葉を止める。布でおおわれた瞳で場にいる全員を順々に見ていく。妙な迫力のある志保の視線に、みんな少し身を引いた。最後に志保はまた駐在に視線を合わせると、言葉をつづけた。
「ならば縫い閉じられた瞼、開かぬのが故人の遺志を尊重するということにございませんか」
そう言われると、なんだか、誰にも反論できない響きが志保の言葉には宿っていた。
 誠一郎は既視感に襲われた。いや、違う。志保のこの有無を言わせぬ雰囲気、誠一郎は知っている。二年ほど前、志保が林蔵を雇えと言ったときと同じだ。誠一郎は予感する。志保のこの物言いが引き寄せるのは、決していい結果ではない。志保の言葉を否定しなければ。志保の言葉に構わず、林蔵の眼を開かなければ。そうしなければ、皆が不幸になる。娘を疑う醜い自分の心を否定するため、志保の言葉を否定しなければいけない。
 だけれど、抗えない。誰も抗えない。抗えなかった。
 志保の言葉を最後に、誰も押し黙り、雨の地面に当たって弾ける音ばかりが部屋の中を満たしていく。
 誠一郎の耳には、その雨音さえ徐々に遠くなっていく。無音の世界で、志保の姿だけを見つめる。心にたまっていくこの疑念。親心からはかけ離れたこの疑念。消し去ろうにも、誠一郎は、その術さえ知らない。心の内で呼びかけたところで、届かない。だが、届かないからこそ、思考できる。
 志保、おまえは林蔵を殺したのか――。



 志保、おまえは林蔵を殺したのか――。
止まない雨と絶え間ない読経の末の追憶は、最終的にその疑問で幕を閉じた。
「あなた、大丈夫ですか」
真冴が極力声を抑えて、聞いてくる。自分では平静を保っているつもりだったが、思いのほか追憶に心を埋めていたらしい。そんなに変に映っていたのだろうか。
「真っ白な顔をしていますよ」
そういう真冴の顔色もだいぶ悪い。生来肌色の白い女だが、今日は青白い。大丈夫だという意味を込めてうなずくと、真冴はもう何も言ってこなかった。
 真冴とこのような会話をしたのは久しぶりだと、思った。
 誠一郎は横目にちらりと志保を見る。誠一郎、真冴、志保の順に横に並んでいるのできちんと見ることはできないが、志保は変わらずきっと口を結んでいた。
 しかし。その矢先。
 ふと、志保の体が前に揺れた。
「あっ」
声を出したのは誰だろう。一瞬後には志保が床に崩れ落ちた。どん、と鈍い音がした。数秒遅れて、読経が止む。坊主が振り向く。一、二、三、四、五……流れた沈黙はどのくらいだろう。
「志保っ」
真冴のつんざくような声を合図に時は動き出す。
 しかし誠一郎の時間は止まったままだ。どたどたと志保のもとに駆け寄る人の足音も、わあわあと騒ぐ人の声も、すべて、雨の音に呑まれていく。これは現実からの逃避であるのか。
 とにかく、誠一郎は雨の音がうるさくて仕方なかった。

 ざあざあ、ざあざあ。煩い。



inserted by FC2 system