呼び続ける。



5*くずれる安寧

 日々は安寧のうちに過ぎていき、憎しみの渦巻いたとある夜から、ふた月ほどが経った。
 庭の桜はとうに散り、今、気だるげな梅雨の庭をひっそりと彩るのは紫陽花。花時を謳歌する紫陽花はまるで、赤や青や、紫のぼんぼりを庭に飾り立てているようだった。
 そんな安寧の日々はある日突然、歪み朽ちる。



 そのとき、誠一郎は自分の部屋で身支度をしていた。黎明の薄白けた光が、障子越しに射し込んでくる。その清らかな朝日を見ていると、ほんの少しだけ誠一郎の心はほぐされた。
 一通りの支度を終え椅子に座ろうとしたとき、「わぁ」という男の叫び声を聞いた。ぴたりと動きを止め、耳を澄まし、考える。今のは、家の雑用をしてくれている平吉の叫び声じゃなかっただろうか。いやしかし、普段もの静かで柔和なあの還暦過ぎの男が、あんな大声を出すなんて尋常のことじゃない。
 声のした方へ行って平吉になにがあったのか問いただしてみようと思ったとき、声の主の方から誠一郎の元へやってきた。ドダ、ドダと廊下を鳴らし、
「だ、旦那さまっ。旦那さまっ」
平吉が叫ぶようにして誠一郎を呼ぶ。平吉のこの様子、ますます尋常じゃない。
 何が起こったのかわからないのに平吉の様子に感化されたのか、誠一郎の肌の柔らかい部分がぞわり、と粟粒立った。
「どうした、平吉」
答える声が思わず上ずる。
 部屋の前に平吉の影がやってきて、勢いよく障子を開けた。
「旦那さまっ」
平吉は目を見開き、額にはうっすらと汗さえ滲んでいる。だのに顔色だけがやけに青白く、喋ってもいないのに歯の根が合わずかちかちと音がした。
 荒い息を整えることもせず、平吉は事を告げた。
「林蔵さんが、死んでいます」
「そうか」
と、誠一郎は答えたが、意識してのことではない。なんとなく、反射でこう言ったに過ぎない。
 何故か誠一郎は、爺と孫ほども年の離れた林蔵に「さん」をつけて呼ぶなんてやっぱり平吉は莫迦丁寧な男だなと思い、そういえばさっきより空模様が怪しくなったんじゃないか、と思った。
 取りとめのない誠一郎の一瞬の思考は、
がぢゃん
という、何かの割れる音で断ち切られた。びくっとし音のした方を見れば、廊下には志保が突っ立ている。だらんと下げた手には盆を持っており、廊下には湯のみが割れている。誠一郎に、お茶を持って来てくれたのだ。最近では、このときばかりが父娘の会話であった。
 表情のない志保の顔を見て、誠一郎はふと正気に戻る。平吉に向き直ると、
「林蔵が、死んだのか」
と聞き返した。平吉が、うん、と頷いてから「そうです」と答える。幾分か落ち着いた平吉の目じりにはきらりと涙が滲み始めていた。
 誠一郎は、どうして、とは聞かなかった。どうして林蔵が死んだのか。すぐそばに志保がいるというのがもっぱらの理由だったし、誠一郎自身あまりに急な林蔵の死を咀嚼しきれていない、というのもあった。
 ちらりと志保を見る。志保の顔は白磁のように白く、ぴくりとも動かない。泣くでも驚くでもない志保の姿に、誠一郎の中に一抹の不安がよぎった。その不安に駆り立てられるようにして、嫌な――確信めいた――予感が心を占めた。
 林蔵は普通に亡くなったのではない気がした。



 誠一郎の予感は、当たる。林蔵は庭の梅の木に荒縄を通し、首を括って死んでいた。十中八九、自殺だ。誠一郎は平吉と下女のおよしをそれぞれ走らせ、駐在役人と医者を呼びに行かせた。
 小太りの医者は小走りでやってきた。その顔は平生よりひきつっているように見える。遅れること数分、誠一郎が門の近くで待っていると着流しに羽織を着、懐手などして悠長にやって来る駐在役人が見えた。所作は悠長だが、駐在の顔は明らかに動揺を隠せていない。
 門の数歩手前まで来ると我慢できなくなったのか、走って誠一郎に近づいてくる。ことさら声を沈めて、駐在が問うてくる。
「本当ですか」
誠一郎は頷いた。
「はい、お手数をおかけしてすみません」
誠一郎は辺りを窺い、誰もいないのを確認してから、
「おそらく自分で首をつったのだと思いますから」
とだけ言い、歩き始める。後ろを駐在がついてくる。
 誠一郎は内心で舌打ちをした。早朝から駐在を家に呼んだなんて、外聞が悪い。いくら駐在が散歩中に立ち寄ったように見せかけたとしても、普段から別して仲良くしているわけではないのだから、どこかに不自然さが残る。誠一郎はもう一度、心の中で舌打ちした。
 梅の木の前には医者がひとりでおろおろとしていた。正確に言えばもうひとり、林蔵の遺骸がぶらん、とぶら下がっているが。
「あぁ、駐在さん。遅いじゃありませんか」
医者が駐在の顔を見て、ほっとした表情になる。誠一郎は医者に、林蔵の遺体の周りに誰か――特に真冴と志保――が近づかないよう見ていてくれと頼んだのだが、やはり心細かったらしい。
 駐在は真面目な顔つきになり、林蔵の遺体やらその周辺を調べる。うつむいた林蔵の顔をのぞき込んだとき、駐在が「ひゃあ」と妙な悲鳴をあげ顔をそらした。その声に驚いて誠一郎は一歩後じさり、医者は駐在の元へ駆けた。ここが、平生から死人を見ている者と見ない者の違いだろうか。
 医者も林蔵の顔をのぞき込み、薄気味悪げな顔をした。一体、林蔵の顔が何なのかと気になったが、とてもじゃないが見に行く気にはなれない。そのとき駐在が、
「よし、とにかく仏さんを下ろしてやろう。このままじゃ、雨に濡れちまう」
空を見上げながらこう言った。つられて誠一郎も空を見る。確かに梅雨時の雲はいつの間にか太陽を覆い、墨を混ぜたように黒く、鉛を呑んだように重苦しいものに変わっていた。この様子じゃ、すぐに降り出すかもしれない。
 誠一郎も死体を下すのを手伝った。できれば勘弁してもらいたかったが、平吉に駐在と一緒に帰ってくるなと言ったのは自分なのだから仕方がない。この時間、家にいる男手は住み込みの平吉と林蔵だけで、まさか林蔵の死体を下すのを林蔵にやれと言ってできるわけがない。
 背が高いという理由で、誠一郎は林蔵の脇に手を入れ持ち上げる役をやらされる。小太りの医者が両足を抱き、駐在は木に登って縄を解く係だ。生前、骨と皮ばかりだと思っていた林蔵の体は、死人になることで重みを増すのか、結構重い。着物越しにも何となくひんやりとする体。むくんだように張りのない死人の肌に己の指が呑まれていくようで、誠一郎は唇をかんだ。
「よし、縄を解きますからね」
 駐在がぶっきら棒な口調で言うと、直後に林蔵の体がズンと重くなり誠一郎は数歩後ろによろけた。なんとか持ちこたえ、そっと林蔵を地面に寝かせる。そのとき初めて誠一郎は林蔵の死に顔を見た。
「ぐっ」
と思わず、声が漏れる。ざわわ、と体中を悪寒が駆ける。
 林蔵の死に顔は実にきれいなものだった。肌色と唇の色が生きているときより白いが、表情自体は苦しいでも辛いでもなく、無表情だった。誠一郎の脳裡に、さっきの志保の姿がちらりとよぎった。
 しかし林蔵の死体には一点だけ、不可解で不気味な所があった。目だ。
「仏さんにこう言っちゃぁ何だが、薄気味悪いなぁ、これは」
駐在が苦虫を噛み潰したような顔で手を組んだ。誠一郎も、同じ気持ちだった。おそらく、医者も。

 林蔵のまぶたは両目とも、糸で縫い閉じられていた。

 上のまぶたと下のまぶたが糸で規則的に縫われている。元は白かったであろう木綿糸は、縫い目を重ねるごとに赤く染まっていた。男三人、無言で林蔵の遺骸を囲む。駐在も医者も、難しい顔をしている。おそらく己もそうだろうと、誠一郎は思う。どうして林蔵は死んだのか。どうして瞼を縫い閉じたのか。考えてもわからないことばかりが頭の中を巡る。
 ほつほつと、雨が降り出す。大粒の雨が林蔵の顔にかかる。さながら死に水か。雨脚が徐々に強くなってくる。
「よし、とにかくどこか屋根のあるとこに入れましょ」
駐在がそう言って医者と一緒に動き始めても、誠一郎は動く気にはなれなかった。己の知る林蔵とは別物になった目の前のコレ。どうしてコレを見ていると志保の姿がよぎるのだろう。
 そのとき、林蔵の目じりから赤い涙がこぼれるのを見た。冷静に考えればそれは雨粒で、赤いのは目の中にでも溜まっていた血なのだろう。が、どうしても。その赤色がどうしても、誠一郎に志保を思い出させた。
 どうしようもなく、吐き気がした。

 雨は一層激しくなり、庭に咲く紫陽花の花をぼんやりと霞ませている。



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