呼び続ける。



4*あかと憎しみ

「お前は何ゆえ生きる」
 しん、とし張りつめた夜気。この虚空を男の低い囁き声が揺らした。
「理由など、どうして必要でしょう。わたしはこの血潮が枯れ果てるまで生き続けるのです。ただそれだけです」
女の、甘やかな声が答える。
 しかし、男は女の言葉を鼻で笑った。
「お前は、何もわかっていないな、志保」
女は志保だ。そして、男は。
「はい、林蔵さま。志保は何もわからぬ女子にございます」
志保が林蔵のはだけた胸元へなめらかな頬をすりよせる。
「いくら感じることができても、わたしは貴方さまの顔が本当にはわからない。愛もわからぬ、憎いもわからぬ、わたしは本当に何も知らないのです」
 闇の中でのみの蜜月。それは周りの夜のことを指すのでもあるし、そのまま二人の境遇を表すものでもある。志保は林蔵の顔を知らないし、林蔵も志保の顔を見ることは叶わないのだから。
 林蔵が志保の家につかえてから二年になる。今年も庭には、桜の薄紅の花弁がほろほろと舞っていた。
いつの間にか、ずるずると何か大きな抗えないものに巻き込まれるように、志保と林蔵の関係は完成していた。抱きしめ合い、内緒話のように蜜語をささやく。ただ、それだけだが、どうしても離れない関係。
「確かに人は、存在するのに理由は要らない。だけれど、志保」
 林蔵はそこで言葉を止め、志保の華奢な体をきゅっと己の胸に抱き寄せる。
「生きていくには理由がいるんだ。お前に何がある、志保」
志保は何も答えない。まるで眠ってしまったかのように、静かな息遣いが聞こえる。林蔵は促すことも違うことを話すこともなくただ、志保の体を抱きしめていた。
「なにゆえ」
 どれほどか時が経った頃、志保がぽっつりと呟いた。
「なにゆえその様な意地悪を、おっしゃるのですか」
林蔵の胸に顔をうずめたまま、志保が言った。
 遠くで、名もわからない鳥が不気味に鳴いた。
「意地が悪いのは、俺の本質だからだ」
くくく、と喉を鳴らし林蔵は志保の髪を撫でる。ゆるく結ってあった絹の如き髪がはらりと解ける。
「志保」
突然、林蔵は志保の肩を強く掴み畳に押し付けた。
「あ。」
ぞっとするほどの甘たるい志保の声。
「志保は何も知らない。だから無垢なんだ、だから可愛いんだ」
志保がむっつりと黙る。恥ずかしくて、顔を赤らめているのだろう。
「だが、俺は志保を愛おしいとは思わない」
 林蔵は冷淡な声で言い、手に少し力を込める。きゅっと志保の体が硬くなる。
「どうして……っ」
絶望に満ちた志保の声は、林蔵の手の中に消えた。志保の口を林蔵がふさいだのだ。
「俺の気持ちは、愛を越えた」
少し荒くなる志保の息と、変わらず静かな林蔵の息遣いだけが空気を震わせる。夜半の月はとうにどこかの空に消えた。
「俺が志保に、男を教えてやろう」
 林蔵の言葉には淫欲のかけらもなかった。淡々とし、それでいて優しく、哀しい。
 林蔵は志保の体にのしかかる。びくっと志保の体が一瞬硬直し、すぐに力が抜ける。
 林蔵は志保の目に当てられた布に手をかけた。志保がいやいやと首を振る。
「この布を取ってはいけませぬ」
しかし、林蔵は聞かない。
「よいのだ。志保、お前には知っていてもらいたい」
志保の言葉を待たず、林蔵は布を少し乱暴に外した。
「あ、あぁ」
 志保の口から、嘆息とも感嘆ともつかない溜め息が漏れる。その溜め息は、初めて己の目で見た景色に対してではない。志保は赤い瞳を見開き、すぐ前にある林蔵の瞳をまっすぐに見つめた。
「林蔵、さま」

林蔵の開かずの――開かずのはずの――瞼が、開かれていた。

 林蔵はふっと瞳を細めて微笑む。その瞳の色は、
「奇麗な、青だろう」
青い色をしていた。
 蒼穹のような抜けるあお色ではなく、紫苑の花弁に似た、翳りを帯びた青。青い瞳は障子越しの月の光を反射し、きらきらと夜空のように輝いている。
「目が見えるのだな。志保の瞳も綺麗な赤だ」
 生まれてすぐに目に布を当てられると、目が見えなくなるという。だが、志保は見えるというのだからやはり、志保の目は尋常の外から迷い込んだものなのだろう。
 林蔵は、志保の髪を撫でる。
「狂おしいほど愛しければ、それは憎らしいと同じなのだ。志保、俺は俺の青を知ったお前が憎い。憎くて、たまらない」
志保の寝間着の、帯を解く。はだけた裾から、影に積もった雪のように白い腿がぬらりと闇に浮かぶ。
「わたしも、わたしの赤をしった貴方様のことが、憎うございます」
 糖蜜のようにからみつく甘い声で、志保が答える。
「憎むことは、愛するよりさらに愛することだ」
朗々と歌い上げるような林蔵の囁き。
「心の底から、お前を憎もう」

 赤い瞳の女と青い瞳の男はその夜、憎い憎いと、互いに溺れた。



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