呼び続ける。



3*常闇の流れ者

 その男が志保の家で働くことになったのは、春。志保が十七歳の時だった。
 その頃の志保の美しさの妙なることといったら、如何なる言葉を用いても表すことはできないであろう。ただひとつ言えることは、赤い眼のことがあってか志保には十七の娘とは思えぬ、翳りを帯びた色香がふとしたときに漂うのであった。
 ともかく話を戻すなら、その男は名を林蔵といった。
 まぁ、実のところこの男が本当に林蔵と言う名前であったのかは知れない。誰かが「この男は林蔵と言うのだそうだよ」と言い、林蔵と呼べばこの男は返事をした。「己の名は林蔵などではない」と否定したこともない。ならば、だから。この男は名を林蔵と言った。
 林蔵はもともと志保の村に流れてきた者だった。歳は若いが襤褸(ぼろ)の着物を着、枝切れと見まごう手足を引きずるようにして歩く林蔵を最初、村の者らは奇異の目で見た。
 そして、村の者らはすぐに気づく。
――この男は、目が見えないんだ……。
 林蔵は常時、目を硬く閉じていた。瞬きひとつさえするところを見た者はいない。ある奴が言う。
『これは、あれだよ。きっと。あの男は目が見えないんだ。聞いたことがあるよ、生まれつき瞼が開かねぇ、くっついたままの人間がいるって』と。
 こう言った奴は村の中でも法螺吹(ほらふ)きで通っていたので皆が皆、その話を鵜呑みにしたわけではない。が、あの流れ者の目が見えないということだけは確かなようだ。
 誰が呼び始めたのか、この頃から、林蔵は林蔵と呼ばれ始めた。
 村人は林蔵の目が見えないと知ると同情的になり、何かと世話を焼いた。林蔵は林蔵で居心地がよかったのか、半分惚けた住職がいる寺に居ついた。
 ここで志保の登場である。
 志保は平生、屋敷の外へ出ることはなかった。外の様子を知るには、誰かから聞かなければいけない。ある日、屋敷へ野菜を届けに来た話好きの老爺が林蔵のことを話した。志保は老爺の話を熱心に聞いていた。
 その夜、志保は両親に老爺から聞いた林蔵という男について語ったのち、言った。
『その方に、うちで働いてもらうわけにはいけませぬか』
つまり林蔵を志保の家で雇えということだ。
 誠一郎も真冴も最初、素性の知れない流れ者を家に置くことを大いに渋った。それは当然の反応だろう。
『村の者がみんなで面倒を見ているんだから、いいじゃないかい』
誠一郎が苦い顔で問うと、志保はいえいえをして理由を説明する。
『今は良いでしょう。ですが、いつまでと言うわけにはいきません。彼(か)の方と村の方々は血縁でも何でもないのです。
 働かないで面倒を見てもらっているだけの彼の方に不満を持つ人も出てくるでしょう。さすれば、彼の方は村を出ていかざるをえなくなります。
 せっかく居場所を見つけることが出来たのに』
 それでも渋る両親に、志保はちょっとためらってから話し始めた。
『わたしはその方のことを、どうしても他人とは思えぬのです。きっとお互いに目が見えぬからでしょう。
 ……恥ずかしながらわたしは、このような目を持って生まれてきました。ですから景色を見ることができないことで誰を責めることもできませんし、心で周りを感じることができます。
 しかし、彼の方は違うでしょう。生来かそうでないのかはわかりませんが彼の方は常闇に身を置く方なのです。それなのに旅だなんて、』
志保は一度言葉を切る。布でおおわれた瞳でぐっとふた親を見据えた。鬼気迫る志保の視線から逃れるように、誠一郎も真冴も微かに身を引く。
『可哀想だとは、思いませぬか』
 そう言われると、なんだか、反論できない響きが志保の言葉には宿っていた。志保が親にこんなに必死に何かを頼むのは十年ほど前、尼僧になるならない云々のとき以来だ。
 半ば仕方なく、誠一郎は林蔵を雇うことにした。
 しかし実際に雇ってみると、林蔵という男の働きぶりは大したものだった。最初の二、三日、屋敷の中をくまなく歩きまわると、その後はまるで目が見えているのではないか、と言う程すいすい滑らかに動き回るのだ。足音でそれが誰かも見分ける。
 それにぱりっと糊のきいた着物を着せれば林蔵は、その男ぶりもなかなかのものであった。
 林蔵は言われたことを押しつけがましくない程度に気配りしてこなし、礼儀作法も流れ者であったとは思えぬ程きちんとしていた。誠一郎は林蔵に客のもてなしをするように言いつけた。
 一度、客人の一人が聞いたことがある。林蔵が元々は無頼の者であると知り、驚いた後のことだ。
「へぇ、林蔵さん。あんた、乞食だった言うわりには随分しつけがきちんとしているね。さては、乞食の前は、どっか良いとこの奉公人だったのかい」
客人にこう問われたとき林蔵は、瞼を閉じたまま謙遜とも取れる上品な苦笑を浮かべ、
「いえ、わたしは最初から今までずっと、まともな生き方をしてきた者ではございませんよ」
と、だけ言いすぐに座を離れた。
 林蔵の接客は客からの評判もよかったのだが、いくらなんでも誠一郎の元へ引っ切り無しに人が来るはずもない。そうなると畢竟(ひっきょう)、林蔵は手持ちぶさたになることが多かった。
 そこでもうひとつ、林蔵は誠一郎から仕事を与えられた。志保の話し相手だ。
 この頃になると真冴はあまり志保の相手をしなくなっていた。また誠一郎も何かと家を開けることが多かったので、志保はほとんど一日、誰とも口をきかない日が多かった。
 家族と住みながら誰とも口をきけない娘のことを哀れに思ったのか、それとも罪悪感からかは知れないがともかく、こういうわけで誠一郎は林蔵に新たな仕事を与えた。
 志保が十七の春だった。
 庭の桜が薄紅の花弁をひらひらと、散らしていた。



inserted by FC2 system