暮れ間に沈む



蛇先生*2

 六年生になっても担任は塚田先生だった。だが、だからといって何もなかった。先生に眼球をなめられたというあの出来事は毎日の中に埋もれていき、心の中には残っているが生々しさを伴って思い出されるものではなくなっていた。
 ただひとつだけ変わったことと言えば、あの日以来、私は理由も分からずに泣きたいと思うことがなくなった。というか泣くこと自体がなくなった。教室で独りぼっち、赤く燃える夕焼け空を見ても、クモの巣に絡まりながらも必死で翅をばたつかせる蝶を見てもわたしのこころはカラリとも揺れなかった。切ないと思うことがなくなったのだ。それと同時に、心の底から笑うことも、あまりなくなっていた。
『感情が薄いね』
とよく言われるようになった。
 たぶんこれが、先生がわたしにもたらした変化なのだと思う。


 ――――。
 ふとその瞬間になって考えてみなければ、自分が今日小学校を卒業すると言う実感さえ湧いてこない。いざ式本番となっても、周りの女の子たちのすすり泣きを聞きながら淡々と最後の校歌を歌った。
 卒業式が終わり、友人たちと別れた後すぐに家に帰路につく。友人たちにお別れ会をやるから来いと言われたが、断った。なんとなく体がだるく、早く家に帰りたかった。
 家まであと十数歩、そこでわたしは気がついた。忘れ物をした。
「どうしようかな」
普通の荷物――たとえば持ち帰り忘れた教科書や机の奥に転がしたままにしてある消しゴム――なら、別にいい。でも忘れてきたのは、卒業記念にと塚田先生が生徒ひとりひとりのために作ってくれた木で出来たプレートだ。
 すこし悩んだ後、取りに行くことに決めた。すこし悩まなければ、先生の想いのこもった卒業記念品を取りに行こうと思えない自分は、自分でも感情がないように思う。
 ひっそりと静まり返った教室。プレートは机の中に入っていた。
「あった」
手の平にすっぽり収まるそれをポケットにしまい、教室を出ようとした。そのとき、呼びとめられた。塚田先生だ。
「何しているの」
あの日の繰り返しのように、塚田先生は聞いてきた。
「みんな下校してしまったよ、帰らないの」
 塚田先生がこっちへ歩いてくる。わたしはポケットに手を入れ、プレートを握る。まっすぐに、先生を見つめた。塚田先生は、不思議そうに首をかしげた。
「何か、悩み事かな。ぼくでよければ相談にのるけど」
わたしはプレートを握る手に力を込める。
「先生」
「なんだい」
先生の表情は穏やかでぼんやりしている。
 すっと浅く息を吸う。
「あの日、わたしに何をしたんですか」
先生は動かなかった。顔も体も動かさず、わたしを見ていた。それはまるで、「なんのことかな」と聞いているみたいだった。
「あの、その」
口ごもり、言葉を探す。
「先生が、教室で……わたし、の、」
いざ口に出して言おうとすると、顔がぽっぽと熱くなり胸が苦しい。ここまで緊張と恥ずかしさを感じたのは久しぶりだ。
「蛇は」
 突然、塚田先生は言った。
「蛇は獲物を丸呑みにするんだよ。知っているかい」
「え」
わたしは恥ずかしさも忘れ、先生の言葉を考えた。意味がわからなかった。へび?
 先生は笑みを少し濃くし続ける。
「感情や気さえも呑みこめるんだ。昔からどの神話や国でも蛇に正邪両方の解釈があるのは、そのためなんじゃないかとぼくは思う。清らかな感情ばかり好んで食べたのが聖、それ以外の感情を引き受けたのが邪」
「先生」
わたしは先生を呼んだ。先生の目はいつもより少しきらきらしていて楽しそうだったけれど、教室ではないどこかを見ているようだった。
「ぼくは感情を食べる蛇もどき、かな。正負含め、丸呑みにした感情は浄化されずぼくの中に溜まっていく」
 先生の視線がまた一段と、遠くに言ってしまった気がする。
「先生、何言っているんですか」
不意に先生の目の光がわたしに向けられた。ふっと少し疲れたように笑って先生は呟いた。
「溜まるところまで溜まったら、もう終わりだ。“もどき”であるぼくの中に飽和した感情は聖にも邪にもなれず、きっとぼくを殺すだろうね」
くらり、と世界が揺れる気がした。先生が口にした「殺す」という言葉が頭の中をぐるぐる回る。こんな感覚は、久しぶりだ。
 ……この気持ちは――――。
 そのとき、教室に他の先生が入ってきて先生を呼んだ。
「塚田先生……あ、お話し中でしたか」
「いいえ、忘れ物を取りに来ただけみたいです。今、終わりました」
先生はそう言うとわたしに「じゃあね」と手をふり、教室を出て行こうとした。
 教室を出る瞬間、塚田先生は泣くのを堪えるみたいな苦しそうな笑顔でわたしに言った。
「君には、悪いことをした。全てを食べてしまうとは、思わなかったんだ」
もう一人の先生には聞こえないくらいの小さな声だった。わたしが言うことを必死で探し始める前に、先生は教室を出ていった。わたしはひとり、教室に取り残された。
 やっぱり、わたしの感情が薄くなったのは先生のせいだったということなのだろうか。赤い、先の割れた舌がわたしの心を食べてしまったというのだろうか。いったい、どうやって。先生は、なに?
 まだ先生と話したいことがあった。でもなぜかわたしの体は動かなくて「待って」の一言が言えなかった。
 ひとり教室に残されたわたしは、ポケットの中のプレートを、先生がくれたプレートをぎゅっと握りしめ、しばらくの間立ちつくしていた。


 久しぶりに先生のことを思い出してみると、あの出来事から十年もたっているのだということに気づく。わたしは今、大学生だ。十年……昨日のことのように思い出される出来事と自分の間にある年月の長さに驚かされる。
 相変わらず、わたしの感情は淡白なままだ。熱いや寒い、お腹が減ったという思考はあっても、綺麗だとか可哀想とか言うので心を動かされることはなかった。でも別に、先生のことを恨みはしない。それは先生がわたしの恨むという感情まで食べてしまったから恨まない、というのではないと思う。
 どうして久しぶりに先生のことを思い出したかと言うと、わたしが今、同窓会に来ているからだ。
 しばらくしてから、わたしの元に同級生のひとりが来た。すごく背が伸びていて一瞬誰だかわらなかった彼が言う。
「塚田先生が亡くなった」
と。
 喉の奥から自然と空気が漏れ、くっと鳴った。わたしの反応をどう取ったのはわからないが、級友の彼は塚田先生の死について教えてくれた。彼自身、誰かから聞いた話らしく多くのことは知らないようだったが、わたしが一番驚いたのは塚田先生の年齢だった。思った以上に若かった。わたしの担任をしていた時、すでに三十代後半だろうと思っていたのに。
 塚田先生が死んだ。死んでしまったんだ。卒業式の日、先生の言った言葉が思い出される。
『溜まるところまで溜まったら、“もどき”であるぼくの中に飽和した感情は聖にも邪にもなれず、きっとぼくを殺すだろうね』
 死。頭の奥がくらりと揺れ、全身に伝播した。
 級友の彼が突然声の調子を変えた。
「あ、悪い。せっかくの同窓会なのに、こんな話しちゃって。泣かせちまって……ほんとごめん」
「え」
彼に言われて初めて気づいた。泣いている、と言うほどではない。が、目じりに涙があふれていた。
「お前ってクールなイメージがあったんだけど。けっこう涙もろいんだな」
「そんなこと……」
ないはずだ。今までに人の死を経験したことがないわけではない。でも涙を流したことはなかった。誰かが死んでもわたしはその死をただ淡白に受け止め、過去に埋没させてきた。
「塚田先生ってあんま生徒と話してなかったように思うけど、何か特別な思い出でもあるのか」
 わずかな好奇心を瞳に宿し、彼が聞いてきた。彼の言葉はわたしの耳には届いたが、心までは届かなかった。胸がなんとなく苦しく、胸の前で手をぎゅっと握り合わせる。わたしが何も答えないでいると、彼ははっと気づいたように気まずそうな顔をした。
「あの、大丈夫だから」
わたしは笑顔を作り、そう言った。
 彼はほっと頬を緩ませ、もう一度謝るとわたしの元を離れていった。きっとほかの級友の元にも塚田先生の死を伝えに行くのだろう。
 あの日夕暮れの教室で、塚田先生はわたしの感情を全て食べたと言った。でも、それは嘘だった。いや、先生がそう思っただけで実際は、違う。
 先生がわたしに感情を残してくれたから、こうして先生のことを思い、感謝することができる。
 誰かの悲しみや苦しみや切なさを肩代わりして、人生を駆け抜けていった優しい先生だった。もう先生には会えないけれど、少しの間だけ目をつぶり、先生の冥福を祈ろう。
 胸がぎゅっと締め付けられるようで、なんだか苦しい。目の前がくらくらして、立っていられなくなる。もっとたくさん話しておきたかったと、今さら思う、心の底から。
 一筋、涙が頬を伝う。悲しみのためではない。
 あの日、先生は『切なさに殺されてしまうから』とわたしに言った。だけれど、今のわたしはもう大丈夫だ。あの頃、切なさが心に溢れても泣くことさえできずに震えていたわたしは、もういない。
 この感情は、紛れもなく。
 まだわたしの中にもまだ、この感情は残っていたんだ。

 ――――先生、わたしは今、切ないです。

   蛇先生…おわり



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