暮れ間に沈む



蛇先生*1

 夕日を見た瞬間、わたしの体は動かなくなった。
 帰り道、忘れ物をしてしまったわたしは友達と別れ教室に戻ってきた。二階にある五年生の教室には誰もいなくて、オレンジ色の夕日が差し込んでいた。窓辺のロッカーの下には濃い影。
 光景がわたしの胸をぎゅっと締め付けて、苦しい。体から力が抜けて、立っていられなくなる。
 最近、こういうことがよくある。夕日を見た時、公園の隅で主のいないクモの巣に絡まりもがいている蝶を見た時、狭い水槽の中をずっと行き来している金魚に餌をあげる時、わたしは決まってこの感情に襲われる。
 わたしは、どうしようもなく泣きたい。
 別にイジめられているわけではない。別に不自由があるわけではない。別に悲しいわけではない。別に苦しいわけではない。それなのに、どうしてこんなに泣きたいのか。わからない。
 名前もわからない感情がわたしのことを追い詰める。教室の隅、膝を抱えて震える。ぐるぐる胸の内で渦巻く感情が、気持ち悪い。泣きたいのに、泣いたら少し楽になれるかも知れないのに、こういう時に涙が流れたことは一度としてなかった。
「何しているの」
 教室の入り口の方から、突然声をかけられた。びくっとして見るとそこには、男の先生がいた。塚田先生だ。ひょろ長で病気の人みたいに青白い肌で、眠たげな腫れぼったい目をしている担任の先生、塚田先生が突っ立っていた。
「もう下校時間は過ぎているよ、帰らないの」
先生はどこかぼんやりした話し方でしゃべる。いつもそうだ。先生がゆっくりとした足取りでわたしの方にやってきて、わたしと視線を合わせるようにしゃがみこみ、顔をのぞいてくる。
「お腹が痛いとか、頭が痛いとか。どこか具合が悪いのかい」
 心配そうな先生の声を遮るように、わたしは勢いよく首を振る。体が痛いわけじゃない。
「じゃあなにか、悩み事かな。先生でよかったら、相談に乗るよ」
ふんにゃりとした笑顔をわたしに向け、塚田先生が言う。わたしが何も答えないでいると、眉を少しだけ寄せて、
「あはは、ぼくじゃあ頼りないかなぁ」
とまた笑い、左手で首のうしろを撫でた。
 先生につられて、くすりと笑ってしまった。普段、同じクラスの男の子が『ぼく』と使っていると子どもっぽい感じがするのに、先生が使うと反対に、ちょっと頼りになる大人みたいに思えるから不思議だ。
 わたしは言った。
「あの、わたし……自分の気持ちが、わからないんです」
「あれ、もしかして、好きな男の子ができたの」
先生は目を細めて、おかしそうにわたしを見た。先生がわたしをからかうように目を細めたので、少し悲しくなった。この胸の苦しいのは、そんなのとは違う。
「あ、ごめんね。君がまじめに話しているのに」
 先生が本当にすまなそうにわたしに言うので、かえってわたしの方が悪いことをしてしまった気になった。先生に謝られることなんて、初めてだ。
 何も説明しないままでは自分のことをわかってもらない。五年生のわたしは、それくらいのことはわかっている。わかってもらうには、どうすればいいか。頭の中で話したいことを考えているうちに先生は女の先生を連れてこようか、と言い教室を出て行こうとしていた。
「あ、あの」
塚田先生に話そうと思った言葉。違う先生を前にしたら、揺らいでしまいそうで……。ひゅっと息を吸い、決心する。
「わ、わたし。この辺が苦しいのと悲しいのに似たような気持ちになって、あの、泣きたくなるんです。でも、違うんです。苦しいでもなくて、悲しいでもないんです」
 胸のあたりを押さえて、わたしはうつむく。言った途端、かあっと頬が熱くなった。恥ずかしい。でも、少しだけ形になった言葉は止まらなかった。顔を上げ、先生をまっすぐに見た。先生はいつもより目を大きく開き、わたしを見ていた。
「先生、この気持ちは、何ですか」
ふっと辺りが静かになる。炎色した夕日と暗い影が教室に射し、頭がくらくらする。先生は何も答えてくれない。
「君は……」
 しばらくの沈黙の後、先生がつぶやいた。その声に弾かれるようにわたしは立ち上がる。恥ずかしい、恥ずかしい。わたしは何を言ってしまったのだろう。恥ずかしさに呑みこまれたのか、さっきまで胸に渦巻いていた気持ちはいつの間にか消えていた。
 普段、先生とふたりきりで話すことなんてない。というか、塚田先生が生徒と仲良く話しているのを見たことがない。男の子たちは一緒にサッカーをしてくれる先生が良いと言うし、女の子の中には、塚田先生を気持ち悪いという子もいる。わたしはどちらかというと、先生のぼんやりとしたところがかわいいと思うことさえあるけれど、やっぱり、悩み事を相談したいとは思わない。なのに、どうして言ってしまったんだろう。
「あ、の。さ、さよなら」
 わたしはランドセルも持たずに、教室の出口に向かい駆けだす。が、手を塚田先生に手首をつかまれた。その力は思った以上に強い。
「いたい」
「あ、ごめんね」
塚田先生は少し手から力を抜いただけで、手を放してくれない。
「君は、どういう時にその気持ちになるんだい」
とても薄っぺらい声だった。わたしは怖くて、声が出なかった。今の先生はいつもの先生と違う。いつも半分眠っているみたいに見える目が今は、大きく開いている。
 わたしが何も答えないでいると、先生はわたしをぐっと自分の方に引き寄せ、囁くような音量で言った。
「赤い夕陽やケージの中の動物を見た時に、そういう気持ちになるのかい」
先生の目はどこまでもまっすぐにわたしを見ている。ドクンドクンと、心臓がうるさく鳴っている。どうして、先生はわかるんだろう。
「その感情の名前、教えてあげようか」
 先生はわたしの体をさらに引き寄せる。耳元に先生の息を感じた。
「それは、『切ない』と言うんだ」
「せつ、ない?」
長い間声を出していなかった人のように、わたしの声はからからとしていた。
「そう、切ない」
先生の声はいつもとかわからない。だけど雰囲気が違う。とても乾燥していて、半分茶色くなった冬の草を思わせた。わたしの心臓の音がどくどくと早く鳴った。
「悲しみや喜びは他人と同じだと錯覚することができるけれど、切なさは決して共有できない。永遠に孤独な感情なんだよ」
先生の言った言葉の意味は、ちっとも頭の中に入ってこなかった。ただ、『永遠に孤独な感情』という言葉だけが、わたしを打ちのめした。
 体の内側から、何かがこみ上げてくる。この感情が切ないというものなのだろうか。黒い靄のように心の周りに渦巻き、どうしようもなく泣きたくさせる、この感情が、切なさ。
「本来、そんなに悪いものではないんだ、切ないというのは。やりきれないほどの美しさや哀しさに感動するということだから。だけれどね、たまに切なさに耐えられない子がいるんだ。心の感度が、鋭すぎるのかも知れない」
 次の瞬間、わたしはぐわんと傾き、天井を見つめた。息がとまる。
「だからね」
床に押し付けられたのだとわかる。先生はわたしの上にのしかかり、ぐっと体重をかけてきた。わたしの顔のすぐ目の前に、先生の顔がある。ぼうっとした瞳の中に、わたしの姿が映っている。
「ぼくが食べてあげよう」
 するりと先生の舌が出る。真っ赤な、真っ赤な、血のように赤い舌。先生の舌を見た瞬間、わたしの体は動かなくなった。その舌の赤さのためではない。
 先生の舌は先端に切れ込みがあり、ふたつに分かれていた。まるで、蛇のように。
「ぼくが食べてあげよう。そうでないと君は、自ら死んでしまうから。切なさに喰われてしまうから」
――自ら死んでしまうから――
その言葉はぐるぐる頭の中をめぐり、水に落とした墨汁のように広がっていく。ぼんやりと目の前がかすむ。目の前がかすむ理由が、わたしが涙を流しているからだと気づくまでに、時間がかかった。
 先生の赤い舌がわたしの顔に近づいてくる。温かい涙がつうつうと流れる。本当に赤い舌だ。まるで、血を飲んだみたい。

 先生の舌が、わたしの眼球をなめた。

 ぞくりと背中を駆ける悪寒。目の前が暗くなっていく。先生がわたしから顔を離し、わたしのことを見下ろした。ふっとろうそくの灯が風に吹かれるように、わたしは気を失った。
 最後に見た先生の顔は、いつも通りのぼんやりとした笑顔だった。



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