葉月小曲集



さようなら、葉月 ―サヨウナラ、ハヅキ―

 一瞬の激情も永遠の約束も、何ごともなかったように葉月は過ぎていく。月は満ち欠け、日は昇り沈む。廻れば再び、葉月はくるけれど。
 もう、この葉月とは出会えない。
 左様なら、私は深くふかく――心に傷がつくほど深く、刹那を刻もう。
 いつか思い出したとき、切ないほどの郷愁を、この葉月いだけるように。


 にやつく顔が目の前を転がる。湖のほとりの道。赤頭(あかこうべ)だ。赤子の頭だけがそのまま、地面を転がって動く妖。赤頭は死産した赤子や幼くして死んだ乳飲み子の頭だと言われているが、気だるげににやける顔は、赤子というより酔っ払いのようだ。
 ごろごろ、ごろごろ。赤頭は転がっていく。その後ろをついていく私。また異界に迷い込んでしまった私は、元の世界に帰るために歩いている最中だ。異界に興味を無くし、ただひたすらに歩いていればいつの間にか現に帰れている。
 最近、異界にいる時間が長くなっているような気がする。あまりにも頻繁に迷い込むから、体が異界の空気に馴れてきてしまったのかもしれない。私は現実を生きる人間であるから、この世界に馴染んでしまうのは大変よろしくない。
 ひた、と音がした。立ち止り、音のした方に顔を向けると、河童がいた。湖から半分体を出し、私の足元に水かきのついた手がある。今まで水の中にあった河童の体は、光っていた。水が光を反射するのとは違い、その材質のためか、ぬらぬらと妖しく光っていた。
 河童といっても本で読むように皿があるわけではない。頭はつるつるで、髪の一本も生えていない。うす青い肌に真っ黒な瞳、裂けるほど大きい口から、赤い舌がのぞいた。
 湖から突然あらわれた河童は、じっと私の方を見ている。“私の方”を見ているだけだ。なぜなら、私はこの世界においては幻。妖に私の姿は見えない。見えていないはずだ。
 河童が口を開く。血色の舌と真っ黒な口内が見えた。
『あんたが、葉月さまが言ってた野郎かぁ』
「え」
足首に圧迫を感じ、次の瞬間には体が浮く。ばしゃん、と湖の中に倒れ込み、目の前に河童の顔を見る。河童の口元に浮かぶのは、嗜虐的な笑み。
『気に入らねぇなあ』
水中に、引きずり込まれた。
 ものすごい速さで、河童は私を湖の真ん中へ連れて行く。そこまで来たところで、ぱっと河童はその手を離しどこかへ消えた。体が沈んでいく。鼻から水が入り、思わず口を開いてしまう。がぼぼ、と湖面に浮き去る気泡に手を伸ばしたが無駄だった。
 陽光に反射し光る気泡を見送り、数瞬後、私の意識も暗く沈んだ――。

 ぼんやり霞む視界の片隅に、誰かの人影を見た。
 橙の花のような爽やかな香りが鼻孔をくすぐる。何処だ、ここは。体を動かそうと思うが、力が入らない。仕方なく私は、思考することにした。
 河童が私を湖に引きずり込んだのは確かだ。どうしてだ。河童はなぜ私のことが見えたのだろう。確か河童は言っていた。
『あんたが、葉月さまが言ってた野郎かぁ』
――葉月とは、誰だ。
「あら、目が覚めているわ」
 幻聴か、心地良い声が聞こえた。
「ねえ、ねえ、あなた。お目覚めになって」
 頭がうまく回らない。この心地良い声が、むしろ私の意識を甘たるい空間に溶かしていくようだ。本当に、綺麗な声。
――ちりん――
 聞き覚えのある鈴の音がした。
「あ、凛。だめよ」
べろん。生温かく、やわらかい何かが私の鼻の先をなめた。おまけに、じょりっとしている。背中に走る嫌な悪寒――。
「うわあ」
私は飛び起きた。
 下を見ると、
「……ふうしゃく、ねこ」
風癪猫がいた。艶やかな萌黄の短毛をぺろぺろとなめている。なるほど、その桃色の舌で私のこともなめたわけか。風癪猫には、以前は飛ばされ、此度はなめられた。
「お前は、ろくなことをしないな」
こら、と苦笑しながら喉をくすぐってやると、風癪猫は心地良さそうにごろごろ言った。
 そのとき、くつくつと、笑う声が聞こえた。その方を見ると、縁側に女性が座っている。
「ふふふ、ふふ。……ごめんなさい。あなたと凛が、あまりに微笑ましかったものだから」
目を細め、女性は笑う。
「あなたは、」
私は己でも知らず、聞いていた。
 綺麗だと思った。白磁色の肌に、小夜色の髪。肌はきめ細かく、髪は艶やか。黒目勝ちの瞳は長いまつ毛に縁どられている。清楚な印象だが、唯一、着物の襟からのぞく細い首が艶めかしい。私は彼女を、綺麗だと思った。
「わたしは、葉月と申します。その子は、風癪猫の凛。……以前は、凛がご迷惑をおかけしましたね。わたしが代わりに謝りましょう」
葉月はそう言い、頭を下げた。
「や、やめてください。まったく、気にしていませんから」
私はそこで、ふと疑問を持つ。
「なぜあなたは、私が風癪猫……凛に飛ばされたことをご存じなのですか」
あの場には他に、人などいなかったはずだ。
「それは、わたしがこの世界の長(おさ)だからです。この世界で起こったことは全て知っていますよ。もちろん、あなたの存在も」
 葉月は悪戯っぽく笑う。世界の長――その言葉の持つ、あまりにも大きな意味についていけない。そもそも、葉月は人ではないのか。
「もちろん、一時的な意味です。一時、この世界を任されていると言った方が正しいでしょうか。肩書きだけは大きいですが、わたし自身は精霊のようなものです」
まるで私の心内が見えているような葉月の発言だった。
「……謝ると言えば、凛のこと以上に河童ですね。ごめんなさい、驚かれたでしょう。あれは、いたずらの好きな種だから。ごめんなさい」
 葉月は悲しそうに目を伏せた。そこで私の思考はようやく繋がる。そうか、河童の言っていた『葉月さま』は、この人だ。
「私は気にしていませんよ。河童に引き込まれたのは私の不覚ですから。それに――」
「それに、なんです」
「そのおかげで、こうして葉月さんに会えましたから」
葉月の頬にさっと朱が散る。私も言ってから言葉の意味を考え、熱くなった。これじゃまるで、想いを伝える男のようではないか。
 私はただ、葉月にあのような悲しい顔をしないでいてほしかっただけなのに――。
「おもしろい方」
くす、と葉月が笑った。優しい笑みに、見とれてしまう。
「ねえ、何かお話をしてくださいまし」
 突然葉月は言い出した。私は戸惑う。
「話ですか」
何を話せばいいんだ。
「あなたの世界のことを、なんでも。……わたしは、どの世界にもゆくことはできないから」
一瞬、葉月の輪郭がかすむような錯覚を覚えた。儚げな印象が漂う。
 その、どうしようもなく切ない雰囲気を断ち切るため、私は話した。私の世界のことを。何を話したのか、ほとんど覚えていない。たぶん下らないことばかりだったと思う。葉月は静かに聞いていてくれた。途中から凛が葉月の膝の上で眠り始めた。私は話し、葉月は聞く。猫は眠り、私は葉月を見つめる。
――――――。
「ありがとう。とても楽しいお話でした」
 葉月が満面の笑みを私に向けた。どくん、と心臓が鳴る。
 ――私も葉月も、黙り込んでしまう。凛の喉の音だけが、静かな空間を震わせる。
「あの」
偶然、言葉がそろった。かっと頬が熱くなる。熱くなって、何も言えなくなる。葉月も袂で顔を隠してしまった。
「お先にどうぞ」
葉月が言った。
 どくん、どくん。心臓が鳴る。高鳴りのたびに、胸に重石が積まれていくようで、何も言えなくなる。ひとつ息を吸い、高鳴りを抑えつける。
「あ、あの。……もう少し、ここにいてもいいですか」
「え」
葉月は目を大きくし、私を見た。私は慌てて言い繕う。
「い、いや。帰るまでです。自然と帰れるまで。歩き始めて、帰るまで」
背中を冷や汗が伝う。我ながら下手な言い訳だと思う。言い訳にもなっていない。
 うつむき、葉月の返事を待った。
「うーん、困った人ですね。……こんなわたしの元に、いたいというのですか、あなたは」
「ご迷惑でしょうか」
「……うれしいじゃないですか」
「え」
私は思わず顔を上げる。葉月は、目じりに少し涙を浮かべ、笑っていた。私の頬も自然とゆるむ。
「じゃあ、」
「ただし」
葉月が私の言葉をさえぎった。
「ただし、葉月が終わるまでです。あと二日間だけですよ」
 私はまさか、二日もいて良いと言われるとは思っていなかった。「ありがとうございます」と言おうとした。だけれど。
「もうすぐ、葉月が終わりますね」
葉月の表情が、あまりにも切なげで、儚げで、何も言うことができなかった――。



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