葉月小曲集



さようなら、葉月 ―サヨウナラ、ハヅキ―

 時は静かに流れた。
 次の日も私は葉月に現の話をして過ごした。子どもの頃の話をした。
「私は、そのとき初めてこの世界に来ました。あ、葉月さんは知っていましたかね」
「いえ、昔のことは、知りません」
「そのとき、ほたるの光の柱を見上げる女性を見ました」
あの女性が、私の初恋の人だった――。あの人は。
「葉月さんに似ていました」
 葉月は曖昧に笑う。心なしか、顔色が悪いように思う。
「それは葉月の出来事でしたね。……きっとそれは、わたしの祖先の姿でしょう」
葉月は遠くを見つめている。心なしか、頬がこけたように思う。
「葉月さん、大丈夫ですか」
 ふらり、葉月の体が傾ぐ。あっという間もなく、葉月は床に倒れた。
「葉月っ」
頭の中が真っ白になる。名を呼び、体をゆすった。葉月、葉月、葉月。葉月はつらそうに目を閉じたまま、何も言わない。どうしたんだ、突然。
『寿命だよ』
 緊迫の中にあって、至極冷静な声が聞こえた。
 振り向くと、白玉坊主がいた。
『落ち着いて。葉月さまを寝かせよう』
白玉坊主はこちらに歩いてくると、葉月を抱え部屋の中に上がった。
『……君にも話がある。本来、葉月さまのお役目だけれど、こうなってしまっては仕方ない。私が代わりに話そう』
この白玉坊主の声、どこかで聞いたことがある。
 ――――――。
『葉月さまは、寿命だよ。もともとあの方は、葉月が終わるとともに消えてしまう存在なんだ』
 葉月を寝かせた後、場所を移し白玉坊主は言った。昨日葉月と話していた縁側だ。
「どういうことです」
なるべく平静を装った。あえてそうしていないと、今すぐ葉月の元に駆けだしてしまいそうだったから。
『葉月さまに恋しているのかい』
「はい」
自分でも驚くほど、素直に気持ちを言っていた。
 白玉坊主はぽこぽこと、泡を鳴らした。笑っているのだろうか。
『どこから話そうか、どれだけ話そうか』
「……最初から、すべて」
白玉坊主は、頷いた。
『まず最初に、私は白(はく)という。この屋敷で、主さまにお仕えしている。
 これからする話は、少し長い。君は葉月さまのことが心配で私を急かすかもしれないけれど、必ず最後まで聞くんだよ』
「はい」
『よろしい。……君は、この世界を見つけてしまった数少ない人間だ』
 白は切り出した。意味がわからないわけでもない。誰もが簡単に異界を見つけられるわけがない。
『そして、この世界は君の夢でもあり、異界でもある』
「え」
――私の、夢。
『君はもともと、空想に耽(ふけ)りやすい性質を持っているね』
 白はまるで、私の幼い頃からを知っているような口調で言った。確かに私は幼いころ、現実離れした世界を望んでいた。白の体がぼこり、と鳴った。
『普通の人は異界を想像しただけで終わるのだけど、君の場合、少し様子が違ってしまったんだ』
「違ってしまった、とは……どういうことです」
それまで庭の方を向いて話していた白が、私の方を向いた。『これ』には目などないはずなのに、まっすぐに見つめられている気がした。
『君の空想と、異界が繋がってしまったんだ。君の空想と異界の現実が少しだけかぶってしまったと、言った方がわかりやすいかな』
 私は必死で白の話を咀嚼しようとした。意味だけならわかる。だけれど理解できない。どういうことだ。異界の現実、私の空想――繋がるとは、どういうことだ。
『君が空想したものが、実際にこの世界にあったということさ。図らずも君はこの世界の片鱗を見つけてしまった。
 ふたつの円を思い浮かべてごらん。ひとつは君の心、もうひとつはこの異界。ふたつが少しだけ重なり、細い瞳の形になる。
 その虚空が、彼岸と此岸(しがん)をつなぐ道』
「みち……」
『そう、道を通って君は心をこちらの世界に移してきた。幼い頃から今まで、少しずつ、僅かずつ……だけれど着実に。そして、あれがいけなかった。君が私に触れてしまったのが』
 私は眉根を寄せた。確かに、白玉坊主に触れたことはある。正確にはその中身に。だけれど、あの白玉坊主は――
「死んだはずでは」
白はゆらゆらと首を横にふり、私の発言を否定した。
『君の言うとおり、あの白玉坊主は死んだ。だが私は全ての白玉坊主の大元なのだよ。だから、あの個体の記憶がある。アレは私じゃないが、私はアレなのだよ。
 君が私に触れたことで、君とこの世界の関係が急速に進展しはじめた。ふたつの円が重なる部分が多くなってきた。つまりね、このままじゃ君――』
 ここで白は言葉を切った。たっぷり数拍の間を明ける。私は不意に喉の渇きを覚えた。
『この世界に取り込まれてしまうよ』
いつも、心のどこかで恐れていた言葉。もとの世界に帰れなくなってしまうということ。
 だが、今はそんなことよりも。
「私の事情はわかりました。……葉月さんが寿命というのは、どういうことですか」
『自分のことが心配じゃないのかい』
心底不思議そうに白が聞いてくる。不安がないと言えば、嘘になる。だけれど、自分のこと以上に葉月のことが心配だ。
『まだ出会って二日だというのにね。……いや、でも葉月さまにとっては、二日というのはなかなか長い』
白が私を見つめた。私もどうしてここまで葉月に心を焦がすのか、よくわからない。
『この世界は月ごとに主が代わる。葉月の主は葉月さま、弥生の主は弥生さま……というふうにね。次の年の葉月は、新しい葉月さまがいらっしゃるそして、世界主の命は三十日と決められているんだ。』
「そんな。どうにかならないんですか」
『どうにもならない』
きっぱりと白は言った。
目の前が真っ暗になるような絶望感。己の無力感。
『葉月さまは、受け止められていらっしゃる。君から見たら一月は短いだろうが、葉月さまにとっては、めいっぱいの一生なんだよ』
 白の声は耳には入るが、心に届かない。
『葉月さまの願いは、君がこの世界に二度と来ないことだ。あの方は君に、現実を生きてほしいそうだよ。だから、帰、』
「嫌です」
でもその言葉だけは、きっぱりと否定した。白はぼこっと鳴った。
『現実に帰れなくなってしまっても、いいのかい』
「葉月さんのそばに、います」
私はまっすぐに白玉坊主を見つめ返した。見つめあう数瞬、静寂が流れた。
『全ては、君の心が決めるから……』
 白はそれだけ言うと、のそのそと部屋を出ていった。
 私は、葉月の元へ駆けた。
 葉月はその日、目を覚まさなかった。


 最後の日。
 葉月の姿は、初めに見たときとは比べられないほど衰えていた。一日や二日でここまで弱ってしまうものなのか。こけた頬とくぼんだ眼窩には確実に、死が迫っていた。時間がない――焦る気持ちだけが募っていく。
「葉月」
 名を呼び、手を握った。返事はない。
 それを独りでくり返し、夜になった。
 晦日の月は新月。月のない夜だ。
 もうすぐ終わってしまう。葉月が、終わってしまう。
「葉月」
「わたしは……」
かすれた声が聞こえた。微かに目が開いている。
「葉月っ」
声に飛びつくように、私は葉月のくちびる近くに耳をやった。
「わたしは……ここ一月、ずっとあなたを見てきました」
「葉月」
「いつしか、あなたに心を寄せるようになりました。……好きです、あなたのことが」
「私も、葉月が恋しい」
生気の薄い葉月の肌に、微かに赤みがさした。握る手に力をこめる。
「だからこそ、あなたには帰ってほしかった。本当はあの時、あなたと初めてお話した時に帰っていただこうと思っていたのに……できませんでした」
 葉月は往年を懐かしむような、穏やかな表情をしている。同時に「あの」と言いあったとき、葉月は別れを告げようとしていたのだ。
「白から話は聞いたでしょう。わたしの最後の望みです。……お帰りください。もう、二度と来てはいけません」
「無理です」
「どうして」
「まだ未練があるから……この世界に、あなたがいるから」
私は葉月をまっすぐに見つめた。葉月はたじろいだように視線を泳がせ、くちびるの端を噛む。
「もうすぐいなくなります。わたしは、ただあなたの幸せを願います」
「私もあなたの幸福だけを願っています」
 葉月は慈愛に満ちた表情で私を見た。こんな状況でも思わず見とれてしまうほど美しく、清廉な笑み。
「死にゆく者の幸福は、生きていく者の中にあるということに気づいてください」
「……でも」
「わたしは、あなたに会いにゆきます。生まれ変わってあなたに、会いにゆきます」
「生まれ変われるのですか」
私はその言葉にすがった。
「あなたが望んでくれるなら、きっと」
葉月は、優しく笑った。
 葉月の体が、少し透けてきた。私は葉月の手を強く握る。でもどんなに強く握っても、綿を掴むようにあやふやな感触が手に残る。
「私は、強く望みます。あなたが生まれ変われるように。私と同じ時を、生きられるように」
葉月は頷いた。
 鼻の奥がつん、と熱くなる。一筋、涙が頬を伝い葉月の手を流れる。
「ありがとう」
葉月は涙声だった。それでも、葉月は笑っている。
「さようなら、葉月」
私も無理やり、笑った。
「さようなら。もう、来てはいけないわ。……あなたは葉月で終わらない。これからも、生きていくのだから」
 葉月の手を離し、布団をかけなおす。最後に頭を撫で、私は葉月の元を去った。
 部屋を出、障子を閉めた瞬間、堪え切れずに嗚咽した。
 私は歩く。元の世界に帰るために。振り返らない、絶対に。振り返らない。
 縁側に白と凛が立っていた。白は緩慢な所作で頭を庭に向ける。見ると屋敷の庭には、妖たちが勢ぞろいしていた。地摺坊(じずりぼう)、河童、猿神、赤ら爺、雨降り坊主……。暗い夜に妖たちの目が不気味に光っている。私は『それ』らに頭を下げた。『それ』らも無言で頭を下げ返してくる。
 私は縁側に向き直り、白たちに頭を下げた。
『さようなら』
白はそう言い頭を下げ、凛は、にゃあと鳴いた。
 もう、この世界に来ることはない。この世界に残る、唯一の未練はこれから消えてしまうのだから。
 私は目をつぶった。もう一度だけ。未練がましくもう一度だけ、別れを告げる。
 ――さようなら、葉月。

 ただ一人、愛おしいあなたが、生まれ変わってくれるなら――。
 左様なら、葉月。
 私はただ貴女の幸せを望みましょう。

- 終 -



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