葉月小曲集



腐草百響 ―クチクサヒャッキョウ―

 特別な所など自分にはなにひとつない――。そう気づいた時から私は、本をよく読んだ。誰かに本で読んだことを教え、「すごいね」と言われるとたまらなくうれしい気持ちになった。だから、私は本をよく読んだ。
 しかしその一方で、私は――誰かの言う不可思議に明瞭な答えを説明する私は――違う世界に憧れていた。ここではない何処か、似て非なる世界、答えも説明も存在しない純然たる不可解さで満ちた世界を、心のどこかで切望していた。
 空想と現実の区別さえ曖昧になるような葉月の日、子どもの頃。私は、初めてその異界に足を踏み入れた。
 その世界は、私の求めているものだった。


 近所の子が遊びに誘ってくれたが、それを断り僕は縁側で本を読んでいる。縁側は風がよく抜け、日蔭になっているので心地良い。風鈴が鳴る。読んでいるのは、子どもにしては難しい内容の本。
「退屈だなあ」
空にわき起こる入道雲を眺め呟いた。本の内容が退屈なわけではない。不思議な出来事に明快な答えを与えるその本は、僕の矜持だとか知識欲だとかを満たすのに十分だ。
 何が退屈なのか、それさえもわからない退屈。僕はこの退屈を吹き飛ばしてくれるような鮮烈に不明な世界を見てみたいと常々思っている。たとえば獣が人の言葉を話したり、たとえば空想本で読んだ妖怪が跋扈(ばっこ)していたり、たとえば僕自身が幻だったり……そんな世界。
 しかし、本を読み知識だけを身に付けた僕は、そんな世界がないことを知っている。逃れられない、この世界。全てに理由がついてしまいそうで、むしろ輪郭が曖昧になりそうな、この世界。
「退屈だなあ」
僕はもう一度、同じ言葉をくり返した。
 ほい、と読んでいた本を放り出し庭へ出た。空を見上げる。いつの間にか葉月の強い日差しは消え、空にはうす灰の雲があふれていた。
「降るなあ、きっと」
そう言った瞬間、ぴちゃと左目に何かが入った。気の早い雨だろう。思わず目をつぶる。
 すぐに目を開けた。
 僕の目の前を、何かが通過する。半透明の、もやもやが。着物を着た獣が。空を飛ぶ異形が。――人ではない、何かが。僕の目の前を、通過する。
 どくりと心臓が鳴る。高鳴る。恐怖と好奇心が心の半分を占め、残りの半分は真っ白だ。思考できない程わけのわからない目の前の『それ』ら。
 ちくりと左目が痛み、目をつぶる。
「あれ?」
世界が元に戻る。どんなに目を凝らそうとも、不思議なものは何もいない。ただいつも通り、朝顔のつるが巻きついた垣根があった。だが左目を開けると、また現れる。
 左目だけが、『それ』らを映す。目の前の『それ』らは――妖。
 ぱらぱらと雨が降り始めた。僕に雨が降りかかる。耳に雨が当たると、妖たちの声が聞こえた。鼻に雨がかかると、魚のような妖が通ったとき、生臭さを感じた。雨が、僕を異界へと連れていく。
 だが妖たちに僕の姿は見えていないらしい。破れた傘の妖も、ぽんぽこ腹をたたく狸も、かえるの卵のような妖も、何者もいないように僕の前を過ぎていく。
 妖たちは、列になり何処かへ進んでいく。
「百鬼夜行……」
僕は頭に浮かんだ言葉を、そのまま呟く。実際は、夜行ではなく昼間であるけども。嬉しいのだと思う。言葉を間違えても気にしないくらい、僕は嬉しいのだと思う。
 流れていく列を見つめ、最後尾を待つ。列の最後にいたのは、猿の頭、狸の胴、虎の手足を持ち、牙をむく蛇が尾である妖――鵺(ぬえ)だった。
 鵺の後に入り、行列に加わった。これから『これ』らは、どこに行くのだろう。
 行き先を想像する。鬼の住む山だろうか、神の国だろうか、地獄の果てだろうか。どちらにしても十中八九、“まとも”な場所じゃない。自然と笑みが浮かぶ。僕が望んでいた世界だ。
 雨は次第に強くなっていき僕をなぶるが、そんなこと気にならない。ゆく先に、さらなる不思議が待っているのだろうから。
 しかし、妖たちとの別れは意外にも早かった。
 僕の家の近くには湖がある。湖は鈍い色を湛え、雨にゆらゆら揺れていた。湖を三日月のように囲む森の中には、稲荷神社の赤い鳥居が建っている。
 妖たちは鳥居の中に次々と入っていき、消えていく。鳥居をくぐった先に妖の姿はなく、ただ普通に石畳が続いているだけだ。
 僕は確信した。
――この先は、本物の異界だ。
鵺の尻尾の蛇が、鳥居の中に消える。僕も後に続く。続こうとした。
 だけれど。入ることができなかった。鳥居をくぐった先には、苔むした石畳がうす暗い森の奥へと続いていた。妖の行列はいない。
 拒まれたのだと思った。妖たちに、異なる世界に、不明の理に、僕は拒まれたのだと思った。
「どうして」
 ――どうして僕を連れて行ってくれないの。
僕は人間だから当然だと思うことは、できなかった。それほどまでに強く僕は、異界を望んでいた。涙が出た。雨だが涙だかわからないけれど、頬を伝う。
 僕は走り出した。
――連れて行ってくれないなら、自分で行ってやる。
稲荷神社へと続く石畳をひたすら、走った。頭の中の利口な部分では、こんなことをしても何処にも行けないとわかっている。
 だけれど、僕は走った。
 足がもつれた。持ちこたえようとするが、片足は空を蹴り、もう片方は草に滑る。一瞬の浮遊感。思いっきりすっ転んだ。目の前が真っ暗になる。草が僕の体を受け止める。起き上がれない、起き上がりたくない。雨が僕の体を打つ、着物を濡らす。惨めだと思った。ぎゅっと生えている草を掴む。ぶちぶちと草が切れる。僕は頭がおかしくなってしまったのだろうか。涙があふれ、鼻水も出る。我慢しようと息を大きく吸うと、草の匂いを強く感じた。
 ……草。おかしい、変だ。僕はさっきまで石畳の上を走っていたのに、どうして僕の体を受け止める程の草が生えているんだろう。しばらく雨に打たれ、やっとそこまで思考が及ぶ。それと同時に、りん、という音を聞いた。虫の声だ。
 顔を上げると、
「え」
知らない場所にいた。青々としたやわらかな草の茂る、広い草原だ。辺りは暗い。
りん りん りん
震える鈴虫の声。それに合わせるように、暗闇の一点がぼんやりと光った。
「……ほたる」
 一匹のほたるが光る。鈴虫が鳴く。次は二匹のほたるが光り、また鈴虫が鳴く。すると次は四匹が光る。鈴虫が鳴き、次はたくさん……。無数のほたるが月色の光をともす。鈴虫の音も数を増し、草原全体に響き渡る。息をのんだ。
「きれいだ」
惨めさや悲しさなんかを全て忘れた。これが現実か幻かもわからない。ただこの気持ちだけが心を満たす。
 鳴き声に呑まれるように雨足は弱まっていき、やがて止んだ。月が夜空に顔を出す。
 下から飛んできたほたるが、僕の目前をかすめた。下を見るとほたるは、僕の手から生まれていた。正確には、僕が引きちぎった草から。手を目の高さに持ってきて、僕はその様子を呆然と眺めた。
 むしられた草は僕の手の上で黒くなり、どろどろと腐った。だらりと指のすき間から腐った草がこぼれおちる。そのどろどろの気持ちの悪い草が一瞬、ぽっと月色に輝く。光からほたるが生まれ、ひゅんと空に霧散していく。もう一度、手当たりの草を千切り、様子を見る。同じだ。腐る草の中から、ほたるが生まれた。
 ほたるの異称を、腐草(くちくさ)という。ほたるは腐草から生まれるという俗説だと本には書かれていたが。
「本当だったんだ」
 舞い上がり、飛び交うほたる。
 頭の奥がぼんやりして、上手く考え事ができなくなる。それでもいい。ここはきっと異界だけれど、こんなに美しいのだから。帰りたいとは、微塵も思わない。鈴虫の声が徐々に遠のき、ほたるの月色だけが、満ちて、いく。
 ほたるの光は、異界へ僕を導く送り火のようで――。
 僕は、ぱたりと草の上に倒れ、ゆっくりと、目を、閉じた……。
 ―――――― ………… ――――――。
 ―――― ………… ――――。
 ―― ………… ――。
 誰かに呼ばれた気がして、不意に目を覚ます。
 どれくらい眠っていただろう。既にほたるの光も鈴虫の声もなかった。ただ暗いだけの草原が広がっている。押し寄せる暗闇に、急に心細くなる。立ち上がり、辺りを見回すが帰り道はわからない。僕は、異界に迷いこんでしまったのだろうか。
「……帰りたいよう」
呟きに答えてくれる者はいない。
 矛盾しているのはわかる。異界に行きたいと望んだのに、いざ来てみれば帰りたいなんて。理由を考えようとしたが、何もなかった。理由でも理屈でもなく、心が帰りたいと、望んでいる。ちょうど、異界を望んだのと同じように――。足に力が入らなくて、僕は草原にしゃがみこんだ。
 涙が出そうになる矢先。父の声が聞こえた気がした。僕を、呼ぶ声。
僕はばっと飛び起き、耳を澄ます。遠くの頬から、微かに、だけど確かに、聞こえる。
「父さん」
最後に聞いていからまだそんなに時間が経っていないというのに、懐かしいとさえ感じる、父の声。
 僕は駆けだした。微かに聞こえる父の声の方へ。今ならよくわかる。僕がいたいのは異界なんかではなく現実だ。父の元へ帰るため、僕は走る。
 だけれど、僕を異界にとどめようとするかのように。
 鈴虫が、再び、鳴きだした――。りん りん りん……。
 ほたるが、再び、舞い始めた――。ふゅう ふゅう ふゅう……。
 それはとても綺麗で。父の声が、かき消される。僕がいたい世界が、あやふやになる。虫たちは声を響かせ、光を閃(ひらめ)かせる。
「やめろよ、やめて」
これ以上、異界に心を奪われてはいけない。手で耳をふさぎ、ぎゅっと目をつぶって走った。父の声は聞こえなくなってしまったが、代わりに父のことを想う。
 走る、走れ、走りぬけて。
「帰らなくちゃ」
とん、と何かにつまずき、体が宙に浮く。
 宙返り、反転する視界の中。幻のような光景を見た。ほたるが集まり柱となり、月色の柱が天空へと突き伸びる。それは、本物の月にも届くようで……。幻のような光景は、一瞬だけだった。
「ぐぅっ」
 僕はしたたかに背を打った。痛みより先に目の前が真っ白になる。僕の体は止まることなくごろごろ転がる。傾斜の急な土手の手前で転んだようだ。体が回る。草の匂いを鼻に感じる。背に痛みが走り。また体が回り、草の匂い……。
 目の前が、真っ暗になった。


 目の前が真っ暗だ。理由はわかる。私が目をつぶっているからだ。意識はあるのに瞼が開かない。瞼だけではない。体全体がまるで、水を吸った雑巾のように重い。何かをするのがいちいち、億劫(おっくう)に感じ、結局まぶたを開くことさえしない。
 昔の出来事を夢で見ていた。初めて私が異界に迷い込んだときだ。今思えば、あの頃は異界に憧れていたのだった。忘れてしまったその憧憬。
 急な土手を転がり意識を失った私は、気づくと自分の家にいた。腹の上にはうすい布が掛けられていた。辺りは薄暗く、誰の姿も見えない。心細くなって、父を呼んだのを覚えている。父は私のそばにやってきて、優しく頭を撫でてくれたのだった。
 それから、私はたびたび異界に迷い込むようになった。
 それでも、あの幻想的なほたるの柱を忘れたことはない。どんな化物よりもあり得ない、実在するのを許されない美しさだと思う。
――いや、ちがう。本当に忘れられないのは、女の人だ。
私は己の思考を、己の心情で否定した。
 あの時、転がりゆく刹那の中で、ほたるの柱を見上げる女の人を見た。綺麗な人だと思った。その一瞬が、私の心を捉えて離さなかった。今でも、そうなのかもしれない。幾年も経って顔を忘れてしまったけれど、私の初恋だった。
 頬を打つ風があまりにもひんやりとしていて、私は思わず目を開けた。意識が急速に覚醒してく。目をつぶっているから目の前が真っ暗だと思っていたのに、目を明けても目の前は真っ暗だった。
「もう、夜なのか」
あまりの暑さに堪らず昼寝を、と思ったのが寝過ぎてしまった。まさか子どもの頃のように父を呼んだりはしないが、取り残されたようで、少し心細い。
 はらはら開け放した廊下から吹く風は、どことなく冷たくて乾いている。ああ、この風は。
 不意に月色が目の前を横切った。目で姿を追おうとしたが、すぐに見失ってしまう。
「ほたる、だったか」
夢でちょうどほたるを見ていたところだ。何となく縁を感じた。
 軒先の風鈴が鳴る。冷たい風に吹かれて鳴れば、それはなかなか寂しい音だ。ぼんやりした光を灯したほたるが、私の投げ出した腕に止まった。ぽう、ぽう、と鼓動そのものであるかのようにほたるは点滅を繰り返す。ぽう、ぽう、ぽう……ぽう…………ぽう。弱々しくほたるは命を燃やす。その様子を私は静観した。
 ぽう……。青白い光を最後、ほたるは私の腕から転がり落ちた。本来、ほとんど感じるはずのないほたるの体の重さを感じた。命の重さだろうか。
 入れ替わるように、鈴虫が鳴きはじめる。鈴虫の声と、風鈴の音。どちらも綺麗な音なのに一緒に聞くと、心に溜まるのは切なさだけだ。
 吹く風に、死ぬ虫に、鳴く声に、確実な秋を感じた――。
 ああ、もうすぐ、葉月が終わるんだ。
 私は、目をつぶった。もう一度、眠ってしまおう。



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