葉月小曲集



風癪猫 ―フウシャクネコ―

 ごろにゃんと、猫が伸びた。
 庭の隅にひょろりと立っている猿すべりの木陰でのことだった。綺麗な黒猫で、すいっとのばされた脚がなにとなく艶めかしい。私はそんな猫の様子を横目にぱたぱたと胸元をあおっていた。
 片手には知人からの手紙。なんでもその知人は夏負けしたあげく夏風をこじらせ、避暑と湯治を兼ねてどこか涼しい温泉地にいるらしい。彼、というか彼の家がそうとうな分限者だということは知っていたが、全く良い身分である。
 手紙の隅には余った墨で花の絵が描かれていた。ひまわりだ。かすれた墨で書かれたひまわり。
「ふむ、なかなか上手いな」
彼は何ごとにも浅く広く通じている多芸者だが、絵も堪能とは。これといって特別な取り柄などない私としては、少し妬けてくる。まあ現実の話として、夏の日差しが肌を焼いているわけだが。
 ちりん。
ふいに、鈴を転がしたよう澄み切った音が聞こえた。ぱっと上を見上げるが、軒先の風鈴の音とは違う。猿すべりの下の猫を見るが、首に鈴を下げている様子はない。猫はいぎたなく伸びきっている。
 なんだ、あの音は。心の柔らかい部分をくすぐられるような、優しい音色だった。
 ちりん。
また鳴った。
 ゆるい風が吹く。
ちりーん。
今度は軒先の風鈴が澄んだ音が発する。
 そのとき。今まで気持ちよさそうに寝ていた黒猫がいきなり飛び起きた。毛を逆立て、尻尾をぴんと天にのばすと庭の一点に向かって、しゃあと鳴いた。何ごとかと思い私もその一点に目を向ける。……何も見えない。
ちりーん、ちりーん、ちりんちりんちりーん。
強い風が砂ぼこりを巻き起こす。私は目をつぶった。
 ……。風が吹き止み、目を開ける。目に入った光景は。
「どこだ、ここは……」
頭が真っ白になり、呆然と呟く。目の前に広がるのは家の縁側から見える往来のはずもなく。庭の垣根の向こうにはさわさわと風に揺れる竹林が広がっていた。辺りにを涼しい風が吹き抜ける。どこだ、ここは。
 しかし真白な思考は一瞬のことで、すぐに得心がいく。私はまた、迷い込んでしまったんだ――私が幻である、妖の世界に。
 後ろから呵々大笑、愉快そうな声が聞こえ、振り向く。
「あ、れ」
人ならざる妖がいるものと思っていたのに違った。
「とう……さん」
目を疑う。父がいた。父の向かいで一緒に酒を飲んでいるのは父の弟、つまり私の叔父だ。
「どうなっているんだ」
私は言ったが、その言葉は父たちには聞こえないらしい。酒を飲み交わし、与太話に興じている。
 ここは、妖の世界ではないのだろうか。
 そう思っているうちに、なんと。父の姿がうにゃうにゃと歪みだした。父が姿を変えていく。叔父も同様だ。父は見る間に、私に手紙をくれた彼の姿をとった。叔父の方は華麗な芸者の姿になっていた。
 また少しすると、『それ』らは私の知り合いに姿を変えた。なかには、もう現では会えない懐かしい顔もあった。
 呆気にとられその様子を見ている私だが、心の隅で少しだけ安心した。変な話だが、ここが妖の住まう異界で、目の前にいる者たちが妖であることに安心したのだ。
 目の前の彼らは自分の顔というものを持っていないのだろう。初めて見たその妖を、私は無面相(むめんそう)と呼ぶことにした。
 ちりん。
 さっきと同じ鈴の音がした。庭の隅に目をやると、私の家と同じように猿すべりが優美な紅い花を咲かせている。その根元に、なにかがいる。
「毛玉だ」
『それ』を見た瞬間、頭に浮かんだ言葉がそのまま口をついた。もちろんただの毛玉なはずはなく――恐らく猫なのだろうが、なんとも珍妙は姿の猫だった。
 苔色ともとれる灰色の長い毛はぼさぼさで艶の欠片もない。一尺もある尻尾はつけ根から三又にわかれている。木陰にいても暑いのか体をべったりと地面につけ、三本の尻尾でぺんぺん地面を叩いている。鼻のあたりでは鼻ちょうちんが開いたり膨らんだりしている。
 ……猫又というには何というか、やる気がなさすぎるように思う。
 ごろんと猫が寝返りを打った。ちりん、と鈴の音が聞こえた。首に下げた鈴が長い毛のすき間からちらりと見える。猫本体に似合わず綺麗な鈴だ。海を固めたような濃い青い色の鈴。
 鈴の音を聞きつけたらしく、後ろの無面相たちの会話が庭の猫に移った。
「おや、心地良い鈴音が聞こえると思ったら、ほら、ご覧。風癪猫(ふうしゃくねこ)がいるよ」
「まあ、本当だ。相変わらずぼさぼさの毛玉だね、あれは。あのままだったら、その辺に落ちている雑巾の方がましだ」
「こらこら、風癪猫を怒らせるようなことを言うなよ。避暑湯治に来て風癪猫に飛ばされたなんて、いい笑い者じゃないか」
「ははは、君は心配性だなあ。あれは大丈夫なものなんだよ、踏まないかぎり。見てごらんよ、あの間抜け面。こっちの声なんてまるで聞こえていないのさ」
 あの薄汚い猫は風癪猫というのか。
 しかし猫は無面相たちの会話が聞こえたのか、のっそりと起き上がると座敷の方に歩いてきた。歩くたびに首に下げた鈴が鳴る。
 この猫はつくづく愚鈍らしく、縁側を登るときなど、跳ね登るのではなく前足をかけてよっこらしょと登った。
「ほら、こっちに来たじゃないかい、君」
叔父の姿に再び戻っていた無面相がちょっと後ずさる。猫は猫らしからのろまな動きで私の横を通り過ぎた。
「全く、お前は臆病だね。大丈夫だと言っているのに。……ほら、魚の尻尾をやろう。おお、よしよし」
父の姿の無面相が差し出した焼き魚のかすを、猫はむしゃむしゃ食べる。
 その様子を見ていた無面相たちは呵々と笑うとまた姿を変えた。
 食べ終えても猫は物欲しそうに膳の上に乗ったものに視線を送っていたが、無面相たちにもうお裾分けの気持ちがないことを悟ったのか、座敷の奥へのそのそ歩き始めた。
 私も行くか。
 ちりん、ちりんという鈴の音に導かれるように私は風癪猫の後を追った。
 私が此度迷い込んだのは、どこかの湯治宿らしかった。普段、家の周り以外に迷うことは少ない。さっきの無面相たちの話から、妖たちにも湯治の習慣があることを知ったが、妖たちも体に悪い所を抱えているらしい。いろいろな妖に会う。のっぺらぼう、山彦、坂上くだり、蛇神、白玉坊主のご一行……。
 そんな様々な妖たちの間を抜け、猫は行く。私も後をついていく。
 猫は宿屋を出た。振り返って宿屋の全体を見ると、想像していたよりも大きな宿だった。屋根の向こう側にもくもくと湯気が上がっているから、大きな露天風呂があるのかも知れない。
 少しの間ぼんやり宿屋を眺めて向き直ると、猫は数間しか進んでいなかった。
「本当に、のろまだな」
私はむくむくの猫の背に苦笑を向け、後を追った。
 ここは、私の来たことのない場所だった。右手側にはずっと竹林が続き、しばらくすると左側に連なっていた建物も姿を消す。やがて竹林を割ったような細い小道に入った。空の青さや雲の形から夏であることはわかるが、竹林を抜ける風はひんやりとし、うすさむく感じることもある。私は着物の襟を合わせた。
 猫は私と付かず離れず、てくてくと進んでいく。そこで私はふと思い至る。
「この猫は、私をどこかに導いているのか」
そう言えばさっきから猫はちらりと時折、こちらを振り返っている。猫は人の目には見えないものを見るという。この世界において私は見えない存在だが、たまさか、この猫には私の姿が見えるのだろうか。
 少し前の白玉坊主の一件が頭をよぎり、私は少し顔をしかめる。結果としてはあまり恐ろしいものではなかったが、白玉坊主に話しかけられたときは、相当怖かった。二度と、妖とはかかわりたくないものだ。
 私の気を知ってか知らでか、見えているのかいなのか、相変わらず猫はちらちらと振り返り私と一定の距離を保った。
 先を見なければ気づかないほど緩やかな小道坂を登る。これだけ歩いているのに、今回はなかなか元の世界に戻らない。さすがにちょっと息が切れてきて、うつむき加減になった。それでも澄み切った鈴の音のおかげで、猫が前を歩いているのはわかる。
 ふいに――視界が明るく、吹く風の雰囲気が変わった。
 思わず顔を上げた私は、息を呑む。
「ひまわりだ」
ひまわりだ。開けた丘の上一面、私よりも背の高いひまわりが咲いている。頭でっかちなひまわりが、風に吹かれてゆらゆら揺れている。
 私はひまわりをもっと近くで見たくて――本心の少しで、背競べをしたいという童心に駆られて――数歩踏み出した。
 しかし。
 やわらかいような、ごりっとしたような『なにか』を踏んだのと、
にゃぁっ
という凄まじい猫の悲鳴を聞いたのが同時だった。
 私は慌てて足をのけ、下を見る。そこには毛むくじゃらの猫が三又の尻尾をぴんと立て、私の方を向き威嚇している。やはり見えているのだろうか。
 ほんの一瞬、猫と目が合った。その途端に猫は忌々しげに吠えるのだから、やはり。
「見えているのか」
私は肩をすくめ、苦笑した。妖に姿を認められるのはあまり心地良いものではないが、この猫になら、私の存在を知られていてもそんなに怖くない。なにせ、のろまな毛玉だ。
 にゃああ   ちりーん
猫が一声鳴くと、風が強くなった。もうひと鳴き――さらに風が強くなり、ひまわりたちがぐわんぐわんと傾ぐ。猫の長い毛もばさばさと風になぶられ――。
「な、に……」
猫の毛が次々と抜けて行く。風に舞い上がる毛玉は、すぐにどこかへ飛ばされていった。
 にゃああぁああ  ちりーん ちりりーん ちりーん
私の足元で唸る猫は長いぼさぼさの毛が抜け飛び、綺麗な短毛の猫に変わっていた。思わず触ってみたい衝動に駆られる萌黄色の毛は艶やかでなめらか。ちりんちりんと鳴り響く鈴に合わせたような、青色の瞳が、私を見ていた。
 辺りの風はどんどん強くなり、ついにひまわりの花弁を吹き飛ばした。辺りを舞う黄色の大群、夏の空、わた雲、緑の葉や茎――ぐるぐる渦巻く黄色の大群……。あまりに現実離れした幻想のような光景に目を奪われた。
 ちりーん
一際強い風が吹き、私の体が浮き上がる。あっと思う間もなかった。
 にゃあぁああぁああ
猫の咆哮と、舞い乱れる無数の花弁。風に揉みくちゃにされながら、私は理解した。無面相が『風癪猫に飛ばされたなんて……』『踏まなければ大丈夫』と言っていた意味が。
 この大風は猫の癇癪なのだ。風癪猫。癇癪を起すと風を呼ぶ猫――。尻尾を踏むことが癇癪の起爆薬。
「これは、失敗した……」
 私はまた苦笑を浮かべた。まんまと猫の尻尾を踏んでしまうとは――。
 ある程度の高さ浮かんだところで、私の体は降下しはじめた。大した高さではないのだが、やはり怖い。なんとか頭を抱え、私は目をつぶった。
 目をつぶる寸前、風癪猫は何処に行くのか、私はその後ろ姿を見た。
 目を閉じた真っ暗の中で、
 ちりん。
という澄み切った鈴の音を聞いた――。

 後頭部から背中にかけて、鈍い衝撃を感じた。思った以上に少ない痛み。
にゃあ
という猫の声で、恐るおそる、目を開く。
 目の前には黒猫がいた。黒猫は空に足をつけ……いや、違う。私が反対向きになっているんだ。ぼんやりと状況を理解し体を起こす。私の家だ。どうやら、私は縁側からずるりと落ちたらしい。
 私はほっと息をつく。縁側に座りなおし、空を見上げた。同じ夏の空だが、現実の方が数段、気温が高い。
「今回は、ずいぶん長い間あっちの世界にいたものだな」
 歩いても、歩いても――なかなか帰れなかった。振り返って考えてみると、恐ろしいことだ。帰れなかったら私は、どうなるのだろう。
 ここ最近、少しおかしい。白玉坊主に声をかけられるし、風癪猫に飛ばされ、帰るのに時間がかかる――。これじゃあまるで。
「私の存在が、異界になじんできているみたいじゃないか」
冗談めかして言ってみたが、咀嚼した己の言葉はあまりにしっくりきていた。一瞬、葉月の暑さを忘れ、背中をぞくりと何かが駆ける。
 そのとき。
 にゃあ
と猫が一声鳴き、私を思考の混沌から連れ戻してくれた。
 黒猫と知人からの手紙と、竹垣の向こうに見える往来を歩く人々……。
「そうだ」
おののく心が凪いでいく。
「私の世界は、こちらだ」
当たり前の事実を忘れかけていた。
 自然と口元がゆるむ。私の様子を退屈そうに眺めていた黒猫が、くるりと背を向け、去っていく。しなやかな体躯が風癪猫と重なった。だが、あれはただの猫だ、黒猫だ。妖じゃない。
 ちりーん。
と、風鈴が澄んだ音を立てた――。



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