葉月小曲集



白玉坊主 ―シラタマボウズ―

 とろとろとまどろみの中、アブラゼミの声で目を覚ます。朝の涼しいうちから眠っていたのに、なんとまあ、太陽は既にてっぺんを少し過ぎていた。最近寝過ぎであることを自覚しながら、ぐっと体を伸ばす。骨がぽきばきと鳴り、気持ちいい。
 縁側から庭を見る。竹垣には朝顔が蔓を這わせているが、真昼間のためか、くたんとしていて元気がない。そんな様子を何気なく見つめていると、竹垣の向こうの往来を何者かがのっそりのっそり通り過ぎていくのが目に入った。
「しまった」
 口をきれいな丸にして私は思わずつぶやいた。
――また、迷い込んでしまった。
 私の気持ちを知る由もない『それ』はゆっくりと往来を通り過ぎていく。
 子どもが泥で作ったような稚拙な形の四肢、皮ふの代わりに体を覆うのはかえるの卵の膜のよう。膜の中身はほとんど水で、ぽこりぽこりと時たま、気泡が上下している。
 臓物も目も鼻も口もない『それ』を私は、白玉坊主と呼んでいた。
 由来は、体の中を泡沫(うたかた)と共にたゆたう色取りどりの玉からだ。桃色やうす緑、白色の柔らかげな玉は、白玉に似ている。
 白玉坊主はこの異界の住人――紛れもない妖だ。
 私は、幼い頃から異界に迷い込みやすかった。異界の住人はもちろん、人ではない。私は異界に迷うたびに色々な妖を見てきた。一度しか見たことのない妖もいれば、頻繁に目にする妖も知る。白玉坊主は、後者だ。
 じぃじぃと、蝉の声が降る。
 炎天下、白玉坊主のうしろだけ往来の土の色が黒くなっている。きっと地面に水分を吸われているのだろう。どんどん体が小さくなってしまうのではないだろうか。体を削ってまで、白玉坊主は何処へ向かっているというのだろう。
 そんなことをつらつら考えていると、いつの間にか白玉坊主の姿は見えなくなっていた。既に乾き始めている往来の一本筋を見て逡巡する。暑そうだ。
 だが。
「……帰らぬわけにはいかないしな」
己を奮い立たせるように呟き、私は立ち上がる。
 見慣れた家の中を歩く。家の中に立ち込める、ひんやりとした空気、薄暗さ。全く以て私の家と同じだ。現実と異界は本質的には何ひとつ変わらないものだと思う。ただ、生きる者が、人か妖か――それだけの違いだと思う。
 玉石の敷かれた玄関は、一際ひんやりと静謐(せいひつ)な空気を漂わせていた。草履をはき、外へ出る。一気に襲いかかる熱気、肌を灼く陽光。葉月の暑さにうんざりしながらも、私は歩き始める。何とない好奇心からか、白玉坊主がつくった道をなぞり歩く。この先には、湖がある。
 さっきの白玉坊主と同じくらい、私の歩調は遅いのだが。それでも元の世界に戻るため、歩き続ける。
――帰る気がなければ、帰れない。
 これは幼い時から異界に迷い込んできた私が導いた予測だ。たぶん外れていないと思う。
 異界にはいつも知らぬ間に迷い込み、知らぬ間に現実に帰っている。
 けれど、帰る時はいつも決まって私は、歩いていた。立ち止って不可思議なものに興味をひかれている時に元の世界に戻ったことはない。
 だから私は歩を進めた。己が生きる世界と、己が幻である世界――どちらが大切であるかがわからないほど私は阿呆ではない。
 首筋から玉のように汗が流れる。顎から伝った汗が黄土色の地面に黒くしみる。一粒の汗をこぼしただけでもこんなに辛いのだから、白玉坊主はもっと辛いのだろう。家を出た時は私の肩幅ほどあった白玉坊主の軌跡が、今は半分くらいになってしまっている。やはり体は小さくなるらしい。これだけの水分を垂れ流して、いくら妖といえ白玉坊主は本当に大丈夫なのだろうか。
 何気なく遠くに目をやると、何かが視界に入った。
「さっきの白玉坊主、か」
私はちょっと驚いて、思わずつぶやいた。二十間ほど先に見える、ぶんにゃりした塊。子ねこくらいの大きさの『それ』に、うすもも色を見た。
 私は駆けだした。思うように足が動かずいらつく。しかし白玉坊主に近づくにしたがって、私の走る速さはのろまになり、完全にその姿を認めたとき、私の足は思わず止まっていた。
――遅かった。
一目『それ』を見て思ったことはこうだった。
 しなびた半透明の膜が中身の玉にへばりついている『それ』はもう、生き物ではない。
 ああ、白玉坊主は、死んだんだ。
 白玉坊主の軌跡は最後、少しだけ右に曲がっていた。右側には湖がある。耳を澄ませば聞こえる、たぷたぷという水の音。今ならわかる――きっと白玉坊主は水を求めていたのだろう。あと数歩進めば、水の中に入れただろうに。夏の日差しの下に、敢え無く死んだ。
 なんとも悲しい気持ちになった。どういうわけだか、悲しい。
 己でも知らぬ間に、私は『それ』に手を伸ばしていた――。いくつかある白玉坊主の中身の玉。その中の、一番大きなうす桃の玉に触れようとした瞬間、ふと我に返る。妖の世界において、私は存在しない者だ。だから妖から姿を見られることはない。 私も極力、この異界を観察するだけにとどめてきた。散歩の途中に迷い込んだだけの場所だから。何かを残すのも貰うのも、ためらわれた。
 それなのに、この玉に触れてしまって良いのだろうか。そもそも、妖に触ることが出来るのかもわからない。私は中腰で手を伸ばしたまま、固まってしまった。
 そのとき、雲が途切れたのか、一際強い日差しが射した。砂金をまいたように、湖面が輝く。夢後(ぼうご)の極楽と錯覚する光景だ。
 私は意を決し、白玉坊主だったものに手を伸ばした。さわれた。肌にまとわる不愉快な膜の奥――もも色の玉をつかみ、引き抜く。手の平に乗せると拳だいの球形が、だらんと楕円球になった。本物の白玉よりも遥かにぐにゃぐにゃで、あまり気色の良いものではない。
 そのもも色を、湖に向かい放り投げる。ゆっくりと小さな弧を描き、ぽちゃんと水中に呑みこまれる。同心円が広がり、広がり――消えた。
 しん、と静かになる湖の周り。私の視線は玉が落ちた場所に固定され、足は動かない。私は何か変化を待っているのだろうか。自分でも、わからない。しばらくすると、蝉の鳴き声が聞こえ始めた。
 私は動かない。汗が、たらたらと流れる。
 時折り吹く風が汗を乾かす。私は動かない。
 日の光が白から朱に変わってきた。蝉の声があぶらぜみからひぐらしに変わってきた。それでも私は――。
『……お帰りよ……』
 ――――。静かな声は、突然聞こえた。
はっとして辺りを見回す。何も、いない。
『君はもう、お帰りよ』
きょろきょろさ迷った視線は足元に落ちる。白玉坊主の残骸。まさか、この声は。
『君の世界に、お帰り。そうでないと――』
私に話しかけているのか。ざあと血の気が引く。そんな、莫迦な。
『戻れなくなってしまうよ』
 私はその声に弾き出されるように、走り出す。何も考えず、考えられず、走り続ける。走って、走って、意識さえ飛んでしまいそうな中。
『今は、お帰りよ……』
最後にもう一度、白玉坊主はそう言った。



 自分の息が荒いことを認識した途端、周りの状況がはっきりしてきた。
 喘ぎながら顔を上げると、目の前には自分の家の玄関がある。
「戻って、きたの、か」
わからない。あの声はやはり、白玉坊主だったのだろうか。わからない。どうして白玉坊主は私の存在を知りえたのだ。わからない。わからない。わからない。
 わからないことだらけだ。
 頭を抱えたい衝動を必死で抑える。深く呼吸をする。とりあえず家の中に入ろう。現実に戻ってきたにしても、異界に迷い込んだままだとしても、動かなければ何も始まらない。
 そのとき。
『ひゃっこい、ひゃっこ〜い』
という声が聞こえてきた。冷や水売りだ。私はほっとした。冷や水売りがいるなら、ここは私のいるべき場所だ。
 売り声を聞いて喉が渇いたのか、売り声を聞いて喉の渇きを自覚したのかはわからないが、喉が渇いているのは確かだ。私は冷や水売りの声がした方へ歩き出した。
 道すがら、どうにか己の思考を納得させたくて、考えた。どうして白玉坊主は私に声をかけてきたのか。
「……私が、触れてしまったから、か」
色々小難しいことを考えたが、結局はこの答えに収斂(しゅうれん)する。きっと、そうなのだろう。異界に逍遥(しょうよう)する時の決まりが、ひとつ増えた。
――妖には、意外といえども触れてはいけない。
 触れてしまえば、なかなか恐ろしい目に遭った。白玉坊主の声がよみがえる。
『今は、お帰りよ……』
あれは、どういうことだろう。今は、とは。
 派手な着物と鉢巻きがちらりと目に入り、私の思考を断ち切る。
 いた。湖近くの大きなどんぐりの木の下に、桶やら小物やらを置き声をあげている派手な格好の男がいる。冷や水売りに、間違いない。
『ひゃっこい、ひゃっこ〜い』
威勢のいい冷や水売りに、声をかけ、金を払う。もう少し金を払えば砂糖を追加してやると言われたが、それは断る。あまり甘いのは、好きでない。
 私はゆっくりと歩き始める。家とは反対側、湖に沿うように伸びる道を。妖の世界でも、ここを歩いていた。白玉坊主も、ここを歩いていた。
 買ったばかりの冷や水を少し口に含む。冷たい。砂糖水の中に白玉を浮かべた冷や水。中には生ぬるい水を売りつけられたという話も聞くが、私は運が良いらしい。
 冷たい砂糖水が疲れた体に染みていく。体と心が弛緩して一瞬「仕合せ」という感情で全てが満たされる。湖面を吹き抜ける風になぶられ、さらに心地良い。
「白玉坊主も水の中に入れたら、このように気持ちよかっただろうにな」
 足を止め、湖を見た。異界と同じように、湖面は凪いでいる。きらきらと光る水面(みなも)、じぃわじぃわ鳴く蝉ども、葉月の乾いた風、うだるような暑さ、陽光……砂糖水の中の白玉。
 ここは異界ではないけれど、確かに、
「ここに白玉坊主は生きていたんだな」
異界を離れた後もこんなに異界のことを想うのは珍しい。そう自分でも気づいているが、白玉坊主のことが頭から離れない。無性に切なくなる。
 冷や水を、一気にあおった。喉から胃に滑っていく砂糖水と、入れ物の底にへばりついた白玉。白玉をつまみ上げる。ちらりと横目で、冷や水売りを確認する。
「よし、大丈夫だ」
冷や水売りは声を出し疲れたのか私に背を向けて、売り物である冷や水を飲んでいる。
 私は、白玉を湖に放り投げた。ゆっくりと小さな弧を描き、ぽちゃんと水中に呑みこまれる。同心円が広がり、広がり――消えた。
 しん、と静かになる湖の周り。
 私は湖から目を外し、家に向かって歩き始めた。ここに白玉坊主は生きていたけれど、ここに白玉坊主はいないのだから。
「私なりの、手向けだ……」
白玉が手向けとは何とも滑稽な感じがしたが、投げてしまった後に思っても仕方がない。
 何故だか切なくて、笑みが浮かんだ。
 そのとき――聞こえるはずのない声を、聞いた。
『……あり、……と、う』
私はびくっとし急いで後ろを振り返る。が、そこには、何もいなかった。数瞬の間、虚空に目を凝らすが何も見ることができず、仕方がないのでまた歩き始める。
 さっきから立ち止まったり微笑したりする私のことを、冷や水売りが怪訝な表情で見ているが、私は無視して前を通り過ぎた。
『……ありがとう……』
 さざめきにかき消されてしまいそうな声が、確かに聞こえた。私はもう一度振り返ったが、まだ訝しげな顔で私を見ている冷や水売りと目が合っただけで。
 やはりそこには、何もいなかった。



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