葉月小曲集



狐の嫁入り ―キツネ ノ ヨメイリ―

 別に、私の目が妖を映すわけではないのだ。私に特別な所など、何一つない。
 唯、私は、迷い込みやすいのだ――。


 厭な雨だと思った。知人の家を訪ねた帰り私は早足に家を目指していた。胡麻粒ほどの大きさの雨がぱらぱらと、私の頬を濡らす。雨は人肌に温まり、不愉快に肌を伝う。
 空を見上げる。うす墨色だ。ふう、とひとつ息をついた。
 前を向き、再び歩き始める。しとしとと降る雨でも、長く当たっていれば着物が濡れてしまう。湖のほとりの道を早足に歩く。湖の色は空よりも濃い灰色だ。無数に落ちる小雨が波紋を描き、湖面は定まらない。
 そして。私は、不意に思う。
「いつ、迷い込んだ」
 息をするほどたやすく、迷い込んでしまった。ぽっつりと呟いた言葉は、目の前にいる『それ』には聞こえていない。見慣れた湖のほとりの道に突如現れた『それ』。
 魚の腹のような白い肌、瞳は黒いビードロを嵌め込んだよう。無表情に、それでいて優しげな雰囲気をまとう少年が、目の前にいる。薄暗い雨模様に溶け込む、地味な着物を着た少年だ。頭の上には不思議なことに、柄のない傘が浮かんでいる。
 彼は、私のことなど見えていない。彼は私に横顔を見せるように立っており、彼の正面にいるのは、これまた現実では見かけない、不思議なもの達の姿。
「娘の嫁入りに、雨を降らせてくれなさい」
 よく通る声が、空気を震わす。声の主は、狐だ。もちろん、普通の狐ではない。二本の足ですっと立ち、若草色の留袖を着ている。べっ甲色の毛に覆われた尾は――五本もある。
「ほれ、この通り。魚も持ってまいりました」
 若草の狐は後ろに控えている裸の狐達――と言ってももちろん毛皮を着ているわけだが――の方をちらりと見た。すかさず狐たちは魚や酒や果物がたくさんのっている台を少年の前に差し出した。重そうだ。
「魚は鯉。大沼の神様よりお許しいただき、主を頂戴いたしました。酒は蛇秋院(じゃしゅういん)さまの涙を一滴。この果物は彩芽稲荷(さいめいなり)の中の無限開墾という村で収穫したものです。ひと口食べれば憂いが消え、ふた口食べれば万年寿命が伸びると言われております」
若草の狐は嬉しそうに供物の説明をした。
 いくら摩訶不思議な世界とはいえ、なるほど、なかなか変わったものばかりがある。沼の主と言われるだけあって、鯉などは大人と大差ない。
「ああ、でも。万年の寿命ごとき、雨降り小僧であるあなた様や雨神様にはあまり関係ありませぬねぇ」
若草は前足を鼻先にあて、からからと笑った。うるさいな、と思った。不愉快ではないが、うるさい。どこかの商家の、やけに口のまわる奥方を思い出させた。
 そのとき、今まで表情なく若草の話を聞いていた少年――雨降り小僧が口を開いた。目元には優しい笑みが浮かんでいる。
「銀葉(ぎんよう)どの、過分に供物をいただきありがとうございます。必ず雨は降らせましょう。お嬢さまのご婚礼は、いつですか」
平淡な声だが、何となく優しい声音だ。若草が嬉しそうに目を細め、答える。
「葉月の、三日月の晩にございます。嫁入りは、雨でなければなりませぬからなぁ、よしなに」
 狐の嫁入りは雨でなければいけないのか……初耳だ。三日月の晩とは、もうすぐではないか。
 雨降り小僧の口元にささやかな笑みが浮かぶ。その口から紡がれる言葉は、清らかな響きを持っていた。
「お嬢さまのもとに幸せの雨が降らんことを」
狐たちはみな、深々と頭を下げる。
 雨降り小僧も軽く会釈を返すと、ゆるりと体をひるがえし、私の方に向かって歩き出す。一瞬、ぎくりとするが、そうだ。この世界の住人――妖――に私の姿は見えない。何ごともないように雨降り小僧は私の横をすり抜けていく。不思議なことに鯉や酒や果物などの供物は、ふわふわと宙を漂っていた。
 雨降り小僧と狐たちのやり取りが終わり、ふと我に返る。いけない。着物の肩はすっかり、霧雨に濡れていた。
「さあ、雨の約束もできましたし、帰りましょうかねぇ」
若草――銀葉とよばれていたか――は他の狐に言った。狐の中の一匹、一際若そうなのが若草に聞いた。
「どうして、お輿入れの時は雨でなければいけないのですか」
「ああ、お前はまだ化け方を知りませんからなぁ。……綺麗に化けるには、雨の方がよいのですよ」
若草がふふふ、と上品に笑う。そして、すっと鼻先を前足でこすった。
 ゆら、と若草の周りが歪む。次に空間がしっかりとしたとき、私は思わず息を呑んだ。若草は綺麗な人の姿をしていた。たおやかな、吹けば簡単に折れてしまいそうな野の花を思わせる女の姿だ。
「嫁入りは人の姿で行うものよ。晴れていると毛がまとまらなくて、大変なのよ。でも雨だと、ほれ、この通り。わかったかい」
「はい、わかりました。わかりました」
若い狐はしきりに感心したようで、頷く。
「さあ、今度こそ本当に帰りましょう」
 若草は嬉しそうに歩き始める。他の狐もそれに続き、狐の行列はどんどん遠ざかっていく。
「……私も、帰るか」
ぼんやりと歩き始める。この世界に迷い込んだ時、現の世への帰り方を明確に知っているわけではない。ただ、歩いていると自然と元の世界に帰っている。迷い込む時と同じように。
 ――――――。
 気づけば、元の世界に戻ってきていた。いつの間に雨がやんだのか、辺りには強い陽光が照り射し、蒸し暑かった。私は相変わらず湖のほとりに突っ立っていたが、もちろんそこに、雨降り小僧も狐の行列も、妖の姿はない。
 さっきまで灰色に濁っていた湖が今は、真夏の強い日差しを反射し、ゆらゆらと光を砕いていた。

 雨降り小僧らに会ってから、数日が過ぎていた。あれから天気は快晴ばかりが続き、地面は埃っぽく、日蔭の草木さえしょんぼりと頭を垂れている。
 蝉時雨のなか、自宅の縁側から庭を眺めていると、ふと気付いた。
「今夜は、三日月か」
もぞっと体を動かし空を見上げるが、とぼけたような青空だ。そこに微かな曇り気もなく、雨など降りそうもない。綺麗な三日月が見えそうだ。
「まあ、狐の嫁入りなど、私には関係ないか」
 私はごろんと横になり、団扇でぱたぱたと胸元をあおいだ。割れんばかりの蝉時雨、時おり肌を掠める夏の風、風鈴の音。妙に心地良くなり、私は気づかぬ間に眠っていた。
 ――――――。
 真夜中だ。しとしとと、雨が降る。
 しゃんしゃんと、行列が行く。皆、晴れやかな顔をして。先頭には白無垢の。
 ああ、嫁入り行列だ。
 列の一番後ろには、狐たちが踊るようにつき従う。
 微かに見える、花嫁の顔。白い面に桃のくちびる。一瞬だけ見えた長いまつ毛に深海色の瞳。
 ああ、嫁入り行列だ。
 ああ、これは、これは。
 狐の、嫁入りだ。
 ――――――。
 はっと目が覚める。辺りに立ち込める静けさと暗さ。状況を理解するのに数秒かかった。
 昼寝のつもりが、思いのほか長く眠ってしまった。すでに空は暗く、真夏の夜風は何故かひんやりと冷たい。
 そこで、気づく。
「雨が降っているのか……」
音も立てずにしとしとと。ささやかに、ゆるやかに。雨が降っていた。当然、月は見えない。
 頭の中に、夢で見た光景がちらりとよみがえる。白い面に桃のくちびる――狐の嫁入り。あれが夢だったのか、それとも一瞬だけ迷い込んだ妖の世界での出来事なのかはわからない。
 暗い庭に目を凝らす。何も見えない。
 もしかしたら、目の前に妖がいるのかも知れない。だけれど別に私の目が妖を映すわけではないから、私にその姿は見えない。違う世界に迷い込んだ時だけ、私は妖の姿を見、その存在を知ることができる。
 私に特別なところなど、何一つないのだ。
 だけれど、今日は確かに狐の嫁入りだ。
 ふう、とため息をひとつ吐くと私は立ち上がった。ずっと床に寝ていたから、体の節々が痛い。座敷に入る寸前、ちょとだけ足を止め、耳を澄ます。

 しゃんしゃん、という澄んだ音が――囁くような雨音に混じって、聞こえた気がした。



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