呼び続けた。



2*呼び続けた。

 三月経った。何も起こらなかった。美浜と網元の息子との結婚は皆に知れ渡り、結納の日になった。けれど美浜は信じていた。誠吉の言葉を信じていた。信じるしかなかった。
 両家の家族が集まり、結納が執り行われる。この日を迎えるまでに美浜は何度、誠吉のことを父に聞こうと思ったか知れない。でもいつも寸でのところで聞かなかった。誠吉と約束したから。
 あの日、誠吉は言った。今日のことや私の名前は絶対に言わないでほしい、と。あらぬ不義の疑いをかけられたら一緒になれないから、と。美浜はその言葉を信じて、縋ってこの三月を過ごしてきた。
 結納までが限度だろう、と思う。これを過ぎたらいくらなんでも、誠吉と結ばれることはないだろうと考えているし、実際そうなる。そうして、今日は結納の日。美浜はずっと心の中で愛おしい人の名を呼んでいた。
 誠吉さん、誠吉さん、誠吉さん。
 呼び続けているとふと、あのときの情景が思い出され、甘美なひとときの想い出が美浜を取り囲む。想い出が手招く。意識を連れていく。
 ああ、体に力が入らないなと思ったときには、美浜はすでに倒れていた。
 美浜の意識はすぐに戻ったけれど、結納は慌ただしく終わった。美浜は己がどうして倒れたのかてんで見当がつかなかったが、きっと誠吉のことを想い詰めて疲れているのだと結論付けた。
 しばらく寝ていれば治ると思っていたのに、なかなか床はあがらない。それどころか吐き気がし、胸が重く、まともに食事もできなくなった。父親の機嫌が悪くなるのが目に見えてわかった。
 美浜にもどうして父の機嫌が悪いのかはわかっていた。美浜にとってもそれは少し恐ろしいことだった。誠吉がいればそれは至上の喜びになるけれど、誠吉はいない。心細くて、心の中で誠吉の名を呼び続けた。
 倒れてから十日あまり経った頃、ついに父親は産婆を呼んだ。美浜の立場を心得ている産婆は、ひどく難しい顔をして懐妊を告げた。父親は怒った、母親は泣いた、兄は何ごとか雑言を吐き捨てた後、二度と美浜の前に姿を現さなかった。
 きっと人は他人の不幸に飢えているのだ。
 美浜の懐妊はすぐに村の人々の知るところとなった。網元の息子との結婚は無かったことになり、それでまた父は怒った。
「相手は誰だ」
 聞き飽きた問いを父はまた言う。言い飽きることはないのだろうか。いい加減うんざりして、美浜は「誠吉さんです」と言ってしまおうかと思った。
 きっと誠吉の狙いはこれだったのだ。美浜は男女の情事について詳しくないが、きっと誠吉は女に必ず種をつける術を知っていたのだろう。美浜に子ができれば網元の息子に嫁ぐことは許されない。そこへ誠吉が迎えに来てくれるのだ。
 海なんてない、山奥の村で誠吉と美浜と生まれてくる子で暮らすのだ。
 幸せな想像に浸っていると、父親はため息を吐いた。
「お前のような阿婆擦れのせいで、どれほどこの家の名に傷がついたか考えろ。理一さんにもなじられると思うと、今から気が重い」
理一とは網元の息子の名だ。
「理一さんは今いないのですか」
 何気なく聞くと、父親は嫌そうに美浜を睨んだ。が、すぐにげっそりした顔になり話し始めた。
「ああ、ご友人の結婚式に呼ばれたというので、ここよりずっと南の山奥の村に行っているそうだ」
網元の息子の友人、ここより南、山奥の村――頭の中に誠吉の姿が出来上がった。
「そのご友人の名は」
知らぬうちに口を開いていた。
 父親の目がきらりと光る。やけに低い声で、答えた。
「誠吉さんというそうだ……お前、知っているか」
誠吉。びくりと、あからさまに肩が揺れた。父親は深く深くため息をついた。
「やっぱりな、お前は誠吉さんの顔を知っていたんだな。だからあのとき逃げたんだな」
「え」
少し、ずれている気がする。
 父親は構わず話を続ける。父親の中では全てが繋がっているようだ。
「理一さんとのことを言った日お前は小丘の社に行ったんだろう、逢引するために」
「そんなっ」
「そしてそれを誠吉さんに見られた。急いで身を隠したというのだから、誠吉さんが理一さんの友達であることも知っていたのか」
「だれが、そんな、ことを」
 なんとか言葉を吐きだした。父はある人の名を言った。網元の家の下男だ。
「あの日、散歩から帰った誠吉さんにそっと言われたらしい。私の見間違えかもしれないのですが、と前置きされて」
「なんで」
父は美浜の言葉を「なんて」と聞き違えたのだろう。それとも端から美浜の言葉を聞いていないのかもしれない。
「『理一君の婚約者だと思う人が知らぬ男と社に入っていった』と。下男もお前がこんなことになって、時期的にも合うから、知らせにきたんだ」
 その後もごちゃごちゃと、父は小言を言っていた。そのほとんどが耳に入らなかったが、唯一「誠吉さんのような人が家にきてくれるなら」という部分で父の話をさえぎった。
「誠吉さんは、嫁をもらったのではないのですか」
父は不審な顔をし、首を横にじった。
「誠吉さんは婿に行ったんだ。ここよりもちょっと南の海辺の町から、ここよりずっと南の山奥の村へ」
大した家柄でもない家の三男坊にしては良いところに婿に行ったよ、とどこか羨ましげな響きを持たせ父は誠吉の話を締めた。
 嘘だったのだ。やっとわかった。いや、やっと認めざるを得ない証がそろったと言うべきか。
 嘘だったのだ、ほとんどが。誠吉は罪な人だ。ほとんどの嘘の中にかすかな本当を含ませたのだから。
 美浜は心の中で誠吉を呼び続けた。
 誠吉さん、誠吉さん、誠吉さん、ねえ、あなた――あの時わたしに言った『愛してる』は本当だったの。

 網元の息子が帰ってきて、殴られた。妻にもならぬのに俺の顔に恥だけ塗ったな、と一度殴られた。誰も理一を止めなかったし美浜をかばわなかった。一度殴ったきり、理一はすぐに美浜の家を出ていった。
 腹が少し目立つようになった頃、美浜は家を追い出された。ほとんど荷物をまとめる間も無かった。家の中に生まれた恥は恥ごと捨てるのが手っ取り早いとでも思ったのだろうか。
 美浜は歩いた。南へ歩いた。誠吉の元を目指した。別にもう、一緒になってくれとは言わない。愛してくれとも言わない。嘘を見抜けなかったのは美浜だ。ひとつ勉強になったと思えば良い。
 けれどひとつだけ確かめておきたかった。あの『愛してる』は本当だったのかどうか。仮初めでも、愛してくれていたのなら生きていけるから。
 誠吉の元を目指す美浜を邪魔したのは皮肉にも腹の子だった。さらに皮肉なことに美浜が立ち往生したのは誠吉が生まれ育った海辺の町だった。ここもあまり、美浜の知る海と変わらない。
 持っていた金などとうに底をついていた。美浜の噂はここまで流れているのか、それとも身重の乞食など関わりたくないのか誰も美浜を相手にしてくれなかった。魚の粗をくれれば大したものだった。
 砂浜の朽ちかけた小屋だけが美浜の存在を許した。雨は何とかしのげるが風は駄目。美浜の嫌いな、べたつく潮風が絶えず吹いてきた。寝そべって眠ろうとすると木に染み込んだ生臭い海の臭いが鼻につき、吐き気がした。
 それでもそこにいるしかなかった。行きたい場所はあるけれど、迎えてくれる場所なんて美浜には無いのだから。
 遠巻きに美浜を見る人々を横目に、浜を歩いて海藻の切れ端で何とか空腹を紛らわした。時たま知らぬ間に、飯が小屋の前に置かれていることがあって、その飯を涙を流しながら食べた。
 そうやって辛うじていきていけた。腹もだいぶ大きくなった。この頃になると、美浜に少し構う者も出てきた。声をかけてもらうたび、嬉しくて涙が出そうだった。全てを失ったけれど、失って一から作っていくらこそ温かみがわかるのだと痛感した。腹の子が生まれたら、きちんと恩返しをしてから南を目指そう。
 きっとこのときが一生の内で一番幸せだった。分限者の娘であるときよりも、誠吉と交わった時よりも。
 きっと一番幸せだった。


 ああ、殺されるなと思った。
 ある真夜中、誠吉は前触れなく美浜の小屋を訪ねてきた。美浜は明日になったら、浜近くの婆さんの家に行くことになっていた。最近なにかと美浜のことを構ってくれる人で、あの小屋で産むよりはましだからと呼んでくれたのだ。
 でも約束は守れないな、わたしは殺されるから。ひどくすとんと、美浜は己の死を受け入れた。
 透き間風と一緒に降る月光が入り口に立つ誠吉を照らしていた。誠吉は社で初めて会ったときのように、穏やかな顔をしていた。物珍しそうに小屋の中を見まわし、最後に美浜に視線を戻した。
「ずいぶんと、まあ、落ちたね」
誠吉は美浜に一歩近寄った。
「ねえ、誠吉さん」
 誠吉に対する想いは無かった。聞きたいことがあるだけだった。
「別に誠吉さんのことを誰かに言う気はないのよ、わたし。ただ、」
「美浜、そういう問題じゃないんだ」
笑みを浮かべたまま言い、誠吉はまた一歩近くにきた。
「ねえ、誠吉さん」
「君が生きているとね、私が安心して眠れない。私にとって都合が悪いから。君は関係ない」
一歩近づく。
「ねえ、誠吉さん、聞いてよ」
「君を騙した理由かい。それは簡単、君が理一の妻になるはずだったからだ。私はあの男が大嫌いでね、家格で人を下に見やがる。あんな無能、恥を書いて良い気味だ。ねえ、そう思うだろう」
一歩近づき、手が伸びてくる。
「そうじゃないの。ねえ、あのね、誠吉さん、わたしのことを殺してくれても構わないのよ、だた、ひとつだけ」
 誠吉の指が首筋に当てられる。あの初夏のような甘たるい痺れは無かった。乾いた肌に乾いた指が食い込んでいくだけだ。
「ああ、殺すよ。殺す君が誰にも言わないと涙を流して言ったって、殺す。私は人間を信じない」
誠吉の手に力が込められていく。ああ、死んでいく、死んでいく。冷静に頭の隅でそう考えた。目の前はもう赤だか黒だか白だか青だかよくわからない色一色になっていて、何も見えない。
 死んでいくとしても、最期にひとつだけ。
「ねえ、誠吉さん、わたしのこと――愛してた?」
首を絞められたまま、押し倒される。もう潮の臭いもわからない。
 愛していたと、言ってくれれば、それだけで良い。嘘でもいいから、そう言ってくれれば。
 耳元でくぐもった声が聞こえる。
「美浜、人間は所詮、自分が一番かわいいんだよ」
とても見当はずれな答えだ。きっと誠吉は美浜の言葉が聞こえていなかったに違いない。
 そうして、そこで、美浜は死んだ。


 嘘でも愛していたと言えば、恨まれずにすんだのに。誠吉はとても残念。
 人の話はよく聞きましょう。

- 終 -



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